A010-ジャーナリスト

かつては、俺にもこんな青春があったのだ=高間完・高間省三

 高間省三の甥(おい)が、高間完(たもつ)である。

 高間完さんは、旧日本軍の海軍中将・勲一等である。子孫の宅に、(2017年)5月におじゃました。完さんは、すでに亡くなられているが、さまざまなお話を聞いたうえ、写真、史料の提供も得られた。

 ふたりの人物には、戦争の時代に生まれたがゆえに、『戦場に命をかけた、それが青春だった』という共通点がある。
 

【 写真・裏面、ルビ以外は原文通り】

 この写真は、大正七年(1919)第一次世界大戦終了の翌年 地中海方面より旗鼓堂々凱旋の記念として撮影したもの。

 旁々(かたがた)Malta(マルタ・地中海の島国).Vallettaに大きな書肆(しょし・書店)を開いていた親友のmr.Dimeche一家に贈ったものである。

 かつては、俺にもこんな青春(二十六)があったのだ。

 然し、それは海軍のために、全てを捧げつくしてしまったのだ。何の惜気も、未練も、執念も、はたまた悔恨もなく‼
              (八十五歳誕生日偶感)


 高間完は、第二特務艦隊の橄欖(かんらん)に司令官として乗船している。マルタ島など、各寄港地が明記されている。(公的・奉職履歴より)。橄欖は駆逐艦だった。

 第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟の下で、旧日本海軍が第1~第3の特務艦隊をつくった。第二特務艦隊が地中海に派兵された。もっとも危険な海域に派遣されたのである。

 ドイツ潜水艦Uボートとの交戦など。1年半の派遣ちゅうに、同艦隊で雷撃をうけた駆逐艦「榊」乗組員ら78人が戦死した。


※1921年、昭和天皇が皇太子時代に、そのマルタ島のイギリス海軍基地に眠る日本海軍『第二特務艦隊戦死者之墓』に、戦没者の慰霊に臨んでいる。

※今年(2017)5月28日 安倍首相が同様にマルタ島を訪問し、同戦没者たちを慰霊した。


         【写真 : 高間省三 (撮影は慶応4年)】

 芸州広島藩の神機隊は、福島県・いわきから相馬藩・仙台藩連合の数千人の兵と戦う。わずか300人が激しく挑み、連戦戦勝の勢いをもって東北の雄・仙台藩を震えあがらせた。
 それがやがて奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の要である仙台藩の敗北、さらには戊辰戦争の結果につながった。(大山柏の戊辰役戦史より) 

 8月朔日に、戊辰戦争の天下分け目の浪江の戦いで、神機隊・砲隊長の高間省三は、敵陣の砦を奪った瞬間に、銃弾を顔面に受けて死す。


 旧日本軍において、軍人の必携書であった、『軍人必読・忠勇亀鑑』(明治26年1月発行)で、高間省三は『軍人は武勇を尊ぶべし』と優れた軍人のひとりとして採用されている。
 たとえば、徳川家康、加藤清正、新田義貞、佐々成政、前田利家、山田長政などがならぶ。戊辰戦争では高間省三ひとりだけである。

 かれの出征から3ページにわたり戦闘場面が紹介されている。結末には、

 江戸より奥州に向うとき、書を父に寄せて、いわく『兒(赤子・せきし)は、天皇のために死せん、と行動します。大人(親)は、願わくは喜びて哀しむなかれ、と。
 まさしく、その忠孝、義勇、天性に発するものなり。死するときは年わずか二十有二。筆は阪谷 朗廬(さかたに ろうろ) 【ルビ以外、原文通り】


 当然ながら、甥の高間完のポケットにも、伯父の載ったこの『軍人必読・忠勇亀鑑』が入っていただろう。


 親族の女性はインタビューのなかで、
「祖父・完をつねに尊敬していました。海軍兵学校には1年早く入り苦労したものだとか、いろいろ話を聞きました。しかし、伯父の高間省三はいちどもきいたことはありません。ネットで偶然にも、こんなも身近な、小説にもなる伯父さまがいたんだ、とおどろきました」
 と語っていた。


 高間完・高間省三、写真を見比べてみると、『俺にもこんな青春があったのだ』と燃える顔が似ている。

「ジャーナリスト」トップへ戻る