ジャーナリスト

瀬戸内の大崎上島で「桜田門外の変」の図と書状見つかる=大発見か?

 歴史小説を書いていると、思わぬ情報や史料に出合う。まずは「本物か、偽物か」と疑ってみる。後世に書かれた昔話しは、嘘が多い。その時代に書かれたものしか、私は信用しない。少なくとも、それを基準にして判断している。

 その時代の物証でも、書いた当人が意識してごまかせば別だが、おおかた本物だろう。たとえ、嘘を書いていたにしても、それを信じるよりしかたない。

 こんかい瀬戸内海に浮かぶ広島県・大崎上島で、「桜田門外の変」の略図と書状が発見された。貴重な史料だと思う。なにしろ、井伊大老が暗殺される現場の様子が克明に記されているからだ。

 なぜ、こんな島で、貴重な史料があったのか。ミステリアスである。


 井伊大老の暗殺場所は、絵図から、より絞り込んで特定できる。絵師による浮世絵では桜田門が強調されているが、(上段の史料)の目撃から、松平市正の表門が戦場だったとわかる。

 ことし(2014)12月11日、私の出身地の大崎上島に移住した布施氏と、葛飾・立石で、ひさしぶりに会った。布施氏は東京・葛飾出身であり、リタイア後に、同島に移り住み、島の文化活動に多くを費やしている。
「望月邸の襖の下絵から、桜門外の変の図と、書簡が出てきたのですよ」
 布施氏がおどろくことを言った。
「ほんとうですか」
 彼がスマホに撮影していたので、私はそのデータを貰った。これまで、(私の記憶の範囲)、文献では見たことがなかった、井伊大老が暗殺された現場の貴重な目撃証言だった。


  大崎上島とはどんな島か。
 本州・四国とも橋がつながらない、瀬戸内の孤島である。人口は約8000人。江戸末期から明治、大正、昭和にかけて海運、造船、塩田などで栄えた。当時は、約3万人ほどが住んでいたという。


 豪商の望月氏(同島・東野)は海運業者で、関西から芸州藩の御手洗、尾道、宮島の各港へ手広く物資を運んでいた。
 明治時代には内務大臣となった「望月圭介」の生家でもある。池田隼人や宮沢喜一の父親は「望月圭介先生は、私たちを政治家として育ててくれた、大恩人です」と語らしめている。


 往年の繁栄を忍ばせる見事な大邸宅である。このたび「海と島の歴史資料館(大望月邸)」と生まれ変わった。この改装工事の折、同家の襖の張替えが行われた。下張から、膨大な書類・書簡が見つかった。廃棄寸前に、郷土史家がそれを譲り受けて保管している。


 穂高健一著・幕末歴史小説『二十歳の炎』を出版した直後、知り合いの布施氏から連絡を受けた。「大崎上島の豪商・望月邸から、兵庫の木綿問屋の運搬記録がありましたよ」
 さっそく中国新聞『緑地帯』の連載コラムで、私が執筆した『広島藩からみた幕末史』に、それを紹介した。


 同『二十歳の炎』の第3章で、主人公・高間省三が老中小笠原の暗殺を語る場面がある。そのなかで、「井伊大老の桜田門外の変では、幕府や彦根藩は病死として片づけた』という下りがある。

 実際は、水戸藩からの脱藩浪士の17名と薩摩藩士の1名が彦根藩の行列を襲撃した、暗殺であった。


「なんで、瀬戸内の島に、こんな貴重な史料があったのだろう?」
 よくよく考えると、なんとなくひも解けてきた。

 幕末志士たちは西国を行き交う時、陸路でなく、その多くは海路を利用していた。芸州広島の御手洗・鞆の浦などはありとあらゆる志士が上陸している。とくに御手洗の遊郭が情報交換の場だった。(京都や長崎よりも安全な密議ができた)。

 望月氏はこの御手洗航路の最も大手の海運業者だった。なんらかの理由で、例えば、貧しい脱藩志士から船賃替わりで、貰いうけたとか……。
 あるいは、井伊大老暗殺に無縁でない薩摩藩の幕末志士が、秘かに持ち歩いていた可能性がある。「二十歳の炎」第5章でくわしく展開しているが、御手洗港は、薩摩藩の海外密貿易の拠点であった。港には薩摩邸があり、同藩士6-7人が常駐していた。
 望月氏が、薩摩藩士と親しくても、なんら不思議ではない。


 こんかい発見された史料の歴史的な価値を考えてみたい。「当月3日桜田御門大騒動」と、その月の内に、広く知れ渡っていたことだ。つまり、幕府が井伊大老の病死を発表する以前に、瀬戸内の島の海運業者が、「桜田御門前、松平市正様の表門で暗殺があった」と知っていたことだ。

 安政の大獄では、幕府が厳しい思想統制と弾圧をしていたが、情報統制まで及んでいなかった。それを物語る史料でもある。

 前夜から雪が降り積もっていた、暗殺現場の情景までもしっかり書きとめられている。幕府は、目撃者の口封じまで出来ていなかったのだ。 
 それにしても、襖の下張りがよくぞ廃棄されなかったものだと、感心させられた。

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