A010-ジャーナリスト

【歴史から学べ】  広島の県議、市議、市長が毒されたのはなぜなのか。(下)

「長崎には歌が、数多くある」、しかしながら、「広島には歌がない」。それはなぜでしょうか。私は講演会で、参加者に聞いてみる。
 長崎には、「長崎の鐘」、「長崎はきょうも雨だった」「長崎の女」「長崎エレジー」「長崎の蝶々さん」「長崎から船に乗って」と曲が次々出てきます。
「広島まではなぜ、歌がないと思いますか」
 唐突に、カープの歌がある、と一人が叫んだので、会場は爆笑でした。 

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 広島と長崎は米軍の原爆投下で焦土になった。しかし、歴史は戦争で失われていない。

 人物の好き嫌いは別にして、龍馬のいた亀山社中、グラバー邸、オランダ坂、幕府の長崎奉行所、長崎製鉄所、長崎海軍伝習所跡、唐寺など多々ある。
 由緒ある歴史の場所は、情緒や情感が満ちている。もう一度訪ねたいと思う。歌も生まれる。長崎の方は歴史を大切にしている。

 広島の歴史は戦国時代の毛利元就のみで、昭和20年の原爆投下でまでの歴史を消している。教えない。だから、歴史が伝わらない。
「歴史のないところには、情感豊かな音楽が生まれない」
 長崎観光はリピートがある。
 広島原爆ドームは近距離から見たら、もう2度は訪ねてこない。

 広島原爆による焦土は、約5~10キロていどの範囲内だ。それ以外は焼けてない。しかし、歴史学者たちは「原爆で広島の歴史の史料・資料が焼失した」というイメージに洗脳されている。だから、江戸、明治、大正などの歴史発掘は無関心である。

私は書斎の窓から、妻が咲かせたうす紫色に咲いたアガパンサスを見ながら、夏の気配をつよく感じている。と同時に、「8月6日の原爆投下」の日が近づいてくるな、と思う。
 わたしは、ふしぎに昭和天皇を思いだす。
 小学生のころの私は、同級生と通学路で、「ピカドン」の怖さを折々に語ったものだ。

 腕と肩に白いケロイドの原爆症をもった教師が「きょうも、平和教育だ」と言い、手作りの紙芝居を見せられた。大嫌いな授業だった。夜は恐怖で厠にいけず、がまんしても、布団に漏らしてしまう。

 大崎上島は離島の小学校だから、広島大学(旧・高等師範)の若い独身教諭が赴任してくる。実体験だ。真っ赤な炎、ドロドロに焼け爛れた手、黒焦げの少年の死体など一枚ずつめくりながら、戦慄と恐怖の場を語る。
 子ども心に、こんな戦争をした大人が悪い、昭和天皇も悪い、と思想に関係なく素朴に思っていた。
 
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 広島・長崎の原爆投下を指図したのは、米軍の空軍参謀総長のカーチス・ルメイである。

 戦後、昭和39(1964)年、ルメイに「勲一等旭日大綬章」が授与された。大学生の私は、さすがに耳を疑った。
 提案者は源田実(広島県出身)だと、当時いわれていた。決裁した首相は佐藤栄作である。ところが、昭和天皇は、「原爆投下責任者のカーチス・ルメイに、皇居で私の手から渡したくない」と拒否された。
 授与式は入間基地になった。

 天皇は戦争に心を痛めていたと報道で聴いていたが、本当なんだ、と私ははじめて認識を新たにした。

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 現代、こんな重大な事実すら広島人は話題にも、問題にもしていない。
 昭和天皇にすら反対された叙勲だった。広島人も、叙勲に反対と行動を起こしつづけるべきだが、なにが不都合なのか、叙勲から目を逸らし、被ばく=平和と声高に叫んでいる。これでは疑似平和だと思う。


 いま世界中で黒人問題から、歴史的な人物の銅像が次つぎに倒されている。それは歴史を正しく認識し、シンボルを否定しなければ、人種問題の新しい未来が築けないからだ。

 カーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を与えたのが、佐藤栄作元首相だ。現在の自民党総裁はその末裔だ。
 自民党本部から河井代議士の夫妻に、選挙資金1億5000万円が次ぎこまれた。報道によれば、広島県議、市議、一部市長らの選挙活動費につかわれたという。その数は90余人だという。

「悪質な体質を断ち切る。それには勇気が必要だ」

 心から広島が原爆=平和を叫ぶならば、カーチス・ルメイの家族から、勲一等旭日大綬章の返還運動は起こすべきだ。
「まずはルメイの勲一等旭日大綬章授与は誤りだと、県議会、国会で返還決議を採るべきである」

 自民党党首=首相である。敵にするかもしれない。しかし、亡き昭和天皇の意志でもある。歴史を正す勇気が必要だ。なぜ、国会決議か。

 そのためにも、もう一度、ここで明治時代に起きた20余年間の血と汗の「自由民権運動」を学んでもらいたい。
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 庶民は、封建制の徳川幕府が倒れたあと、新しい時代がくると期待した。しかし、農民・町人は、政治は武士階級が行うものだと信じて疑わなかった。かたや、福沢諭吉、中村正直などが西洋の民主主義を翻訳し、日本に紹介した。(~明治10年・啓蒙時代)

 
 西洋では、貴族でなく、平民が政治をおこなっている。
 ならば、日本人の平民も選挙で選ばれて『国会』で国政に関与したい、と考えはじめた。没落士族と組み合わさり、全国各地で「国会開設」運動がはじまる。


 明治10年には西南戦争で西郷隆盛が破れた。翌11年には大久保利通が暗殺される。ここから薩摩政治家のトーンが落ちる。長州閥政治家の独壇場になってくる。

 長州閥政治家と民衆の戦い。この構図が自由民権運動である。

 政府はきびしい弾圧をおこなう。福島事件、高田事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、静岡事件と、民はテロや蜂起で対抗する。

「板垣死すとも自由は死せず」
 このことばは自由民権運動の象徴である。大隈重信とともに日本最初の政党内閣を組織した。ついに、明治23年「国会」開設が勝ち取れたのだ。

 民間人は選挙で代議士になれる。その所属する『衆議院』が予算の権限をもつ。日本国憲法の条文に、それが明記された。
 これは画期的なものだった。政府は衆議院の予算承認を得ないと、国家の収入(税金)を使えないのだ。
 世界でも、政府の独走を縛る理想的な「国会」システムだと言われた。

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 その後、日清・日露戦争~大平洋戦争まで、民衆がつくった『国会』の機能は、軍人政治家部に弱められてしまった。
 しかし、国会には予算で軍事費を押える機能はまだ残っていた。
 東条英機は、衆議院の議員らが反東条が占めて、軍事予算が通らないといい辞職している。

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 あの昭和20年での東条英機内閣の当時すら、市民を代表する『国会』という機能が、東条英機を辞任に追い込んだのだ。
「日本の国会は、戦争でも死ななかった。日本人の財産だ」

 広島人よ、『国会』の議員は金で買うものではない。

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