ジャーナリスト

【歴史エッセイ】 いまの世は末期ではない。ただ、德川時代の後期と重ねあわせる、と

 歴史はくり返す。

 いまはまさに分断社会である。新型コロナウイルスの急激な2波の拡大による自粛派がいる。かたや、経済政策から総予算1.7兆円の「Go To Travel」のキャンペーンの推進派がいる。

 新型コロナウイルスが、ペリー提督の黒船に例えると、どうなるのか。薩長史観=黒船から「幕末」ならば、コロナから「令和の末期」になってしまう。
 それは正しい表現ではない。
 いま国民にとって解決が見えない状況である。「今後の日本はどうあるべきか」と真っ二つに分断しているのだ。
 見えないものは不安であり、恐怖である。それぞれが意見と主張をもつ。ときには政権変動までともなってくる。
 

 歴史は用語でごまかされやすい。

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 わたしは、いま幕末と明治初期を一つ小説で執筆している。じつに難しい。なぜなのか、と疑問がわたしにつきまとう。そうか、「幕末」、「明治維新」という用語が「薩長史観」で、後から創られたもの、だから、わたしたちは思い違いをしているのだ、とわかった。

 德川政権の後期は『分断の社会」だと気づいた。

 ペリー提督の来航から、老中首座の阿部正弘が、開国・通商に舵(かじ)を切った。德川御三家の水戸藩の斉昭が、従来どおりの鎖国・攘夷(じょうい)を主張した。この対立が政権の崩壊までつづいたのだ。

 武士階級のみならず、農民も、町人も、黒船来航のあと、「わが国はどうあるべきか」と真剣に考えていた。まさに通商か、鎖国維持か、と意見が分断した社会だった。西欧列強への不安と危機が先行し、どっちが正しいか、誰もがわからなかったのだ。

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 現在、新型コロナウイルス禍で、日本人が「コロナ来航」の解決を模索(もさく)している。明日の生活と社会の変革を考えている。だれもが迷っている。意見がちがう。
 一人一律10万円、(親子3人だと30万円)。これはだれがいつ払うのか。これすら解決がついていない。
 私たちの子どもの世代が補うのか、孫の世代か。まさか、コロナ危機が先行した「食い逃げ」ではあるまいな。
 そんな考えならば、後世から現政権は罵声(ばせい)を浴びせられてしまう。

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 薩長史観だと、「安政の大獄」の下で、井伊大老がひとり悪者にされている。だが、かれ自身を克明に調べていくと、日本の取るべき道はなにか、と井伊直弼(いい なおすけ)は真剣に考えていた一人だった。


 
 13歳で紀州藩主の徳川慶福(よしとみ・のち家茂将軍)は、知的で性格も良好だ。のちの和宮との夫婦関係も素晴らしいものがある。一橋慶喜には決して劣らない。
 その人間味から、井伊大老が14代将軍に推したのもよく解る。

 攘夷派大名たちが、安政の5か国通商条約の抗議で、無断で江戸城に登城してきた。尊王攘夷派からみれば、日本の将来を考える、命を賭(と)した行為だったのだろう。

 これは武家諸法度からすれば、幕府への反逆行為であり、重罪だった。大老職の立場としては当然の処罰である。

「戊午の密勅」(うごのみっちょく)は、孝明天皇が水戸藩に勅書(ちょうしょ・勅諚)を直接下賜(げちょく)した事件である。
 仕掛け人ともいわれる西郷隆盛、公卿、尊攘派浪士たちは、日本を良くしたいとねがう「幕府改革」の手段だった。
 しかし、これは天皇家と将軍家との秩序を乱す、幕府への反逆行為である。これを認めれば、政権が危なくなる。井伊大老は徹底した取り締まりで秩序回復をめざした。

 攘夷派たちは罪のない無辜(むこ)の外国人を殺す。殺された側の本国の家族は、どれだけ涙しただろう。のちに初代内閣総理大臣になった伊藤博文も、暗殺者のひとりだった。
 幕府はそうした過激攘夷派を弾圧する。まさに、血なまぐさい『分断の社会』だった。

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 ペリー提督の黒船来航(1853年)以降から15年間は、日本人のすべてが「清国のように植民地になるな」という共通認識で一致している。だから、西洋の要望にそって仲よくする通商派と、西洋列強は怖いから日本に入れるなと攘夷派が叫ぶ。

 津々浦々の民までも、政治への関心度は、わが国の有史以来の最高だったかもしれない。
 当時は大政奉還(1867年)まで、倒幕など、だれも考えていなかった。ひたすら「植民地にならないために」と開国か、攘夷か、という方向の違いによる、分断社会であった。

