A010-ジャーナリスト

【歴史から学ぶ】コロナ・ウイルスの世界惨禍から、将来を読み解く

 歴史とは、過去ばかりでなく将来と連結(リンク)している。
『先』ということばがある。「先(さき)の第一次世界大戦の状況下において」といえば、過去の表現である。「先々、この新型ウイルス問題が、世界に大きな変革を起こすだろう」といえば、まちがいなく未来の表現である。

 このように、【先】ということばは過去と将来をリンクしているものなのである。

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 人間の歴史は、細菌との戦いの側面が多くあった。有史から数々の細菌の歴史がある。それを一つずつ克服してきている。強い結核菌のように1000年~2000年にわたり、解明できず、ここ50年でやっと解決にむかえた。恐るべき細菌も多々ある。、

 2020年。いま起きている新型コロナウイルスは、武漢から世界中にまん延したが、細菌歴史学からみたならば、過去のどれに該当するのだろうか。はたして1、2年で解決できる菌か。50年先、100年先、あるいは200年先に、細菌学者たちの長期の研究の努力の末に、ふいに偶然から抗体治療薬が発見できるほど、時間を要すものかもしれない。

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 メディアに登場する医学関係者は、自称・ウイルス専門家の肩書で登場している。その上で、きょう現在のコロナ患者の数字の解説に終始している。今後を語るも根拠のない推量・推測の面が強い。なかには、占い師か、と疑いたくもなるいい加減な人もいる。

「来年のオリンピック前には、終息するだろう」
 それは単なる希望的な期待である。まったく根拠とか裏付けとがない。
 細菌歴史上から、コロナウイルスがどんな種類に該当し、開発治療薬ができる見通しにあるのか、としっかりした判断が示さなければ、願望の領域を出ない。
 
 つまり、細菌医学の菌との戦いの歴史から、今後のコロナ治療薬・撲滅を語らないと、解決への方向性を示しているとは言いがたい。
 それでなければ、、無責任きわまりなく、ただテレビ・新聞に出たい、それをもって知名度を上げたい、という自己顕示欲による発言と言われても仕方ないだろう。


 医学関係のコメンテーターは『検疫が終らないと、日本本土にいっさい上陸させない』という日本の歴史をご存知だろうか。
  

              
 ことし(2020年)2月3日、大型客船ダイヤモンド・プリンセス号が横浜港に入る直前に、日本の検疫官が乗り込んで乗員・乗客の3、711人の健康状態などの聞き取りをはじめた。これは国際法から認められた当然の権利である。

 さかのぼること1月25日に同船から香港で下船した80歳の男性乗客が、新型コロナウイルスによる肺炎と確認されていたからである。船籍も、船長も外国人である。乗客の国籍は多岐にわたっている。大半が西欧の富豪層のひとたちである。

 大勢の乗船員・乗客に対応できるだけの日本人医師とか、検疫官とかがすぐに横浜港に集められず、手間取っていた。(ふだん医者は手空きで遊んでいるわけではない)。所轄の厚生省で対応策を協議する間にも、船内で伝染が拡大していく。
 まさに、船内検疫は遅々として進まずであった。

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「船内では、コロナウイルスが急激にまん延し、大勢の乗船客が伝染する危機にある。それなのに、日本の対応が悪い、遅い」 
 海外メディアはことさら連日バッシングしてきた。

 なんと言われようとも、日本政府は乗船客・乗務員は検疫が済むまで、上陸させない態度をとりつづけた。
 かたや、多くの日本人は、これを支持していた。少なくとも、日本側から「人道的に上陸させよ」という抵抗・反発の声が少なかった。
 これは何を意味するか。
 そこには、日本人特有の歴史を感じさせるものがあった。

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 約165年前、嘉永6(1853)年6月に、アメリカから黒船が来航した。約1年前にオランダから黒船がくると事前情報があった。徳川幕府は水際の海防(かいぼう)作戦をとった。

 事実、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が浦賀に来航してきた。かれらが砲弾で脅しても、徳川幕府はすぐに対応せず、協議をつづけた。
 正式な返事を出さない。ペリー提督は苛立っていた。
 やがて、アメリカ大統領の国書を受け取ったが、幕府はすぐさま浦賀港から黒船を追い返した。

 半年後、ペリー提督がやってきて、さんざん脅す。徳川幕府はここで開国したけれど、貿易・通商となると、5年後まで先延ばしにさせた。

 安政5(1858)年の通商条約すら、異国人にたいしては横浜・函館・長崎の3港から、8里(32キロ)以内の行動に留めるものだった。
 横浜~東京は40キロである。つまり、異国人は横浜に来ても、江戸城下には行けなかったのだ。

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 老中首座・阿部正弘の開国から、大老・井伊大老の通商まで、この5年間の間に、わが国には異国人を排除する攘夷運動が、はげしく渦巻いた。

『聖地の日本を荒らすものは、一歩も上陸させるな」
 水戸藩の徳川斉昭(なりあき)の尊王攘夷(そんのう じょうい)の思想が、日本人に絶大なる支持を得たのだ。士農工商の階級を問わず、全国の寒村の末端まで、ほとんどの層が攘夷に賛同した。
 
