ジャーナリスト

平和は戦争の仮面をかぶる(1)

 わたしは最近、徳川政権を倒す必要があったのか、と疑っている。教科書で、討幕は当然だと教えられてきた。その教えは正しいのだろうか。

 現代の視点で客観的に、日米通商条約の条約文を読めば、アメリカ側の方こそ、不平等だと怒ってもよいほど、日本が有利になっている。
 ここ2年あまり、わたしは幕末史講座で、日米和親条約の全文を一条ずつ読んで、研究してもらっている。異口同音に、「アメリカの方が、めちゃくクチャ不利ですね」とおどろかれている。
 明治の為政者が、「不平等条約だった、不平等条約だった」と決めつけたのは、現代のようにネットがないし、だれもが見ることができなかった。それを利用されたのですよ」と説明してあげる。
 さかのぼれば、天明・天保の大飢饉では、日本は食糧不足、人口増の慢性的な過剰人口に陥った。低い輸入関税の通商条約で、小麦粉、トウモロコシ、パンなど安価で大量な食糧物資が継続して輸入できた。飢えから日本は救われた。

 東北の諸藩など一つの藩で数万人、数十万人も飢え死するほど、飢餓の連続だった。攘夷派が主張通り、日本が開国しなければ、大変な天災による飢餓がつづいた。安政の通商条約のあとから、日本は飢饉が起きていない。(物価高の打ちこわし運動はあった)。

 はたして教育で習ったように、通商条約を結ばず、飢餓列島のままの方が日本は良かったのだろうか。国民が飢える。それを賛成する非人情な人は、現在ではいないだろう。

 餓死がどんなに悲惨か。雑草すら食べつくされてしまう。母乳が出ず、赤子が骨と皮膚になって死んでいく、五十歳になれば、姨捨山へ。二男三男は牛馬のように朝から晩まで働いても、凶作で稲が枯れね。食糧が尽きて大人も死んでいく。そんな世界はとても嫌だ。

 徳川家が判断した開国による通商条約は、継続的に、食糧輸入の大量の増加をもたらした。数十万人、数百万人の人命が救われたのだ。
 なぜ、現代の教育はここを教えないのか。歴史教育のなかに、一般庶民の目線が必要ないのだ。誰のための教育なのか、と疑ってしまう。

 徳川家の正しい判断だったはずだ。

 ペリー来航の直後、老中首座の阿部正弘は、『人が国家を救う』といっきに家柄主義から、人材登用は精鋭抜擢主義にかわえた。川路聖謨、永井尚忠、勝海舟、ジョン万次郎、なかでも、岩瀬忠震(ただなり)はとくに突出した人材だった。
「日本は岩瀬がいて幸せだった。ほとんど日本の言いなりの条約にさせられてしまった」
 ハリスが晩年に回顧している。
 岩瀬たちがハリスと延べ15回も会談し、粘りに粘られて日本有利な条約が締結させられたのだ。

 となると、二番手、三番手で条約を結んだ英、仏、ドイツ、オランダなどは、最恵国待遇から、岩瀬が結んだアメリカに右ならえになってしまったのだ。

 現代の教育者は、いまだ薩長政治家がねつ造した安政通商条約を悪の中枢のごとく教える。

 テロリストが井伊大老を狙われた理由は、水戸家と紀州家という徳川家どうしの将軍跡継ぎ問題であり、通商条約ではない。井伊大老自身は、勅許なしの条約締結に反対していたのだ。
ここからして違う。

 有能な永井忠震が、日本の将来を見渡し、通商条約に反対する井伊大老が示した開国条件の約束事のちいさな言葉尻を利用した。永井は『この条約が間違いなく日本のためになる』という確信の下に、わが命をかけて締結したものだ。つまり、確信犯だった。

 井伊大老は激怒して、長井をはじめとした条約締結の関係者を閉門・謹慎の処分にした。

 結果はどうだったか。日本は食糧危機から救われた。姨捨山の悲劇など皆無になったのだ。長野群馬、東北など、生糸輸出が盛んになり、大量の外貨が入り、餓死がなくなり、養蚕振興で潤った。海外の高度な産業生産物の輸入で、近代化が進みはじめたのだ。

 その日米通商条約の批准書交換で、小栗上野介たち3人の正・副使節団、伴侍たち約70人ほどがアメリカに渡った。小栗上野介たち遣米使節団が太平洋を渡り、なんどもアメリカ大統領にも、国務大臣にも会っている。(咸臨丸が遣米使節団を運んだは、嘘の歴史)。
 そこで見たものは、近代化された産業施設、民の豊かな生活だった。
 日本の将軍の外出は一万人の伴を連れる。大統領は伴などつれずに独りで、ぷらっと日本使節団に逢いにきた。この驚きは大変なものだったらしい。
 身分制度の破壊が強く印象づいたのだ。

