【孔雀船98号 詩】 ダーリング夫人のキス 船越素子
更新日:2021年7月31日
ダーリング夫人には
だれにもあたえない
キスがひとつ
いつでも右の口もとにうかんでいる
ご亭主のジョージも
ウェンディも 弟たちも
もらうことができなかったキス
あの少年だけが
風のようなあいさつをして
受けとっていくのだ
バリはどうして
彼の物語の最初に
あんなことを綴ったのだろう
10歳のわたしには
人生の不思議な烙印だった
それに夕餉の支度をする
母の口もとにも
たしかに
ダーリング夫人のキスが
うかんでいた
近ごろは鏡のなかに
ダーリング夫人の
慕情に似たちいさな蔭を
わたしの口もとに時折見かける
それを誰にあげるのか
いえ、あたえてしまったのか
わたしにもわからない
ただ 銀行家のダーリング氏には
端から無縁なことなのだ
株や配当には とても素晴らしい
知識と才能をお持ちですがと
作家はすこしだけ辛辣だから
そんなことには関わりなく
わたしの口もとに残る痕跡は
胸の奥でひりひりと
キスの行方を捜している
失われた記憶と 何かを 何ものかを
尋ねかねているのだった
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