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【小説・3回連載】 二十八才の頃 (1) 《砂》 = 外狩雅巳

著者紹介

 外狩雅巳(とがり まさみ)さん

 1942年、旧満州生まれ。仙台で中学卒業後、商店住み込み店員となる。その後、単身上京。工場労働者として労働運動に力を入れる。
 同人雑誌を中心に地域の市民文芸文化振興と小説執筆での作家活動を行う。著書「この路地抜けられます」、「十坪のるつぼ」)、詩人回廊「外狩雅巳の庭」ほか


小説・二十八才の頃 (1) 《砂》 縦書き 印刷して読む場合もこちら


小説・二十八才の頃 (1) 《砂》 = 外狩雅巳

 風に追われた砂粒が、人気の絶えた露地を次々に疾走して行く。
 両側に連なる町工場や倉庫の軒下には煤と鉄錆にくすんだ吹き溜りの層が重なり、その上を風に運ばれた砂粒達がすっぽりと布を被せたように白くしてゆく。
 薄墨色の雲が低くたれ込め、三十メートル程先の信号機の赤い色が夕靄に溶け込もうとしている。
 風が露地を駆け抜けるたびに、次々に新しい砂粒が地を薙いでゆき工場の板壁に音を立てて吹き付けられてゆく。
 工場の天井近くに張り渡された太いシャフト。それがモーターによって高速で回転している。
 そこから十台程の工作機械のすべてにベルトが引かれている。ひとつの動力源で十台の機械が動いている。
 風が強くなってきたようだ。北からの風が。
 板で継ぎ接ぎされた壁にある幾つかの穴のうち、北向きのその小さな穴からは絶え間なく砂粒が吹き込んで来るようになった。

 露地を隔てた斜め向かいの産業道路を、鉄材を満載した大型トラックが次々に駆け抜ける。運河の橋を渡る音と震動が微かに伝わって来るとペンチーレスの据え付けの悪い足は又小さく震え出した。
 高速で回転する鉄の表面にバイトの先端が近づく。削がれてゆこうとするその薄い鉄の皮にノズルから流れるスピンドル油がたっぷりと注がれてゆく。赤熱した鉄片はその瞬間に白煙を撒き散らして螺旋状に丸まって足元に落ちていった。

「チッ」と舌打ちして明は顔を上げる。また砂が飛んで来たのだ。こうやって大型トラックが左折して通り過ぎる度毎に露地いっぱいに砂粒を舞い上らせる。東京湾を渡って来た強い木枯しがその産業道路に湧き立った砂埃をここまで連れて来た。
「クソォー。また駄目だ。あせるなあ、三つ目だぜ」
 思わず呟いて安全靴の先で機械を蹴り付ける。
 作業の手を止めて睨み付けるその小さな穴から次々に吹き込んで来る砂粒。
 カバーから漏れる作業灯の一筋の光の中を通る時、彼等は一瞬ひとつぶずつが生命を持ったかのように白く耀いてくねりながら進む。その後で工場の隅の吹き溜りの小山をまた少し太らせて降り積もってゆく。

 鉄粉と砂粒と機械油とで固まっている吹き溜まりの高さほどの歴史が、明の日々が、この工場の隅に残っている。
「よせよせあせるなよお、損だってば、明チャンよお、無理なもんは無理。バイトが泣いてらあな、使い方が荒くて困るとさ。どうせ今日も楽しい深夜残業が待ってる事だし、のんびりゆこうよ日本は、そんなにあせってどこへ行く」
 とっくに自分のプレスを止めて煙草を吸っていた光二が間伸びした声でからかって来る。

 赤熱した切削面に砂粒が付着してしまうので寸法測定時にわずかな誤差が出る。それが精密度の高い作業には大きな障碍となる。この木枯しが砂粒を運ぶ季節になるといつも苛立ちがつのって来る明だった。
 風に押されて小さな穴から乱暴に小屋の中に雪崩れ込んで来て、そこでふいに勢いを失う。機械までにたどりつく直前に進みを止めてゆっくり舞い落ちてゆく。
 きらりきらりと白く光を反射させて砂粒ひとつずつがその短い光の中で生を終えてゆくように身をくねらせ、そして消えてゆく。次々と瞬時に多様の生と死を見せて通過してゆく無数の砂粒。

