【歴史に学ぶ】早大には医学部なし。慶応大医学部がコロナで衝撃の発表
東京都内で3月初旬、院内感染が次つぎに起きはじめた。その初っ端に、慶応義塾大学病院(新宿区)が、医者とスタッフから新型コロナ・ウイルスの感染者が出たと発表した。
「えっ、最先端治療ができる慶応大学病院が、コロナの院内感染に?」
東京都民はびっくりした。全国のひとも同様だったと思う。
新型コロナは大学病院すら、襲うのか。東京は危ないのか。その認識を新たにした。同大病院は永寿総合病院(東京都内)から転院したコロナ患者を受け入れた。その患者から感染したらしい。
(4月21日において、同大病院は感染拡大を封じ込めている)。
*
かたや、なぜ早稲田大学に医学部がないのか。慶応大も、早稲田大もあれば、補完できるのに、と思ってしまう。その理由は建学精神にある。
『われわれは福澤諭吉の精神にもとづき、患者さんに優しく、信頼され、先進的医療の開発、人間性と深い医療人の育成を実行してまいります。』
そのモットーが慶応義塾大学病院に掲げられている。
標語とはおおかた守られない、出来ない、だから、それを掲げることが多い。信号を守らないから、『赤信号で渡るな、命を落とす』と標語が生まれるように。
*
(2020年)4月23日の同大医学部は、
「院内感染を機に、複数の診療科で「COVID-19救命チーム」を結成しました。コロナ感染症に無関係な来院者67人にPCR検査を行ったところ、4人(5.97%)が陽性者だった」
と公表した。
慶大はとても勇気ある。まさに、福沢諭吉の建学精神が発揮されたのだと思えた。
*
東京都の人口は、昨年(令和元)10月1日現在、推計1394万2,856人である。
統計学の確率手法でいけば、約6%陽性ならば、東京都民83万6571人がコロナウイルス陽性である。咳、発熱、気怠さが出ていない無自覚のひとをふくめた数字である。
同大学医学部は東京の信濃町だから、全国に換算するのは良くないだろう。
いま、この場で全都民「3密」「外出自粛」の実行率が6割とすれば、東京都内で83万X4=約33万人の陽性者が街なかで行動していることになる。
慶大は、医学的な根拠をもって、重大な警鐘を鳴らしたのだ。
これまで日本政府は、韓国とか、欧米とかで導入する抗体キットによるコロナ検査(どの国でも数十万人)にたいして、やや懐疑的であった。腰を上げなかった。
しかし、日本でも最高医学の「COVID-19救命チーム」となると、無視はできない。政府もいささか慌てたようだ。抗体キットを開発し、抗体検査で、全国の自治体別にコロナ感染の比率をだす、という。
となると、なにかと「遅いな」と思う。でも、やってくれたほうがよい。どうせ、長期戦の戦いなのだから。
*
幕末の福沢諭吉は「学問のすすめ」とか、勝海舟との軋轢(あつれき)とかが有名であるが、かれが医者だったとか、伝染病との関りとかは、あまり知られていない。
福沢は大分・中州藩の下級藩士の出身である。
大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)塾で学ぶ。そこは全国から医者と蘭学をめざす者が、同塾に集まってきた。江戸の幕臣の「昌平黌(しょうへいこう)」と肩をなべるエリートたちの集まりだった。
福沢は緒方洪庵塾の塾長(トップ)だった。
中州藩の命令で、福沢は江戸に移る。築地鉄砲州で蘭学塾を開く。そのあと、咸臨丸(かんりんまる)で渡米し、勝海舟と仲が悪かった話しは有名だ。
德川幕府の遣欧(けんおう)使節団の一員として、パリ、ロンドン、ベルリンなどに出向く。病院、福祉施設を積極的にみてまわった。
戊辰戦争が勃発(ぼっぱつ)した慶応4(1868)年に、「慶応義塾」が建学された。初代塾長は広島藩領の奥深い(山県郡川小田村)農民出身で医者を目指す古川正雄(ふるかわ まさお)である。福沢は、上野で彰義隊が戦うさなかでも、慶応義塾で講義をしていたという。
旧幕府軍が敗走した。古川塾長はいかなる考えだったのか、慶応義塾を投げだし、榎本武揚らとともに箱館戦争に行ってしまう。あげくの果てに、艦長となった古川は捕まって東京で入牢だった。
福沢はなんども古川に差し入れに訪れた。
「それ見ろ。徳川はもう新政府にかなわない、勝負がついた、とワシがいうたのに、古川は塾長を投げだして参戦した。ざまあ、みろだ。解ったか」
と言いつつも、家族の面倒をみていた。
これが初代塾長の姿だった。
*
翌年の明治3年5月に、福沢諭吉は伝染病の発疹チフスに感染した。
当時の日本の医者は、だれも治療法がわからない。福沢はとうとう十数日間にわたり、人事不省に陥るのだ。
「横浜に、アメリカ人の名医のヘボンがいる。そこにたのもう」
と塾生が横浜にかけあった。
(ヘボン式ローマ字で、日本人ならば、小学生からなじみがある。生麦(なまむぎ)事件で、薩摩藩士がイギリス人4人を死傷させた事件のとき、重体の2人に外科手術し、その命を取りとめた)
「わたしは脳外科医と眼科です。伝染病となると、感染医学に優れた医者がこの横浜にいます」
と紹介されたのが、おなじアメリカ人医師のシモンズだった。
シモンズはアメリカ人医師だが、ヨーロッパに渡り、ドイツ医学の感染病、予防医学などを学んでいた。依頼されたシモンズは、すぐさま意識のない福沢の病床に駆けつけた。そして、当時の最新医学の治療と、栄養を施し、治癒(ちゆ)させたのである。
福沢の生と死とでは、明治時代の歴史が変わっていただろう、と思われる。
*
九死に一生を得た福沢諭吉は、明治6(1873)年に、三田の山の上に、「慶応義塾医学所」を設立した。
松山棟庵を校長とする医学所は、英米医学者を教授として招聘(しょうへい)し、7年間に約300人の医者を輩出した。このように、福沢諭吉が、感染病に対応できる医者の養成につくしたのである。
現在の慶応義塾大学病院が、初期の新型コロナ院内感染の失策にもめげず、複数の診療科「COVID-19救命チーム」を起ち上げ、いまのわが国のウイルス対策に一石を投じた。というよりも、日本中に重要な警鐘を鳴らした。
まさに、明治時代からの福沢精神が脈々と生きている、と思う。
*
なぜ、早稲田大学に医学部がないのか。多くの人が疑問です。いろいろな説があるでしょう。「無いもの」に対しては、いかような解釈もできますから。
大隈重信は第8代内閣総理大臣の経験者で、明治・大正における突出した著名な政治家です。当時の、中央集権制度の政治と経済(大蔵大臣も経験)をうごかした最大人物の1人です。
だから、早稲田大学は「政経学部」が強いのかな。まわりの早大卒業生や在校生に聞いてみてください。