寄稿・みんなの作品

【寄稿・「未完の風景」より】 「まえがき」、「なかりしか」  神山暁美

まえがき
 
 もうすぐ平成の世が終わります。大正10年に生まれ、激動の昭和を生きぬき、私と暮らした平成の世は、父にとって穏やかな日々であったのでしょうか。

 「もはや戦後ではない」昭和31年(1956)版経済白書は、そう記して戦後復興完了を宣言しました。しかし父にとっての戦後は、未だ続いています。毎年8月15日が来るたび、昭和20年の夏に引き戻され、父の心の復興完了はまだまだ先のようです。

 そんな父を想いながらも、戦争の話にいっさい耳を傾けなかった私。うしろめたさを感じながら、ここに父を書いた七編の詩と、エッセイを纏めました。

 娘がこのようなものを書いていること、父は知りません。読んでいただきたい方の宛てもなく、詩集への明確な心づもりもなく、そのすべてを、詩友の村山精二さま(オフ出版)にお願いしました。

 戦後を引きずったままの父と、それを言葉にした娘が生きた時代があったということ、平成の世の終わりに、ひと区切りつけたかっただけかもしれません。

 写真は、いよいよ覚悟を決めた父が、軍服姿で撮った最後の写真のようです。裏に「二〇・五・二六 於・佐世保」と記されていました。

 私と父の戦後に寄り添い、この詩集を手にしてお目通しくださった皆さま、ありがとうございました。



なかりしか


一、 至誠に悖る勿かりしか

一、 言行に恥づる勿かりしか

一、 氣力に缺くる勿かりしか

一、 努力に憾み勿かりしか

一、 不精に亘る勿かりしか


 黒々とした筆文字、故郷の家の表座敷、襖を開けると真っ先に眼に飛び込んできた額。父の仕業だ。初めてこの部屋に通された客は、誰もが額を見て驚き、父の思う壺に嵌まる。そして、いつものように話題は海軍から始まることになる。


 私はそんな父がずっと好きになれなかった。
 八月六日のヒロシマ、その三日後のナガサキの惨状を想像できる年頃になると、父への嫌悪感はさらに増していった。誰もが悲惨だったと口にする戦争体験を、自慢げに語る父を恥ずかしいとさえ思うようになっていた。海軍に拘り続ける父、それを聞きながし諌めない母、親に不信感を抱きながら生きていたのだ。

 岐阜から栃木に両親をよび寄せ同居する際、私たちが用意した和室に「なかりしか」の額が架けられるのではないかと気に病んでいたが、私の想いが通じたらしくそれはなかった。

 父は今年九四歳になる。戦争映画が好きで、おしゃべりがいつの間にか海軍のことになるのは相変わらずだ。
 毎日一キロの道を一時間かけて歩いてくる。艦(ふね)の周りを難なく泳ぐことができた脚が、どうしてしまったのかとしきりに嘆く。


「戦ったことはあるの?」
 実戦の話をしない父に一度だけ訊いたことがある。
「あるさ」
 と言っただけであとは黙ったまま、戦の話にも海軍の話にも発展はしなかった。

「自分は生かされとんのや。仲間はみんな海に放り込まれて、遺骨さえ在らへんのやからな。生きなあかんのや」
 毎年、敗戦の日が近づくと訛り言葉で寂しげにつぶやく。

 夏のこの時期、故郷でよく同窓会が開かれる。
 青春の思い出を語り合いたくて、必ず出かけて行く私。父にとって海軍兵としての数年間は、まさに青春、輝いていた時代だったのかもしれない。
 戦友と共に乗りきった訓練、空と海、緊張の青に包まれた艦内での日々、語り合う友のいない思い出なのである。心の奥底に、多くの話せないことを沈めたまま、今日も父は重い足どりで時速一キロの散歩に出かける。私はインターネットで「なかりしか」を検索している。


一、誠実さや真心、人の道に背くところはなかったか

二、発言や行動に、過ちや反省するところはなかったか

三、物事を成し遂げようとする精神力は、十分であったか

四、目的を達成するために、惜しみなく努力したか

五、怠けたり、面倒くさがったりしたことはなかったか


パソコンの画面には「海軍五省(ごせい)」と記されている。


『詩人・神山暁美さんの略歴』

岐阜県・大垣生まれ

1988年 詩集『花思愁』 (私家版)

1989年 詩集『風詩集』 (私家版)

2001年 詩集『糸車』 (青肆青樹社)

2011年 詩集『ら』  (青肆青樹社)

詩誌「こだま」に寄稿

栃木県文芸家協会、日本ペンクラブ  会員

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