A010-ジャーナリスト

春の郊外を歩く、大震災を考える=作家として、何をなすべきか

東日本大震災から、約1ヵ月たった。日本人が一つになって、復興・復旧へと向かいはじめた。とはいっても、いまなお暗い雰囲気が漂う。

 メディアは相変わらず、政府関係者や東電をバッシングし、妙に利巧ぶっている。為政者を攻撃しなければ、知的集団ではないと、ジャーナリストたちは勘違いしているのではないか。そんな想いが強くなるばかりだ。

 今回の大震災の発生後から、私はどこかジャーナリストでなく、小説家として自分を置きたいと考えている。そんな自分を意識している。


       
 東京・仙台までの新幹線が開通した。被災した現地に足を入れようかなと考えた。いま出向いて、暗い報道ばかりを伝えても、大手メディアの二番煎じになるだけだと思い直した。
 
 状況が落ち着いた頃、ジャーナリストでなく、小説家として被災地に出向きたい。被災地で、人々が経験した「人間とは何か」という根幹を求めて現地を回ってみたい。
 単に事実の伝承、報道の上滑りでなく、災害時の人間の本心、本音、思考をさぐり出したい、浮かび上がらせたいというものだ。
  

 4月末の晴れ間を狙って、東北には向かわず、初めて目にする千葉県・柏市の郊外を歩いてみた。近郊農家もある。あけぼの山農業公園もある。
 田畑や花や土地の匂いを感じながら、いま文学は何をするべきか、何を書き残すべきか、と考えてみたいと思った。

  

 2008年2月、日本ペンクラブ主催の世界フォーラムで、「災害と文化」が行われた。国内外の著名な作家たちの作品が紹介されたり、朗読されたりした。

 大自然はある日突然、巨大なエネルギーで人間に襲いかかる。人間は為すすべがない。脆弱な姿をさらしだすしかない。
 人間が自然災害と立ち向かったとき、いかに弱いものか。そのなかで、人間は何を考え、どんな行動をするか、それらが作品化されていた。

 人間は自然災害を制御、防御、コントロールできる。そう信じるのは人間の驕(おご)りだと、多くの文学者・作家たちは語っていた。
 予想も、予知もできない。人間の思慮を超えたりするものだ。
 

 災害を被った直後、人間は何を考え、どんな行動をとり、どんな希望へと結びつくのだろう。
 希望が得られない人は絶望になる。

 

 だれがどこで、どのように希望という名の明日を得るのだろうか。それは現地で体験者に訊いてみるしかない。被災者たちはいつ本音を語ることができるのだろうか。
 
 被災者たちはいま、「心配しないで、大丈夫よ」と気丈夫な、元気な姿で、自分を鼓舞している。まだ、明日への希望があるからだ。
 
 いつしかボランティアも、支援者も少なくなり、行政も災害者に対する意識が薄くなっていくだろう。そして、話題の中心として、大震災が語られなくなる。他方で、限りなく忘れられていく。
 こうしたときに、文学の出番がやってくる。

 

 大きな戦争と大きな震災をともに経験した人がいる。いまは高齢者だが、歴史の証言者として健在だ。なかには広島・長崎・フクシマと核の怖さも体験させられている。

 昭和1桁台に生まれた人たちは、人類史上、最大の辛苦の体験をした、まれに見る世代かもしれない。
 私の身内にも、体験者がいる。

  仙台市内に叔父(若林区沖野)と叔母(泉区)が住んでいる。大震災後の4~5日ほど連絡がつかなかった。つい最近も、叔父と久しぶりに電話で話した。


 10代で中国・満州鉄道に勤務し、そこから軍隊に行き、終戦前に満州鉄道に戻った。20代で終戦だ。朝鮮半島を経て、日本に帰ってきた。
 広島は原爆による廃墟で職などなかった。一歳児を抱え、食料も満足になかった。


 

 当時の国鉄は、家族連れの社宅の空きがなく、雇用してくれなかった。北海道ならば、社宅があるという。広島からそちらに向かった。途中の仙台管区で、国鉄・子会社の職を見つけたという。

    
 それらの経緯から、仙台に移住し、老後も若林区に住む。永住の地となった。
 「この年で、仙台で大震災を経験するとはね。大津波が目前まで来たんだよ」
  そんな風に話す。

 文学の目で見れば、波乱の人生で、まさに長編小説の世界だと思う。


 柏市の郊外の春花が咲くなかで、大震災と社会と人間との関係をどのように結びつけて書くか、それをひたすら考えつづけた。

 いま東北の被災地に入り、小説の素材を求めると、作者の私自身が暗くなり、距離が取れなくなるだろう。もう少し、時を待とう。被災者から「人間とは何か」という本音が取材できるまで。


 

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