A040-寄稿・みんなの作品

春末峡 第3章 黒淵を継ぐもの = 広島hiro子

 黒淵にたどり着いた。
 いつの間にか白くしぶきを立てる水音が途切れ、双璧に囲まれた黒淵の静けさが、また別世界を思わせる。舟付き場から先に見える水面は、風にそよぐほどの小さな波があるだけで、その色は深い碧色をたたえていた。垂直に伸びた岩壁が見上げるほど高く陽をさえぎり、なおさら深淵さをただよわせていた。

 ここは観光案内の紙面を飾る名所のひとつだ。川を行く渡舟と、山道を辿る登山道がある。舟は例年なら4月終わりでなければ運行していなかったが、今年は半ばからはじまっていた。智子と後藤信弘の二人は迷わず、登山道ではなく渡舟を選んだ。

「黒淵」の文字を入れた青Tシャツの若い舟頭が、片道か往復かを尋ねた。片道300円で、往復は500円だという。智子が山道もあるからと片道と言おうとすると、信弘が智子の肘を軽く抑えた。智子が言葉を失くしたすきに、ズボン内ポケットから素早く舟頭にお札を手渡した。
「往復。ふたりで1000円だね」


 平たい舟に先頭と後部に分かれ、前に中年の男性と、後ろに智子たち、舟頭が乗り込んだ。板だけを数枚左右に張った舟椅子の後部に信弘が座ると
「帰りはきっと疲れてるから。こうやって舟で座っていれば、一休みにもなる」
 と、小さくつぶやいた。
 智子は何も帰りまで同じ景色をみなくてもいい、と言おうとしていたが、なるほど運動不足とストレスとで疲労気味の智子にはちょうど良かった。運動用の靴を履いてこなかった智子には、なおのことありがたかった。
「気を使ってくれてるのね。なんだか昔より優しくなったみたいね」
「いや、そんなもんじゃないよ」
 彼は照れているのだろうか、だんだんと深くなっていく水底をじっとみつめた。

 若い舟頭は、5メートルほどの竹竿を水底に押し付けながら、ゆっくりと川上へ向かう。エンジンのような器具は何もなく、竹竿のみで舟を渡していた。
 先頭にひとり座る男性は、作業着の身なりからして少なくとも観光客ではないらしい。どうやらこの地の人のようだ。20代に見える舟頭さんは智子たち二人に、風景の説明を始めた。
「雪解けの水も含まれていて、この時期でも冷たい水の流れとなっています。
 水底に敷き詰められた丸石が透けて見え、浅いように感じらえますが、これでも3.4メートルの深さです。石の表面に小さな巻貝があるのがおわかりですか。これが蛍のエサとなるカワニナです。7月半ばには、夜の景色を薄明るくするほど蛍の群れで・・・・・・すぐ先は深さ5メートルになります。この切り立った崖に……」
 と慣れた口調で、渓谷美を伝えてくれた。

「なんだか貸し切りみたいね。申し訳ないみたい」
 智子の独り言のような問いに、舟頭が答えた。
「今年はちょうど数日まえから再開したばかりです。年によって変えたりするので、最初はお客さんは少ないです。ゴールデンウィークでなくて良かったですよ。それに秋なら、もっと並んで待つようになります」
「まあほんとに? ちょうどよかった。こんなにゆったり満喫出来て。運が良かったのね、私たち。いったい誰の運かしら」
 21歳で後藤と新婚旅行に行ったことを、ふと思い出した。別れて25年もたったのに、まるでつい数日前にも思える。
「運がいいのが僕ならいいけど、それはきっと、トモのほうだよ。君は自分では判かってないだろうね。君がものすごく強運の持ち主だってこと」
 後藤はまるで自分のことのように嬉しげに笑った。 

 舟は、いちばん深いあたりをゆっくりと漂う。もう少しで岩壁に根をはった山すみれに手が届きそうになった。見上げると、岩苔をたくわえた岩壁は天高く続き、その先さえ見えない。智子は幽玄な自然美に浸りながら、後藤の言葉をおぼろげに聞いた。
(私、運なんて強くないと思うけど・・・あれ? トモって今日、初めて言った?・・・・・・なんだか、昔行った新婚旅行みたい・・・)
 涼やかな波に揺られ、ゆったりとした時に流される。

