A065-東京下町の情緒100景

東京下町の情緒100景(091 母性)

 中川は下町・葛飾を縦断する。この河川は古くから氾濫の被害をくり返す、住民泣かせだった。天然の災害は容赦ない。あらゆる幸せを不幸に変えてしまう。

 治水工事で、放水路ができた。川が二股に分かれる、三角形の空地ができた。公園というには狭すぎる。空地というには整備されている。そこに『母性』の像が立つ。

 この地になぜ『母性』の像があるのか? 小説家の頭脳にはあるストーリー(フィクション)がひらめいた。 


  恋する女性は美しい。愛する男性と結婚し、歓喜の頂点。子どもを身ごもった女性は、胎動から母性が芽生える。出産。わが子に母乳を与え、ひたすら愛情をそそぐ。他方で、母親はあらゆる敵から、わが子を守る。

 ある日、大雨が続いた。ここ数日は降り止まなかった。
 河岸の一軒家では、20代の母親が赤子を抱え、不安な目で川の増水を眺めていた。夫は住民たちと堤防の補強で土嚢(どのう)を積み上げている。夜を徹した作業だった。

 三夜が明けても、雨はつづく。川の水位はなおも上がりつづけている。中川の濁流が土手を荒々しく削りはじめた。突如として、母子のいる河岸の家の地盤が割れた。一軒家は音を立てて傾いた。母親は恐怖で玄関戸を開け、戸外に逃げた。一瞬遅く、彼女の足もとの土手が崩れ落ちた。

 

 「あなた、助けて」
 彼女は悲鳴とともに、川に転落した。渦巻く濁流にさらわれた。母子の姿はたちまち消えた。
 遠巻きにみていた住民は手の施しようがなかった。

 翌日、母親は下流で発見された。死んだ母親の両腕には、赤子が抱きしめられていた。死しても、わが子への愛情は消えていなかったのだ。
 彼女の母性は永遠へと昇華した。いまや天使となったわが子を抱きしめる。
 
 夫は悲しみの涙で、きょうも『母性』の像を見つめている。

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