 これは単に攘夷思想=鎖国にもどれ、という復古の問題だけでなかっのだ。そこには外国から来た細菌というとてつもない恐怖が日本人の底流にあったのだ。

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 安政6(1858)年に開港してみれば、異国人がいきなり長崎に細菌・コレラをもちこんだ。爆発的に感染した。またたく間に近畿圏(大坂・京都)・さらに東海道を東上し、江戸にまで及んだ。
『病気にかかったら、すぐにコロリと死んでしまうので、コロリと呼ばれた』
 日本中から、虎狼狸(ころうり)と怖れられた。


 日本中の優秀な医者が集まった緒方洪庵(おがたこうあん・大坂)塾では、コレラの治療がわからず、拡大が抑えられなかった。
 大坂では1日に800人が毎日、毎日死につづけた。
 江戸では100万都市だったが、合計24万人が死んだ。つまり、人口の1/4が死んだのである。

 全国規模で、どのくらいの死者が出たのか、明確な数字は残っていないが、日本人の1/4が死んだと類推できる。

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 倒幕といえば、尊王攘夷とか、薩長倒幕とか英雄史観で語られる。高杉晋作、西郷隆盛、坂本龍馬などが倒幕したといわれている。そういう歴史に陶酔しているひとも多い。

 倒幕の本質はちがう。

 外国から侵入したコレラ菌が、国内に猛烈に拡大したことから、全国の260余藩は大幅に人口を失った。田地の耕作者を失くし、大凶荒から、財政破綻を招いたのである。それが起因して、幕藩体制の基盤がおおきく崩れてしまったのだ。

 あげくの果てに、コレラの大流行が、260余年間にわたり泰平の世を維持してきた德川政権を瓦解(がかい)させてしまったのだ。
 それは横浜港が開港してから、なんと、わずか10年後であった。
 
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 私たちの立場からみれば、曽祖父の時代である。わずか150年前の出来事だった。その教訓が、
『そとから帰ったら、手洗いとうがいをしなさい』
 明治から始まった義務教育で、幼少の躾(しつけ)教育として組み込まれた。
 倒幕の歴史は薩長史観にしろ、庶民は「手洗い・うがい」という形として現代に続いているのだ。コレラの歴史から学んだ日本人の習慣になった。

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 あらためて、ダイヤモンド・プリンセスを事件としてみると、
 『聖地の日本を荒らすものは、一歩も上陸させるな』
 これらを歴史的に知り得ているから、検疫が終るまで上陸させないことに、日本人には抵抗がなかったのである。

 反発する外国からは、特別機の飛行機で、プリンセス号の乗客を引き取りに来た。ならば、異国人はまだ検疫が済んでいなくても、どうぞ、どうぞ、と引き渡す。

 まさに、江戸時代に日本沿岸で外国船が難破・遭難すると、異国人はオランダ船に乗せて、ジャワでさっさと当事国に渡しまう。帰国させたのだ。
 この事象とよく似ている。

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 このたびのダイヤモンドプリンセス号において、検疫結果が出ていない日本人はすべて船内にとどめ置く。この処置に対して、乗船者も、国内の一般人からも、「即時解放」という要求や反旗があがらなかった。
     
 江戸時代に話がもどるが、日本人漁民の漂流民は、外国の土地をいちど踏んだからには帰国させない。徹底した鎖国主義を貫いてきた。
 かりに帰国しても、長崎奉行所は長期に、2年も、3年も取調べる。それが終わるまで、有無を言わせず、隔離しておく。

 鎖国時代の日本人は、それが当然だと受け入れていた。遭難したのはあなたの運命だ。漂流民が可哀そうだ、という意識が日本人には薄かったのだ。
  当時は伴天連(キリスト教)の伝染を恐れていたからである。

 だから、プリンセス号の船上でお役人の検疫が終わるまで、つまり長崎奉行所のお取り調べがおわるまで、という共通の日本人意識が読み取れるのだ。

 約150年経っても、民族意識はそうそう変わるものではない。意識、無意識にも、歴史の上で、わたしたちのなかで脈々と生きているものだ。

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「歴史から学ぶものが多い」
 横浜に接岸したダイヤモンドプリンセスから、約634人の新型コロナの患者を出しながらも、同船を起点としたウイルスが日本全国にまん延しなかった。

 これは日本政府が、150年前の徳川政権がとった列島の水際作戦という海防政策とよく似た、強い強硬な施策を取ったからである。


 細菌の歴史も知らずして、無責任に放談しているメディア・コメンテータはこのところ実に多い。江戸城下は世界最大の100万都市でありながらも、コレラ菌の流行で人口の1/4になる24万人が死んだのである。

 150年経ったいま、東京は1000万人の大都市である。この先、人口に対する被害者比率はいかほどか。
 医者・専門家といえども、細菌史学をしっかり見据えたうえで、コロナウイルスを語るべきである。


 次回は、「明治時代の日清戦争・日露戦争後の世界でも類を見ない厳しい検閲制度」についてです。
              

             写真:Google写真・フリーより

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