A010-ジャーナリスト

北方領土の日 2月7日 日本政府の本気度を問う 

 新聞の片すみに、政府広報・内閣府『2月7日は北方領土の日』と掲載されている。新聞一面のコラムの真横だから、大きさの枠は押して知るべし極小だ。

『あなたの関心が解決の後押しに。もう一度考えてみませんか 北方領土のこと。』これだけのことである。
 地図で示された択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島がなぜ日本の領土なのか。それら記事は、新聞のどこにもない。
 日本人のすべてに、知ってもらう努力など、みじんもない、といえば、言い過ぎだろうか。

 この2月7日は、徳川幕府が結んだ日露和親条約が締結された日である。18世紀から約100年間にわたり、ロシアの南下政策で、蝦夷(えぞ 北海道)は、つねに危機にさらされてきた。双方で武力衝突もあった。捕虜の交換もおこなわれている。
 日本人がどこまで知っているのだろうか。

 阿部正弘が老中首座のとき、アメリカ艦隊のペリー提督が浦賀にやってきた。それは嘉永6(1853)年6月だった。幕府はペリー提督には1年後の再交渉を約束し、退去を求めた。それからわずか1か月ほどのち、同年7月に、ロシアのプチャーチン提督が長崎にやってきたのだ。
 黒船(蒸気汽缶の軍艦)の性能はロシアのほうが上回っていたかもしれない。


 日本はロシアにたいして、北方の国境決定という大きな課題があった。当時の阿部正弘政権は、ペリー提督は追い返したが、プチャーチンは長崎奉行に引き止めさせた。

 阿部正弘は、新興国のアメリカよりも、ロシアとの国境制定が最優先だと認識しており、最高のブレーンである川路聖謨(かわじ としあきら)、筒井正憲(つつい まさのり)などを長崎に送り、日露交渉に入らせた。つまり、ロシアの南下政策で、戦争になり、蝦夷(北方の島々と北海道)が奪われる危険があったからだ。

 長崎での交渉のテーブルで、ロシア側は当初、エトロフ島・クナシリ島およびカラフトはロシア系アイヌ人だと主張した。日本側は得撫島(ウルップ)まで、和人の支配地だという姿勢をとった。
 長崎での交渉は数回におよぶが、双方が妥協点を見いだせないまま、合意に達せず、先送りになった。

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 当時は英仏とロシアとがクリミア戦争のさなかだった。千島列島が戦場になる様子を呈してきた。
 蝦夷の地が、うかうかすれば、英仏露の三つ巴で戦場になる可能性が大きく、緊急課題となっていた。
 阿部正弘は情報収取で、有能な人材を蝦夷の探索につぎ込んだ。徹底的に探索・調査を行った。さらに、幕府の若き優秀な人材を箱館奉行において、臨機応変に処せる態勢をとった。
 ペリーが再来しても、薪水給与令(しんすいきゅうよれい)天保の改革のとき、水野忠邦が発布したもの、それを条約文にすればよい、と阿部正弘は考えていた。現に、その通りに処させた。

 しかし、北方の蝦夷(北海道までも)が西洋諸国の戦場となり、日本が巻き込まれる恐れが多分にあった。まさに世界最強のイギリス艦隊が、ロシア艦を追って長崎に寄港してきたくらいだ。緊急の度合いが違っていた。

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 翌年、奇跡が起きたのだ。

 プチャーチン提督の乗ったディアナ―号が、再交渉のために箱館に現れた。そして、大坂。幕府は日露交渉は下田で行う、と回航をもとめた。
 英仏と戦争状態にあったロシアは、前回の長崎は4隻だったが、今回は最新鋭の軍艦・ディアナ―号(約2000トン)はわずか1隻であった。乗組員は、提督以下501人だった。嘉永7(1854)年10月14日に下田港に入港してきた


 日露交渉の第1回目会談は、同年11月3日だった。翌日の同年11月4日朝の8時過ぎだった。東海大地震が起きたのだ。マグニチュード8・4である。伊豆下田は大津波に襲われた。下田は壊滅状態だった。ロシア艦のディアナ―号の船体が大破したのだ。

 どこで戦艦を修理させるか。幕府はそれに苦慮した。阿部正弘は伊豆半島の戸田(へた)へ回航し、修理させることに決めた。
 このとき、攘夷派の水戸藩の徳川斉昭(なりあき)が、「神風が吹いたのだ、500人全員を皆殺しにしてしまえ」と幕閣に迫った。
「人道的に、そんなことができるわけがない」
 阿部正弘は老中首座の立場から、御三家といえども、斉昭の意見を却下したのだ。


 ディアナ―号は修理のために、11月26日に、伊豆下田から戸田へと曳航(えいこう)された。富士山からの烈風の吹き下ろしで、同艦は田子の浦(宮嶋海岸)の沖まで押し流された。そのうえ、嵐が静まらず、渦まく荒波のなかで、ディアナ―号が沈没してしまったのだ。