「ミクロの技師だ。砂粒ひとつの誤差も許さないとは本当に頭が下がる思いだ。納品に行ってよお、職長がほめられてよお言うぜ言うぜ。旋盤ひと筋に四十年、私にはこんな事しか取り柄がないもんでだとよ。テメーなんざ事務所でふんぞり返って他人の削った物を納めに行くところだから。よく言うぜ大した口の技師だ」
 はばかりのない大声が機械の音を突き抜けて背中に振りかかって来る。若い声だ。

 その声を見るような仕草で素早く壁の時計を見る。もう十分で終業時間になってしまう。終らない。
 予定の三分の一近くも残っている。光二に向けた薄笑いをバイトの刃先にもどした時には前にも増して焦りが体全部を包んでいた。
「近ごろとんと見かけねえよなあ、口の技師が機械の前に立つ処をよお。それでもって客先で抜かしたわな、イマイチ若い者の腕が上がらんから現役降りるにおりられないとさ。世も末だね」
 昔、光二が不良品を大量に出した時。職長に作業者の名を客先で呼び捨てにされている。
「泣くな光二。今の俺はこの仕事終らす事しか眼中には無いからな。お前のグチにつき合ってらんないよ。悪いけど」
 今日もこの進み具合では四時間残業はたっぷりある。
「その技師の件ですがね。まだ専務の処らしいぜ。朝っからずうっとだからなあ。て事はボーナスは又々渋いんじゃないのかな。こわいですね。本当に恐ろしい事ですね。三年続けてこれじゃあよお、真面目に働いてらんないと思うけどなあ。五分前になっても機械廻してるモンの気が知れんなあ」

 工具箱にのせた光二の足。破れたズボンのその穴からは脛毛が数えられそうだ。ガタガタとその足を貧乏ゆすりさせて光二はなおも話し掛けて来る。
「日曜出て、残業も八十時間やって。技師の名前は勝手に使われるし、バイト駄目にしてばかりいるからと文句言われ、其の上光二の仕事も面倒見てあげなさいね、か。本当にエライッ。明チャンはエライ。俺、勝手に表彰しちゃうもんね」

 そうやってもう十分間もサボっている光二。いつもの事だ。仕事は早い。いや要領がいいのだ。手筋がいいのだ。しかしそうやって早く終ればその分どこかで油を売る光二。けっして給料以上の働きをしようとはしない。
「ヨセヨー。おまえ終ったんなら先に晩メシ喰ってろよ。明日六時までに納品だぞ、この百個」
 毎年、暮れになるとこの忙しさだ。ベンダー。ボール盤。シャーリング。そしてプレス加工。溶接。
 旋盤にミーリング。十人そこそこの工員と機械。朝の八時三十分からぶっ続けで十時間も十二時間も悲鳴を上げ続ける。

 十トンホイストで吊り上げられた鋼材が工場の中をガラガラと運ばれてゆく。待ち構えている工員が両側から酸素バーナーで切り離してゆく。バーナーの先口からの超高温の炎が熱い鋼鈑を舐めると、たちまち鉄が溶け出し、さらに火先は裏側にまで吹き出る。

 火玉になった鉄片が派手に向う側に飛び散りながら少しずつ移動してゆく。やがて鋼材は火先の通った処から二つになってゆく。腰を落とし肩をいれて踏ん張った工員達の背で、六十キロのアセチレンボンベがあえいで行く。突然に湧き上がるベルトサンダーの金切声はギャーギャー、ギャンギャンと脳天を貫いてスレート葺きの屋根に当たる。反響して四方八方に飛び散るその不快音のこだまがしばらくは工場内を制圧する。めげずに続くトントン、トントンという規則正しい連続音。
 小型プレスが一日中あきずに動いている。薄いステンレス板から六角形の小片が打ち抜かれ、バケツに何杯も溜まっている。

