A040-寄稿・みんなの作品

【元気に百歳クラブ】あのころ 森田 多加子

 窓ガラスは、ところどころなくなっているし、残っていてもひび割れていたりする。そこから入ってくる風は、廊下を吹き抜ける。
 その廊下に、七人くらいだったろうか、小学校四年生の私たちは、窓を背にして、横並びに立っていた。いや、立たされていたのだ。

 第二次世界大戦の終盤に入ったころだった。こんな小さな町にも、敵機はいつやって来るかわからない。
 昼は偵察機らしきものが飛び、空襲になるのは夜が多かったと記憶している。いつ死ぬかもわからない毎日は、子どもにだって伝わってくる。あまり楽しいこともなく、それでも毎日学校に通っていた。

 学校では、授業が終わると掃除が始まるが、それも軍隊のように、規律正しくがモットーだ。
 この日の私は掃除当番だった。教室の掃除が終わると、みんなで板張りの廊下を雑巾掛けする。誰が言い出したのか、四人が横並びに一列になり、腰を高くして「よーい、どん」で、まっすぐに進む。
 ぶつかり合いながら教室の端まで来たらUターンする。
 廊下を雑巾掛けしながら必死に突き進む。思わず大声がでる。首をすくめながら、口に手をもっていき、「しー(静かに)」と言いながらも、みんなにこにこ顔になっていた。

 掃除が終わると整列して班長が「ありがとうございました」と号令をかけ、みんなが復唱して解散する。そういう『決まり』を、きちんと守るのが当時の小学生だった。

 その日は、廊下を雑巾がけしながら「運動会」になったので、気持ちも高揚していたからだと思う。班長だった私は、笑いがとまらないまま、整列後の挨拶で「ありがとうございませんでした」と、何の意味もなく言った。
 当番仲間は、大声でそれに和した。


 隣のクラスの佐藤先生が、笑いながら出てこられて、「あら、あら」と言って、教員室の方に行かれた。
 翌日の朝礼の時間、クラス担任の田中節子先生が、速足で教室に来られた。頭から、顔から、湯気が出そうな雰囲気だ。教卓の前に立つやいなや、
「きのうの掃除当番の班長さんは誰ですか?」
 私は、おっかなびっくりで立ち上がった。
「掃除後の挨拶を言ってごらんなさい」
「はい……、ありがとうございました」
 すかさず先生からの言葉、
「昨日、そういいましたか?」
「……」
「何といいましたか?」
「……」
「ありがとうございませんでした、とは何ごとです」
 烈火のごとくという言葉があるが、まさにそれだった。

 田中先生の顔は、湯気を通り越して、炎のように真赤だった。もともと明るい笑顔を見せたことのない先生だった。おかしい時は、口をちょっと歪めて笑う顔しか覚えがない。
 そんな田中先生からの雷だ。怖かった。内容は全く記憶にないが、戦地の兵隊さんに申し訳ない、というようなことだったと推測できる。

「昨日の掃除当番は、全員起立。廊下に出なさい」
 顔を見合わせながら教室から出て、廊下に横一列に並んだ。立たされたのだ。
 国民学校(小学校)に入って以来、私は、先生に怒られたことがなかったので、この屈辱は耐えられなかった。しかし、この日の田中先生の怒りは尤もだ。私が大事な規律を乱したのだ。班のみんなに悪いことをしてしまった。
 
 田中先生は三十代だった。その時代には、まわりにたくさんいたフツーの大人と同じように、ただ、おかみ(政府)に言われる通りに、必死で生きていた真面目な国民であったと思う。
 当時の経済的にも、精神的にもゆとりのない殺伐とした生活の中で、「お国の為に」というスローガンを信じて、まっすぐに生きていたに違いない。

 現在、日本人のほとんどが、あの忌まわしい戦争を知らない世代になった。体験していても、幼少のことだ。記憶が覚束ない人もいるだろう。
 少しは覚えていると思われる人は、八十歳以上になった。映画やTVドラマで戦争のむなしさを描いても、どれだけの人が自分のこととして捉えることが出来るだろう。

 知り合いのおばさんが、爆風で屋根の上に吹き飛ばされて死んでいた。同級生のアヤちゃんも死んだ。私は決して「あの頃」を忘れない。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

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