A065-東京下町の情緒100景

東京下町の情緒100景 (行商のおばさん 008)

 成田方面から京成電鉄の行商専用車両に乗ってきた、農家のおばさんたち。青砥駅で下車したのは九時半頃。荷物を仕分けしてから背負いなおす。押上線に乗り換えていく。
 この道何年?
「さあね。嫁にきた頃だから、行商はもう何十年になるのかね。数えたことがないね」という八十二歳のおばさん。色気のあった女の盛りから、これだけの荷物を担いでいたのかね。

 押上線に乗れば、それぞれが下町の各駅に散るように、一人一駅ずつ下車していく。背丈を越える荷物だ。乗換えも大変だが、駅の階段も大変だろう。

 駅前の露天で広げた、野菜とか、漬物とか、ピーナツとか、みな自家製だ。ごく自然に客は集ってくる。味は語らなくても、下町っ子たちは幼い頃から、おばさんたちの野菜を食べて味のよさを知っている。

 自転車でやってきたおじさんが、「いつもどうりだね」といい、露天の商品を覗き込む。
「行商列車は、もうひと電車だけだからね。時間は狂わないよ」
 昭和三十年代の国鉄・成田線がまだ蒸気機関車だった頃を語る。

「この枇杷は、つやが良いね。もらっておこうか」
「いい枇杷を食べられるのも、いまのうちだよ。後継ぎがいないし、歩けなくなったら、この商売は終わりだから」
「長生きしなよ」
「あんたもね」
 という会話が毎回くり返される。

 売り手も買い手も、何十年もの間も顔見知りだけれど、たがいに名前は知らない
  

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