 冬だというのに大型シャーリングで鋼鈑を切断していたランニングシャツ一枚の男は一升ビンにいれた水道水を片手で取り上げて上を向いてグイグイと流し込んでゆく。その喉がポコポコ動いて大量の水が胸から腹中へ落ちてゆく。
 流れる汗をぬぐうと男は又鉄を持ち上げた。光の爆発が突然に始まる。白昼色の光がはじけてその上を大量の煙が立ち昇ってゆく。アーク溶接だ。鉄と鉄が高熱の中で溶け合って接続されてゆく。
 ところかまわず作業が繰り広げられている、やたらとうるさい小屋の中で顔中を声にしてツバキを飛び散らしながら怒鳴り合う光二と明。
 ようやく当りが出て来て鉄塊が快調に削られ始めた時、運河の向こうの大工場で五時のサイレンが鳴り出した。それを合図にあたり一帯の町工場機械のうなり声が止まった。
朝八時三十分からの長い長い一日が終ったのだ。


 残業になってしばらくすると、光二がまた機械を止めて寄って来た。工具箱の上によっこらしょと声を出して腰を下ろすと、しばらくはそのままの姿勢で目を瞑っていた。やがてホーっと全身でため息をついて足を大きく伸ばした。
「仕事って、本当に楽しいもんですねー。この年でやっとわかりましたよ。毎日、毎日バカみたいにまるっきし同じ事ばかり繰り返して、お天道様見ることもなく夜おそくまでよー残業して。気がついたら定年なんですよねー。俺もつくづく偉い奴だと感心するぜ。バカでもやってらんないような職場で青春バリバリ発散させてんだから、表彰もんだぜ、こいつは。楽しい楽しい残業だー。バンザイ、バンザイ」

 光二は、工具箱から柄のはみ出していた木ハンマーを握ってバイス台を二度、三度と殴り出した。
「オイ、バカヤロー、マテマテッ。今大事な場所削ってんだからコノー。ヤメロ、ヤメロテメーこのお、俺に当るなよ俺に」
 明は削り上げた部品を測定していたマイクロメーターの先で光二の頭を小突いた。その頭の向こうのあの小穴からまた夜の風が吹いて来て壁の安全ポスターが大きく揺れた。
「ひとつ削って会社の為に。ふたつ削って職長の為に。三つ削って光二チャンの為にとくりゃあ。四つ削らぬ先に命が削られる。明チャン悲しや技師悲し。ハンドル握って死んだとさ。それでも機械は廻ってたと来りゃあ」
 何とも間の抜けた調子をつけて光二は口から出まかせのセリフを言いながら今度は木ハンマーで自分の肩をたたいている。

 バイス台には朝から削った小さな部品が同じ間合いで正確にびっちりと並んでいる。
 図面が二枚。計測器各種。そして工具。バイトの刃先は横二段で小箱に三つ。どれも上下揃えてきちんと整理されて置いてある。

 ハンマーを置いて明の削った部品をひとつひとつ等間隔に並べてゆく光二。光二は見かけの粗暴さに似合わず几帳面でナイーブな処がある。耳の下まで伸ばした髪のリーゼントそれを何度も何度も整える。便所でも食堂の鏡の前でも、そして作業中も手鏡を出して…。たった一本の髪の乱れも自己の全存在が否定されてしまうかのように、しつっこくいつまでも鏡の中の自分を許そうとはしないのだ。

 こんな小汚い掘建小屋のような陽の当らない作業場の吹き溜まりで、油と埃にまみれて一日中、ことによると真夜中までの残業、残業に追いまくられながら、しかし彼のその頭髪だけは貴公子のようなスタイルを崩しはしない。アイロンパーマとエムジーファイブで固めたそのリーゼントカットは光二の青春の砦かも知れない。

 風が砂を運んで来た。夜の風が小穴を通して次々に送り込んでくる砂粒達。バイス台の上に又新しい砂が積ってゆく。なのになぜか光二のリーゼントまでは届かない。ほんのわずか手前で力を失った風。砂は空しく機械の上と床に落ちてゆく。

「そうカリカリ働くなって。禿げるぞ三十前に。どうせお前だけ終っても、俺の方が出来上んなきゃあ、とどのつまり今日は帰れやしないさ。セットで同じ処へ納品するんだからな。んじゃまあ、俺はクソして寝るか」
 ハイライトを一本出すとゆっくりと火をつける。深く吸い込んでそのまま昇ってゆく紫煙に片目を細めて小首をかしげている。長い脚を少し折り曲げて片方だけ工具箱の端に乗せている。片手は腰に、体はわずかに傾けてバイス台に背を当てている。
 やがてゆがめたくちびるの端から吐き出された煙が光二の耳元をかすめて闇の中へと消えてゆく。

