A040-寄稿・みんなの作品

「日記」が教える清白の実像 なぜ幻の詩人になったのか 伊良子 序

詩誌「孔雀船」百号に寄せて

 祖父・伊良子清白(いらこ・せいはく)が六十八年の人生で残した詩集は「孔雀船(くじゃくぶね)」一冊のみである。それも二十八歳での上梓だから、文学青年の感受性、美意識が生んだ「孔雀船」の作品には清白の人生のごく一部が投影されているに過ぎない。しかも、わずか十八編の詩が所収されているだけで、そのうち「漂泊」「安乗の稚児」が知られるものの、ほぼ幻の詩人と言ってよい。
 ずっと忘れられているのに、歳月をおいて再評価の波が起きる不思議な存在だ。

 唯一の詩集「孔雀船」の上梓は明治二十九年。東京で保険会社の嘱託医として働きながら、与謝野鉄幹の「明星」の編集に携わるなど中央詩壇で活動していた清白にとって、念願の初詩集だった。ところが「孔雀船」刊行の日の直前に、結婚したばかりの妻と乳飲み子を残して東京を離れてしまう。山陰・浜田の病院に副院長として採用されての決断だった。その後、東京に戻ることはなかった。
 地方で医師として過ごした清白は、いわゆる「文庫派」をともに支えた河井酔茗ら親しかった文学仲間から度々、中央詩壇への復帰を求められたが、それに応ずることはなく、次第に忘却されてゆく。

 突然、清白に光が当たったのは大正十一年。学匠詩人・日夏耿之介が雑誌「中央公論」の連載で「孔雀船」を明治の詩壇を代表する傑作と激賞し、大著「明治大正詩史」でも改めて評価した。その流れから、昭和四年に「孔雀船」は再刻され、同十三年、岩波文庫になった。
 だが、清白の反応はどこまでも乾いていた。岩波文庫に寄せた序文には過去と決別した思いが凝縮していて興味深い。印象的な序文は次の通りである。


 この廃墟にはもう祈祷も呪詛もない、感激も怨嗟もない、雰囲気を失つた死滅世界にどうして生命の草が生え得よう、若し敗壁断礎の間、奇しくも何等かの発見があるとしたならば、それは固より発見者の創造であつて、廃滅そのものゝ再生ではない。


 再び人々の記憶から遠ざかった清白に二度目の光が当たったのは、長い歳月を経た平成十五年のこと。詩人の平出隆さん(現・多摩美大教授)が幻の詩人に興味を持って、長年の取材、研究の末に「伊良子清白全集」二巻(岩波書店)と評伝二巻(新潮社)の刊行にこぎ着けた。協力したのは、私の父・伊良子正と叔父・岡田朴(すなお)だった。父と叔父は清白が残した日記や創作ノート、蔵書などを手分けして保存していた。それを平出さんに提供し、全集と評伝の出版への準備が整った。しかし平出さんや父の作業は難航し、約二十年もの時間を要して、ようやく形になった。

 岩波全集の上巻は詩歌編で「孔雀船」の作品のみならず、「孔雀船」には選ばなかった多くの詩やその後も作った詩、晩年に打ち込んだ短歌などが収められている。下巻には随筆、評論など散文と、残された日記のうち八年分が所収された。また新潮社の評伝「伊良子清白」は青年期から東京を離れるまでの軌跡が上巻「月光抄」、浜田時代から終焉までの日々が下巻「日光抄」としてまとめられている。

 平成になって再びよみがえった清白評価の動きは、出身地・鳥取と終焉の地・三重でも盛り上がり、鳥取では県立図書館が関連資料の保存に乗り出し、三重では診療所の医師として晩年を過ごした鳥羽市に文学館が開設されることになる。
 近鉄やJRの鳥羽駅に近い市の中心地に平成二十一年にオープンした「伊良子清白の家」は、かつて鳥羽市郊外の小漁村・小浜(おはま)にあった診療所の建物を移築したものである。一度は篤志家に買い取られて小浜から三重県・大台町に移築されていた木造の建物は、風雪にさらされ、かなり老朽化が進んでいたが、鳥羽市教育委員会を中心とする地元の熱意で解体・修理を経て復元された。鳥羽では命日の一月十日前後に追悼忌「木斛忌」も開催されるようになったが、コロナ禍などもあり現在は中断している。

 鳥取県立図書館の清白資料は、平成二十年に死去した父・正の遺志を継いで私が整理、寄贈した。父が長年病床にあったため資料は未整理のままで、かなりの労力を要したが、めぼしいものはなんとか寄贈することができた。

 資料の中でもっとも貴重なのは日記である。三十三年分の三十三冊。明治三十八年から書き始めた日記は、太平洋戦争末期に疎開した三重県大紀町の山村で往診途上に急逝するまで、空白期をはさみながら書き続けていた。鳥取、大阪、東京、浜田、大分、台湾、京都そして鳥羽と漂泊を続けた清白が保管し続けた日記には「生活者」として姿が克明に記されている。日記は現在、三十二冊が鳥取県立図書館に、明治四十年の一冊が鳥羽市教育委員会に所蔵されている。

 文学仲間との文通、職場の人間関係、家族の問題、自身の体調。淡々と記されている日常はあたかも医者のカルテのようだ。高潔な人格、強い正義感、俗を極端に嫌った純粋だが狷介な性格が反映しているものの、事実を克明に綴る姿勢は医者そのもの。父・正から聞かされていた清白像は、肉親ゆえの複雑な愛憎のからんだものであったので、日記によって私は初めて客観的に祖父を知ることになった。

 幼児期に母が他界し、医師だった父の浪費癖で背負うことになった多額の借財の返済に苦しんだ清白の人生は、かなり過酷なものであった。文学と距離を取らざるを得なかったのはそうした実生活上の制約もあったろう。詩壇の新たな潮流を受け入れられなかったのが中央との隔絶の理由のすべてではないのが、日記を読むとよく分かる。

 文学者であるより生活者として人生をまっとうした。それが幻の詩人、伊良子清白の実像である。鳥羽にある記念文学館が、生活と仕事の場であった診療所の建物であるのは好ましい。

 肉親としての清白への愛憎に苦しんだ父・正は鳥羽の記念館のオープンを見ることなく、その一年前に他界した。詩作に興味を持ちながら封印してきた父は、老いてから吹っ切れたように詩を書き始め、短い年月に六冊の詩集を上梓した。若き日の「孔雀船」一冊のみだった清白とは対照的である。


               伊良子 序(いらこ・はじめ)


(筆者略歴)
 鳥取県生まれ。新聞記者生活を経て、現在はフリー・ジャーナリストとして文筆活動。映画とのかかわりが長く、映画関連の著書に「昭和の女優」「小津安二郎への旅」「ジョン・フォード」。ほかに随筆「猫をはこぶ」、原発ルポ「スリーマイル島への旅」など。神戸市在住。

(写真説明)
① 三重県鳥羽市の「伊良子清白」の家
② 若き日の清白
③ 「孔雀船」初版本

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