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 ディアナ―号の航海日誌によると、
『沈没だ、私たちは恐怖と絶望にかられて叫んだ、この目に信じられないことが起きた。早朝から千人もの日本の男女が押しかけてきていた。私たちがボートで脱出し、荒波の海岸に近づくと、日本人は綱に身体を結びつけて、ボートが潮の引く勢いで、沖に奪われないように、しっかり支えてくれたのだ。善良な、まことに善良な、博愛に満ちた民集よ。この善男男女に永遠に幸あれ』
 と記している。

 海難の説明のあと、さらに、こうつづく、
『五〇〇人もの異国の民を救った功績は、まさしく日本人諸氏のものである。あなた方のおかげで唯今、生き永らえている私たちは、1855年1月4日(露歴)の出来事を肝に銘じて忘れないであろう』
 と記す。

『(海水に濡れた)厳しい冬の寒さの下で、われわれを保護すべき、宿舎を早急に普請してくれた。さらに言及するならば、宮嶋村では地震と大津波で、破損されなかった家は一軒も残っていなかった。かれらの人間愛的な心労は、とうてい称賛し尽くしがたいものであった』

 老中首座の阿部正弘は、ロシア人全員を伊豆の戸田村に移動させたうえ、攘夷派の殺害(さつがい)が及ばないように、厳重な警戒と最大の保護のもとにおいたのである。

 ただ、ロシア人は母国に帰る道が閉ざされいる。英仏は戦時でロシア海軍を追撃している。ここは、かれら自身がロシアに迎え船を呼びにいく必要があった。当時の日本は鎖国で、外洋船を建造する能力がなかった。

 ロシア軍艦には、海戦の砲撃で船体破損が修理できるように、複数の造船技師が乗船している。ロシア側の造船技術と、日本側は大工、加治屋などの人手を出し、材料を提供し、50-60人の外洋船の建造を許可したのだ。

 その一方、伊豆下田では、安政元(1854)年11月13日から日露和親条約の交渉が再開された。プチャーチン提督は、条約の締結に先んじて、
「このたび幕府の行為、宮嶋海岸の日本人の人道的な取扱いにたいして、ことばがないほど、厚く感謝しています。以降の私の命があるかぎり、日本のために悪しきことはいたすまじ。樺太のことなども、すこしもご心配にあらず」
 と述べた。

 日露和親条約

 第1条 和親の項目である。

 第2条、いまより後、日本国とロシア国との境は、択捉島とウルップ島の間にあるべし。エトロフ島の全島は日本に属し、ウルップ全島、それより北のクリル諸島はロシアに属する。
 カラフト島に至りては、日本国とロシア国の間において、境界をわけず、これまでの仕来りの通りといたす。
 第3条、日本政府はロシア船のために、箱館、下田、長崎の三港を開く。

 以下、第9条まで、列記されている。その内容は日米和親条約とほぼ同じである。


 安政元年12月21日(1855年2月7日)に伊豆下田の長楽寺において、日本とロシア帝国の間で日露和親条約が締結された。
 それが「北方領土の日」2月7日である。

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 政府広報・内閣府『北方領土の日 2月7日 あなたの関心が解決の後押しに。もう一度考えてみませんか』と言われても、誰にも、こうした歴史的事実が伝わってこない。

 国民の後押しを期待しているならば、沼津海岸の漁民が、真冬の海で、褌(ふんどし)一つで、荒波の海からロシア人を救出した。それも、大津波で村々が全壊していながら。徳川斉昭が500人のロシア海兵を殺せ、と言ったが、老中首座の阿部正弘は頑固として拒否した。

 このていどの日露和親条約の人道的な事実は、国民の基本知識として流すべきだろう。それをもって日本人の代表である日本国政府が本気で、日ロ交渉に向かいあっているといえる。

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 ソ連軍が昭和20年8月、終戦後に侵攻してきた。

 私は北方領土に強い関心があり、根室や花咲港や釧路になんどか出かけて、カニの密漁船の取材をした。危険を承知で生きる漁師たちを取材し、小説「潮流」で描いた。
 平成16(2004)年に、北海道新聞・いさり火文学賞を受賞している。

 このたびの著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)においても、第十六章「五百一人の遭難」で、克明に描いた。
 
 日露の間では、いまだ平和条約が結ばれていない。これは異常である。日米の黒船騒動や水戸藩からの尊王攘夷も結構だけれど、当時の歴史はそれだけではない。
 日露和親条約が人道的な対応で領土問題が解決をみた、日本人の外国人に対するやさしさと魂がそこにある。それをしっかり知るべきだと思う。


【関連情報】

「安政維新」(阿部正弘の生涯)(南々社)1600+税
 

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