A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・掌品】 春終の三段峡 = 広島hiro子(2)

 信託銀行機関の中でも、投資部門を勤める日丸智子は、12年ほど経た投資のプロだった。
 そんな一見先端の仕事を引き受けてはいるが、もともとは自然大好きの田舎育ちだ。かつて父の実家の母屋では猟犬のポインターを飼い、父はよくいのしし狩りや、きじを撃ちに出かけていたのを覚えている。

 猟にこそついては行かないものの、四季折々の山菜取りはもちろん、海に行けば海の幸を夕暮れの浜辺で思う存分食したりした。素もぐりでサザエやあわびを取ってくる父は、子供心に何でもやりこなす頼もしい父だった。

 小学3年生のときの記憶は、今でも艶やかな深い青の色彩とともに鮮明に心に残っていた。
 山深い笹の茂みで、独り身を潜めじっとしていると、頭上にはじめて見る瑠璃色に鳥がいた。そのつやつやと光る瑠璃色の長い尾っぽの主は、智子の幼い心をとりこにした。
 るり科の中でも今では貴重な「おおるり」という中型の野鳥であった。それは智子にとってまるで昨日のように思い出される、心躍る特別の一枚の写真になった。

 そんな自然のかなで、自由に育った娘にとっては、いくつになっでも山や海は母の懐のようなものなのだ。三段峡の手付かずに近い自然は、智子の幼子心を呼び戻しかけてくれた。

 しかし、昨日まで仕事上のミスでこの世の終わりのごとく悩みながら、今日はどこ吹く風ではあまりにゲンキンだと自分でも思う。それに昨日のファミレスでの会話にもこだわっていた。智子はなるべく後藤に気づかれないように振舞った。

 渓谷の入り口で、そんなことを思いながら、だんだん日差しが強くなる春の日差しを手かざししてよけた。少し先を歩いていた後藤が戻ってきた。
 日差しに顔を曇らせる智子を見て
「まだ、気にしているのか?」
 と智子に声をかけてきた。
 本当は気分が高陽しはじめている自分を隠して彼女は答えた。
「そんな単純な問題じゃないわよ。あっちもこっちも頭が痛いわ。」
「そうかもしれないな、昨日の話しじゃあ・・・まあ、君は忘れるのか得意なんだから、気にするなよな。」
 智子は自分が健忘症に近いことを気にしている。
「一言とげがあるひとね。あなた昔からそんなんだったっけ?」とふくれっ面を見せて、先をきって歩き始めた。
 例にもれず、道の地図、案内が表示されている。
 一日かけて全部を見て回れば、半日は必要だ。しかし昼近くになろうとする今からでは、黒淵まで往復するのが妥当な線だ。
「なんだ。肝心の秘境は見れそうにないわね。行きたかったのに。」
「何なら一泊どまりって手もあるよ?入り口に古い温泉宿あったし。」
「何言ってるの、初めからそれ狙い?」
「何それって。なにか期待してたのかな、俺?」
 中年50歳を過ぎてから、かわれていることに智子は更に頬を膨らます。

 しかし、先ほど赤い橋から見上げた日本式の木造家屋の温泉宿は、今では珍しい趣を漂わせていた。二軒ほどの縁側をそれぞれに持つ部屋は、木枠の全面が透明なガラス張りだ。四季の味わいを深めるにふさわしく、水墨画の日本の風景に溶け込んでいた。

 そういえば、後藤との新婚旅行は、四国を軽のワゴン車で一周する貧乏旅行だった。
 身重で結婚式も上げず二人で泊まった初めての宿が、ちょうどこんな宿だったことをふいに思い出した。
(やっぱ、わたし忘れっぽいんだ。今まで思い出しもしなかったのに・・・
 と感傷に浸っていてはいけない。不倫旅行じゃあるまいし)
 30年前の思い出を打ち切った。

 山道には、他にも板張りの注意書きがいくつかあった。
『落石、倒木注意・・』
 なるほど、遊歩道は自然そのままに、近い道で凸凹だけでなくごろんとした石が転がっている。落石を片すこともできないくらい、頻繁に落ちてくるのだろうか。なんだか不安になる。数百メートルとたたないうちに、すれ違い通るのもままならないほどの細い道になった。

 山裾のからはみ出して積もっている古葉を踏みしめ、自然そのままの道をカサカサと音を立てて歩く。智子は家族に行先も告げず、小旅行のような気分になれないまま、平底ではあるが仕事の普段履きで訪れてしまった。
 そんな智子にあわせてか、後藤は責めるそぶりもなく注意深く歩いてくれた。智子はそんなことにお構いなく、足元の草花を観察し始めた。
 山林の葉隠れの岩場や古木は、薄陽に輝くるきみどり色のこけを重ねる。ところどころに枝ほどしかない山水の流れをつくり、渓谷の本流へと消えていく。ちょうどよい湿りを含んだ山肌は、上等なこけの衣をいくゑにもひろげていた。

 智子はつややかな草花たちを持って帰ろうと、携帯カメラのシャッターをきり始めた。
 新芽をちりばめた木々、やますみれ、正式な名称もわからない一輪草、中には小さくてかわいいリンドウの花が地面からのぞかせている。まるでカメラマンになったように智子が草花を収めている間も、後藤は歩調を合わせてくれた。

 まるきりの異性でもなく他人でもない後藤は、思いもかけず智子に居心地の良さを与えていた。それにもうすうす気が付いていたが、智子はそれ以上に自然に集中した。

【つづく】

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