A065-東京下町の情緒100景

東京下町の情緒100景(088 夕暮れの慕情)

 下町の彼女は商家の娘だった。10歳も年上の男性に想いを寄せていた。かれは売れない戯曲を書いていた。彼女はふいに彼からデートに誘われた。
 ふたりは街なかで肩を並べて歩いた。公園でブランコを乗ったり、外食レストランで食事したり、会話が弾んだ。かれの最新作は『夕暮れの慕情』だった。今回もお金にはならない作品だったけど、落胆には慣れているという。売れない戯曲家は、フリーターで生活費を稼いでいた。


「ストーリーを聞かせて」
「淡く切ない愛の物語なんだ」
 かれがしずかに語ってくれた。
「かわいそうな恋人ね」
 彼女は哀れなヒロインに同情した。彼女自身は実に幸せなひと時だった。
「きょうは夜の帳(とばり)が下りる前に、君を帰してあげたい。また、逢おうね」
 かれは優しい口調でいう。
(夜になっても、いいのよ)
 彼女は自分のほうから言えなかった。


 数日後、かれから二度目のデートを誘われた。
「また、いろいろ話したいけど、ぼくの休みは水曜日なんだ」
「水曜は習い事で、都合が悪いの」
 彼女は心にもないことを言ってしまった。

習い事は月に一回だったのに。それすらもいかようにもできた。男の誘いにかんたんに乗る、そんな軽い女にみられたくない、という気持ちが心にあったのだ。


「あれは恋の序曲だけだったんだね。いい思い出だよ」
 かれのことばが胸に突き刺さった。
「悪いわね」
 彼女はあえて淡々とした態度をとった。
 誘いを一度断ったことから、かれは連絡をよこさない。切なかった。
(私って、愚かな女。二度目のデートを断るなんて)
 彼女は自分を責めるばかりだった。


 きょうも街のかなたに陽が沈む。藤紫色の空にはスズメが群れて、夜の塒(ねぐら)を求めて街路樹を渡り歩く。
 一日が終わろうとするたびに、かれの作品「夕暮れの慕情」を思い出す。作品は愛する人に逢えない、切ない女心を描いていた。それなのに、戯曲家のあなたはなぜ一度断られたからと言って、すぐ身を引いてしまうの。
(あなたは、女の恋心がわかっていない作家)
 彼女の心は沈むばかりだった。

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