 ボロ小屋のボロ服の工員にはその動作は不似合いだ。一本の乱れもなく決まったリーゼント、端正な目鼻立ちと口の端に見事におさまったハイライトから上るひとすじの煙。長い脚、そして隙のないポーズ。まるでそこだけが映画の主人公の一シーンになっている。

 「俺だって何も好きでカリカリ焦ってる訳じゃないけどなー。職長が言ってたじゃねーか。今やってる分までを年内に納品しないとボーナス出ないってよー。火の車の金繰りは毎年のことだけど、今年は一番ひどい気がするな。もう朝から三本もバイト折ってるんだ。泣きたい気持だよまったくの処」

 十人程の工員を指図する職長はいつも光二の分まで明に責任を押しつけてゆく。二人分の仕事とギリギリの納期。一向に馬力を上げない光二、その分だけ明の神経は張りつめる。
 不意に静かになった。トントンと長い事同じ音を立てながら休まず鉄板を打ち砕いていた奥のプレスが止ったのだ。ひとつの電灯が消された。もう残業を続けている者もほとんどいなくなった。夜の寒さがとたんに体一杯に感じられた。
「明日一日で正月休みだ。本当に明日はボーナス出るんでしょうかね。暗いぜ、暗くって暗くってたまらん年の暮だぜ。明大明神様、イエス様たのんますよ」

 ここで明が働き出してから冬のボーナスはいつも決って十二月の最終日である。それでも出てはいた。毎年いくばくかの額は出ていた。そしてそのわずかな金額こそが明にとって正月を演出出来るたったひとつの元手なのだ。短い正月の間、酒を飲み昼まで寝ていられるひとときの安息。すべては明日のボーナスにかかっている。

「この一本でやめる。明日はバイト揃えて朝一から飛ばせば何とかなる」
 正直言って明はうんざりしていた。夕方から激しくなった風に押されて次々に飛び込んで来る砂粒のため気持が乱されていたのだ。いやそれだけではない、正月が近づくのに洋子からの連絡がない事が一番の原因だ。
「十万以下だなんて事ないだろうな。こんな働きものの光二さんがよお。ヤダぜ、いつかみたいによ俺、富江ん処出入り禁止なっちまうぜ」
 明だって二十万円は出ると心づもりしている。洋子と二人で国元の親に会いに行くのだとひそかに決めていたのに、十二月に入って以来まるで連絡がないのだ。

「三百本シャフト削って百五十万円。お前のフランジ百枚と合せて二百万。職長はこれで今年の目標が終ったと言ったんだ。本当にそうだといいけどな」
 そう言えば去年も最終日の昼すぎにやっと仕事を終える事が出来たのだ。そしてボーナスも入った。
 しかし今年は明日夕方までかかるようだ。だが何としてもあと一日で終らせなければ来年が来ないのだ。
「フレーフレー明。会社は明で持っている。死ぬまで働け明チャン。本当にこれ位の大企業ともなると色々社員も泣かされますねえ。マッタク、あとは便所で泣きましょう」
 そう言って大便に行く後姿は、それでもまだ二十四才の若さがあふれている。明より四才若い。

 あの日洋子の目は暗かった。
 北風が正面から吹き付ける駅前で三十分近く待っていた後やっとホームに降り立った彼女を見つけた。
「すごく遠かったわ、よそうと思った」
 女子寮を移ったのは彼女の希望だと言ったのにその言葉はどうしたというのだろう。
「いやよ。こんなにおそく。半分は来るつもりなかったの。でも」
 いつものようにアパートへ誘う明に、なぜか洋子はかたくなに身構えた。いつまでも姿勢を崩そうとせず立っていた。
「話しがあるの」
「じゃ飲もう。飲んで話そう」
 北風に押されるように駅裏を廻り露地に入ると肩を寄せ合って犇めく飲食店街を奥へ奥へと向い、手垢で黒光りするテーブルといびつな丸椅子しかない小さな店。あふれる作業服姿の男達の中で次々に飲み干す安くて強い酒。洋子の暗い目の向こうになにかを感じた明は話を切り出す前に酔いたかったし酔わせてしまいたかった。

