A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 大名華族・蜂須賀家  = 桑田 冨三子

 1954年、大学に入った私は、寮生活を始めた。
 夏休みが近づくと寮生たちは、皆そわそわし始める。親たちが待つ故郷へ帰るとか、海外旅行に出かけるなど、それぞれに楽しいプランを立てている。
 そんな中、貧乏学生の私に学長のマザー・ブリットがこんな話を持ってきた。
「夏休みの2か月間、『住込みの家庭教師』の仕事が来てます。行ってみたらどうですか」
 行く先は、熱海の蜂須賀・元侯爵邸である。私より4歳年下で、インターナショナルスクールの高校生、正子の「数学」をみる、という話だった。
 英語は不得手だが、数学なら、なんとかなるだろうと引き受けることにした。

 熱海駅について、改札口を出るとそこに、迎えの車がいた。
「山崎冨三子さんですね。どうぞ、お乗りください」
 いわれるままに乗りこむ。車は海辺を抜けて山道にさしかかり、ぐるぐると回り登って行く。やがて、門らしきところで、車は止まった。
 そこには、身なりを整えた白髪の老人が立っていた。
「おひいさまのテユーター(家庭教師)ですね。執事の加藤です。これから貴女が住むコテッジへご案内します」
 かばんをかかえて、庭石づたいについていくと、そこには「ミモザ」と札のある洒落た洋風の離れ屋があった。それが、これから私の住むところであった。

 生徒の正子(マアコ)は、阿波の国・徳島藩主だった蜂須賀家17代目、と聞いている。背丈は、私と同じぐらいである。長い黒髪をむぞうさに後ろで束ね、アーモンド型のぱっちり目で、ブルー・ジーンズの良く似合う姫様だった。
 なるほど、軽井沢で裸馬を乗り回すというはなしは、さもありなん。

 正子は私の事を、気軽にフクチャンとよび、まるで新しい友達が出来たかのように扱った。私としては「先生」とよばれるよりは、ずっとありがたい。
 私達は、とくだんに勉強時間をとり決めもせず、遊びに来た友人みたいに、ともに食事し、ともに音楽を聴き、気が向いたときを見計らって、アルジェブラ(幾何)の本を開いた。

 この屋敷には、沢山の部屋があちこちにあるが、いくつあるのかは、不明だ。正子と私が、よく行ったのは、山に沿って建てられている階下の部屋で、屋根もガラス張りの、巨大な温室である。
 温室といっても、床は大理石でできている大広間であって、真ん中に深い温泉プールがあり、そばに真湯(まゆ)のバス・タブが埋め込まれていた。背の高い緑の植栽があり、その下に古ぼけた籐椅子がふたつ、並んで置いてあった。

 私達はそこで遊びながら、アルジェブラをやった。
 ひと夏の宿題の量は、多くなかった。勉強机の前で、しかめっ面でやる数学とは縁のない、楽しいお遊びの宿題作業だった。これは、きっと勉強嫌いのまあこの戦術だったのだろう。私自身にとっても、楽しい夏休みだった。

 正子の父親は鳥類学者だった。
 その置き土産の、どでかい鳥の剥製が在ったり、執事や召使が登場したり、驚くことは多かった。なかでも心に残ったのは、そこに住んでいた正子の伯母・デザイナーの蜂須賀年子(としこ)女史である。
 蜂須賀年子は、德川慶喜の孫で、德川家や、皇室とのつながりが深い人だ。子ども時代には12人もの家庭教師がついていて、書家や国文学者など、皆、当時、一流の人物だったという。とにかく年子夫人は、教養溢れる、魅力的な人物であった。

 広い屋敷の中、南のどこに住んでいたのか、皆から「南邸様」とよばれていた。私は、その「南邸様」から、日本古来の行儀作法の歴史など、もろもろの興味深い話をたくさん聴くことができた。50年も前のことである。

 教わったことなど、とうに記憶の彼方に消え去ったが、あの時、「南邸様」から一冊の本をもらった。それは「大名華族」という題で、阿波の藩主・蜂須賀家に生まれ育った年子が、思い出をつづったものだった。
 大名華族の家では、嫁入りを控えた娘に、どんな性教育を授けるのか。
 お付きの老女が、まくら絵をみせると、
「そんな、みだらなものは、みとうない」
 と、姫は横を向いてしまう。云々・・などと、この本には書いてあった。

 1969(明治2)年から1947年まで存在した貴族階級には、元皇族を皇親華族、公家を公家華族、江戸時代の藩主は大名華族、国家への勲功により新しく華族になった新華族、がある。
 同じ華族でも、蜂須賀家のような大名華族は、行儀作法や家庭のしつけに、侍の気風が色濃く残っているのは、きわめて興味深い。
 神田では、古本屋まつりが開かれる季節になった。
 ちなみに、この古本をアマゾンで検索してみたら、1万2000円の値がついていた。

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