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 大政奉還のあとに戊辰戦争が起きた。ほぼ同時代に、アメリカにおいても南北戦争が勃発(ぼっぱつ)し、戦死者はなんと62万人である。(米国の太平洋戦争の死者は約29万人)。
 当時の日米はほぼ同じ人口で、日本の方がやや多い。

 日本の戊辰戦争は、大名は1人も殺されていない。鳥羽伏見の戦いの死者は、双方併せても390人である。戊辰戦争すべての戦いを合計すると、8420人だった。

 日米の戦死者のちがいは、日本が「倒幕」という勝ち負けの戦いではなかったからだ。「統一国家」に従わないものだけを討つ。その姿勢に、だれもが逸(そ)れていない。
 だから、会津が白旗を上げて落城すると、西軍(官軍)はその場でさっさと解散し、みな自藩に引き揚げていったのだ。
 それは薩摩も、長州も、土佐も例外ではなかった。

 かれらの戦争目的は、「分断社会」から、「御一新」という統一国家づくりだった。決して維新(内部改革)の発想ではない。

 つまり、殺戮(さつりく)で血をながす分断はもう止めよう。日本は一つになろうよ。というものだった。箱館戦争が終結したあと、榎本武揚など、だれひとり死罪が出なかった。
「德川の有能な人材は、将来の日本のために必要だ」
 薩摩藩の黒田清隆がそう主張し、押し通したものだ。

 みんなが日本の将来を考えていたのだ。

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 わたしたちの日本史の教科書は、官製『維新史』(昭和14年に発刊)がベースになっている。その時代は日中戦争のさなかで、軍人政治家が国会を牛耳(ぎゅうじ)り、薩長史観がピークのときである。
 今日となっては『維新史』を鵜呑(うの)みにはで きない。勝ち負け。その勝敗の視点だから、德川政権が倒れることが前提とした「幕末」となる。
 実際は、当時はだれも幕府が倒れると思っていない。德川後期は、方向性と意見の相違による「分断社会」だった。そう教えるべきだろう。

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 新型コロナウイルス禍から、日本のみならず、世界各国のいずこも、いまは「分断社会」である。意見が異なる。

 中東のイスラエルが、新型コロナウイルスの第2波に見舞われている。第1波はうまく乗り切った優等国だった。
 しかし、経済再開に踏み切るのが早すぎたことから、ふたたび感染者の急増を招いた。 
 7月中旬から、プラカードを掲げたデモ隊が、首相公邸まえで抗議の声をあげている。イスラエル各地で、首相辞任を求めている。
 首相の支持基盤である右派や宗教勢力からの参加者もみられ、不満の広がりは深刻だ。

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 日本人は薩長史観=「幕末」の発想で、ものごとを勝ち負けの発想でみてしまう。

 本来は、首相が逃げ隠れせず、日々に国民のまえに立ち、コロナ過の分断した意見相違の溝を埋める努力をするべきである。
 それが政治であり、民の安堵につながってくる。

「政府は消極的なもので、法律が個々の人々を幸せにする、というものではない。国家がつくった制度は必ずしも、人々を救ってくれない」
 民がそれを知ったときには、政権の瓦解(がかい)がはじまる。

 260年間も盤石(ばんじゃく)だった徳川政権が、あっという間に、倒れる。それは歴史が教えるところだ。
 開国主義をつらぬく德川政権だったが、慶喜が唐突に逃げて攘夷にうごいた。それが結果として命取りになった。

 国家は国民によって成り立っている。国民一人ひとりの資質を合算したものだ。政権トップがその場のご都合主義や利己心で、方針をごまかす。すると、民のこころが離れて一気に瓦解する。

 德川後期の歴史から、それが学べる。

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 鳥羽伏見の戦いで、1万5000人もいた旧幕府軍だが、死者280人(大半が新撰組)でも、徳川慶喜が大坂からこつ然と消えたがゆえに、一気に崩れ落ちた。

 将軍(首相)が国民のまえから消えたまま、老中(大臣)に任せ切っていると、民の信用欠落となり、巨大な数で成り立つ政権でも、支柱を失い、一気に崩れはじめるかもしれない。

  
 海外において、アメリカの現職大統領すら日々、民の前に現れる。熱弁をふるう。ただ、徳川慶喜公のような、(選挙を意識した)ご都合主義、利己主義の動きに感じてならないけれど。
   

 このさき世界中で、コロナ過の失策で、政権がどのていど消えていくのか、いまはそれすら見通せない。
   

    写真引用 = ウィキペディア(Wikipedia) 

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