 知らぬ間に、智子の数日前の仕事の悩みは、どこかに消えてしまっていた。

「その昔は水底が見えないくらい深く、黒く見えたので、黒淵という名前が付いた、というのがここの由来です」

 確かに水の色は緑碧色にみえるが、黒淵という名前のように黒とまでは言い難い。真下をのぞくと、しっかりと水底の石の形や模様まで見えた。
「石が丸いね。山道に転がってたのは、みんな角張ったのに」
 智子が独り言のようにつぶやくと、若い船頭は聞きもらさず答えた。
「この渓谷の強い流れが岩をまるく研磨するんです」
「え?ここは流れが少ししかないのに?」
「船底に見える丸石は、集中豪雨があるたびに、上流から流れて溜まったものです。聖湖のダムの建設で出た石や、岩雪崩で積もった石が集中豪雨で、徐々に黒淵の底に積もるんです。ここまでの話しは、あまりお客様にしないんですけれど……、今は流れてくる石に黒淵が埋められないように格闘してますよ」
「どうやって? 流れ込んでくる石は積もる一方だろう? ダムによらず、最近の豪雨も昔よりひどくなってきているし」
 後藤が身を乗り出した。
「以前より確かに浅くなってきてますね、黒淵は。昔は11メートル以上の深さがありましたから。だから時折り石を掻き出して、下流に押し流すんです。ひどい時には黒淵の底の石が水上につもり上がってきたこともありますよ」
「たいへんそう。自然の美しさもずっと同じじゃないものね。ここを守るのにも大変なことはあるのね?」
「そうです。ここは渓谷で、海に近いような幅広い川ではないので、集中豪雨の時はひどいことになります。石が流されるだけでなく、10メートルほど水かさが上がってくる時があるんです。あそこに見える茶屋のすぐ下まで、水が渦巻いてました」
 ふたりは唾をのんだ。この黒淵を10メートルもかさ上げする水量とはどのくらいのものだろう・・・
「津波みたいだね。家まで持っていかれそうじゃないか。怖いな……」
 静かな時には幽玄なたたずまいを見せながら、やはり自然の力は計り知れないものなのだ。
「ええ、実際、昭和63年には、あの茶屋の一階の丈半分が水に浸かりました。サッシも、押し入れも布団も何もかも流していったそうです。茶屋は辛うじて残りましたけど」
「うう……ん、恐ろしい。人なんてあっという間に飲み込まれそう。でも、あの建物もよく流されなかったけど、茶屋の目の前の大木も、良く流されなかったわね。あれば何の木?」

 茶屋よりも1から-2階分ほど下にある一本の大木は、ゆうに20メートルの高さがあった。63年の豪雨では、ちょうど川の中央で、踏ん張っていたことになる。20年近く前なら、木の先端近くまで豪水にまみれていたにちがいない。今では遠くから見ても堂々とした大木だが、新芽が吹き始めたところで、それが何の木の葉なのか、見極めることができない。
「あれば、ケヤキの木です。もう50年以上になります。僕がちょうどその半分の齢ですね。良く流されずにいるって、母がいつも言ってます。母がここに嫁に来た時は、まだ腕くらいの大きさだったそうです」
 智子は背筋の寒気を払いながら、話をつないだ。
「あ、お若いからアルバイトさんかと思っていたけど、こちらの息子さんな
んだ?」
「はいそうです。今は僕がここをやってます。よくいわれますよ。アルバイトかって」
 20代半ばという青年は、さわやかな笑顔で返してきた。

「小さい時から、ここを手伝ってます。祖母の代からずっとです。これからも僕がここを繋いでいきます。外国人のお客様も増えてきてますし。母では対応しきれないですからね」
そう言えば、あらかじめ見てきたHPに、フランスのミシェランで三ツ星をとったと紹介されていた。やはりネットの威力はものすごく、急に異国の観光客が増えたのだと、若い経営者は話してくれた。
 飾り気のない素朴な舟渡しの旅は、またたくまに間に終えた。青年は別の客をのせて、今度は舟を下った。
 青年は過酷な自然と、立ち替わる様々な客の対応に相対する。その背中は、黒淵を担い、心なしか頼もしく見えた。
 ケヤキの木は、もう流されることはないであろう。そして、この黒淵に深く根付いていくのだろう。

「ひとと自然か……。今日はいいもの見せてもらったな。来てよかっただろう」後藤は満足げだった。
 智子は黙ってうなずいた。

(おとといまで、仕事でがんじがらめになっていた私をここまで解放してくれた。それはこの深い自然の力なんだわ。ここに住む人も木も草も、生き物たちもすべて。そして、あなたのお陰でもあるのよ。でも、あなたにとって、これが目的ではないはずなのだけど・・・本当は観光旅行のつもりではないでしょう?あなたの言葉を聞かせて、ヒロさん)

 ふたりはそれぞれの感慨をもって、黒淵を後にした。

                       【つづき】

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