A065-東京下町の情緒100景

東京下町の情緒100景(034  夕暮れの家路)

 どこからかチャイムが鳴る。夕暮れの決まった時間に、自転車にのった家路に向かう通勤者たちがやってくる。対岸の町工場からの帰りだ。橋を渡れば、わが家が見えてくるのか、漕ぐペダルも軽やかに見える。家に着けば、晩酌でいっぱい。そのまえにひと風呂浴びるのかな。

 仲間からいっぱい付き合えといわれた。「最近は付き合いが悪いぞ」と嫌味をいわれたが、断ってきた。妻子の顔を見れば、一日の疲れが早く取れる。居心地の良さが、わが家にたっぷりある。やはり寄り道は断ってよかった。

 橋の欄干のかなたには、夕日が静かに落ちてくる。東京湾の上空に広がる重い雲の底が茜色に焼けていた。先刻までは、雨を降らせたに違いない。雲の表情が変わる。


 燃える太陽が傾むくほどに、光の濃淡と影が鮮明になる。雲の表情が一寸を争うように刻々と色合いが違ってくる。天然の壁画だ。
 
 橋を渡る人たちの目が夕日に集まる。西方浄土の人生を想うひと、物悲しく思うひと、光の造形に惹かれるひと、情感と感動をおぼえるひと。それぞれ思いは違う。

 太陽が送電電線に引っかかり落ちてくる。夕日が橋底に潜り、光が川面まで落ちてきた。強い光の反射が四方に射す。
 
 橋上のほんものと二つの太陽の輝きとなる。厳粛な瞬間だ。下町に生まれ育って何度も見てきた夕日だが、飽きる光景ではない。いつも目を引寄せられる。

 夕日の儀式はだんだん幕引きが近くなる。上空の彩り豊かな残照には、一抹の寂しさが漂う。

 

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