 これからは大名家の政治じゃない。人民が、政治家を選ぶ社会に移行するべきだ、諸藩の政治から、大名を引き下ろし、身分が低くても県知事、州知事にする。使節団のほとんどが考えた施策だった。

 かれらはヨーロッパを回り、世界一周して帰国した。井伊大老は暗殺されていた。それでも、小栗上野介はフランスの資金導入を図り、開国による近代化を推し進めた。製鉄所、造船所、ホテル、総合商社、鉄道の発注、電信の導入など諸々のアメリカ・ナイズだった。

 大隈重信は「明治の近代化は、小栗上野介の真似ごとに過ぎない」とまで言われている。

 徳川家がそのまま新政権を担当していたならば、日本は大統領制になっていただろう。そして、欧米流の資本主義国家になったはずだ。

 資本主義とはひとことで言えば、「人」、「金」、「物」をまわして利益を創出することである。西洋諸国は産業革命後も、国内戦争なくして封建制度(経済用語)から脱却し、民を土地の拘束から解放し、自由に職業選択できる資本主義の国になった。

 19世紀の日本にも、その潮流がやってきた。商業が発展し、通貨システムはすでにできていた。徳川家は一歩を踏み出していたのだ。勘定奉行(大蔵大臣)の小栗上野介などは典型的な近代化推進派で、民間投資で、資本金100万両(現1000億円)の総合商社を作って成立させた。まさに、資本主義だ。

 徳川家のトップ層は、関ヶ原からの群雄割拠(大名家支配)の封建制から脱却し、中央集権政治となる郡県制(現在の都道府県知事による政治)をめざしはじめた。そのうえ、アメリカ式による大統領制までも検討していた。

 薩長閥の政治家でなくても、徳川家の有能な閣僚たちで、資本主義の新国家はつくれたと思う。帯刀禁止、丁髷などは西洋化でごく自然に消えていっただろう。西洋に貴族文化が消えたように。なにしろ技術の物まねが得意で、洋物・洋風の文化に敏感な民族だから。

 徳川家のまま政権を継続させていた方が、軍事国家にもならず、大陸侵略もなく、アメリカ方式の資本主義が発達し、太平洋戦争という悲惨な惨事まで引き起こさなくても済んだだろう。

 そのひとつの根拠は、徳川家が260年間にわたり一度も海外と戦争していない穏便な政権だったことだ。その実績は高く評価できる。
 最近では「江戸時代は鎖国」という認識は不適切だといわれている。徳川家は細々だが海外と交易しながらも、いちども戦争していないのだ。
 
 江戸時代で唯一、薩英戦争、長州戦争のみが外国との戦争だった。その当事者の薩長の下級藩士が、過激テロリストを国内にはびこらせた。徳川政権下の安定した治安をかく乱した。

 最近は、国立国会図書館や各地の大学・公文館などでデジタル化が進み、過激派攘夷派たちの日記や手紙などが、かんたんに検索できるようになった。これまで隠されていた新事実が次づぎに出てくる。

 薩長の密貿易。のみならず、たとえば大久保利通日記から、薩摩藩は大量の二分金の贋金を鋳銭し、大坂でばら撒まいていた。当人が記している。150年後に、贋金づくりの指図までも、克明に記録された自分の日記がデジタル化されるとは思ってもみなかっただろう。
 西郷は江戸では騒擾(そうじょう)を起こし、強奪、略奪、江戸城・二の丸放火、美女狩りなど、とてつもない不法行為をしている。まさに、市民の敵だった。

 大坂では贋金、江戸では騒擾、という不法な過激派だ。
 大政奉還で明治新政府ができたのに、薩長の下級武士の過激派が鳥羽伏見の戦いでクーデターを起こし、やらなくてもよい戊辰戦争で、政権を奪い取った。

 そのうえ、明治の政治家が幕末史を歪曲し、ねつ造し、義務教育制度を作り、全国民に嘘を落とし込みしてきた。
 西洋の植民地時代は無くなっていた。にもかかわらず、日本政府は明治以降の中国大陸への侵略の口実として、『日本は幕末から欧米の植民地になる恐れがあったから、軍備拡張は当然である』と教えてきた。
 歴史が軍事国家づくりに悪用された。軍国少年、軍国将兵が最も有能な人間だと信じ込ませた。教育の怖さである。

 いまならば、小学生でもPCで、日米通商条約の条約文を読める。第2条など読めば、日本がもはやこの段階で、欧米の植民地にならないとわかつてくる。
 当時は、不平等条約といえば、国民は信じた。「お上の言うことだ」という江戸時代の慣習が悪用されたのだ。教育者を含めて、国民はみな信じた。
 まさか、日米通商条約の条文が、一般庶民まで読める時代が来る、と明治政府は思わなかっただろう。
 現代の教育者でも、同条文を読まずして、薩長閥の政治家・学者のスローガン「不平等条約」をうのみにして教えているひとがいる。
 ここらは改善された方がいい。

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