 十七才の春、工場主の好意で入学出来た工業高校。そして四年間。残業もせずに空きっ腹で駆け込む夜学生生活。そこで洋子と知り合ったのだ。
 最後の学年の時、明の学生生活に初めてバラ色の光が広がった。新入生歓迎フォークダンスの輪の中で話した十六才の少女。ほんのひと握りの女子生徒の中のひとりに近づくことが出来たのだ。二十才の明はそのチャンスをのがしたくなかった。洋子、洋子、洋子。少女の名前だけが頭の中を占領していたあの春。何もかも急に耀きを増したかのような日々だった。

 そして八年。二人にとっては、やり直しのきかない長い月日が過ぎ去っていた。

 小さな設計事務所の住み込み事務員として働いていた洋子には夜学から帰ったあとも事務所の整理や、おそくまで残業する社員の手伝いをしなくてはいけなかった。その上、朝も早くから掃除や茶の用意等の雑務が多く、なかなか授業についてゆけない状態だった。

 初めての男女交際にのぼせ上っていた明にはそんな相手への思いやりなど考え付くはずがなかった。
 少しでも一緒に居る時間が欲しかった。九時の下校後もひんぱんに深夜喫茶へと誘っては仲々帰そうとはしなかった。楽しそうに受け答えする時の洋子の目の端に浮かぶおびえと当惑に気付かなかった明。二十才になったとはいえ、まだまだ世間知らずの少年でしかなかったのだ。
 トレースの技術習得と一人立ちして働く日の夢を抱いて北国から上京した洋子。その十六才の少女が広い東京でのたったひとつの生きる場所。小さな設計事務所は少女のその生活態度の変化を許してはくれなかった。

 夏休みが終って二学期が始まった時、学校の中には洋子の姿はなかった。気が狂ってしまいそうな日々を送りながらも明には何も出来なかった。
 小さな小さな想い出と共に二十才の日が遠くなってもう七年半の歳月が過ぎ去っていた。

 この春偶然明は洋子と再会した。
 広い通りからパチンコ店の脇を折れて入ると、露地の両脇にはいくつものバーや赤ちょうちんが軒を連ねて客を待っている。もう十時を回っているというのに露地は人でにぎわっている。どこの会社にもボーナスはすでに出ているのだろう。暮もおしせまっている。
 体をすり寄せて来る若い女達の甘い声。脂粉の匂い。
「チョットオ。好い男のお兄さん達。溜ってんでしょお。体に毒よ。スッキリ、サッパリ三千円。何でもありの三千円。サービスするわよ。寄ってらっしゃいよ!」
 足取りが乱れる光二を引き寄せて店の前を通りすぎようとする。明の服を少し握ろうとした女は手を離す。
「何さ、その気になっても入ってこれないの。ふん見栄張るんじゃないよゲルピンのチョンガー」
 振り切ってゆく。声が後へ残っている。色々な女達の声の中にふっと気になる声が混じっていた。

 ふり返ると作り笑顔の女達の中にやはり洋子の顔はなかった。
 光二が先になって狭く急な階段を下がってゆく。扉を押すと閉じ込められていた音楽と煙が一瞬のうちに二人を包み込んだ。もうかなり酔いの回っている光二は崩れ込むようにボックス席についた。
 口の端から糸を引いたよだれがテーブルを汚した。
「御無沙汰ね。明さんも久し振りだわね。いらっしゃい」
 カウンターを回って富江が半分程残っているボトルを運んで来た。光二のよだれを見るとおしぼりを取りに又もどって行く。

「ああそうだ。死ぬ程働かされてよー。見てくれこの手をまだ油が付いてやがるぜ。バッチイ油がよー。こいつは死んでも取れないぜ。アー、バッチイ人生でした」

 酔いが回って口調のもつれた光二の顔にオシボリを当てて富江がゴシゴシと拭っている。汗と油とよだれで薄黒くなったそれを又替えて何度も拭っている。首筋と胸元に手をいれてそこもていねいに拭う。まるで光二の全身から仕事の臭いを全部取り払ってしまわなければならないと言うように何本も持って来たオシボリを取り替えては続けている。

「光二はね。今日俺に付き合って九時半まで居残ってたもんで大分疲れてるよ。その上もう前の店でかなり早いピッチで仕込んでしまったからあまり飲ませちゃ駄目だよ、富江チャン」
 ようやくオシボリを離して氷の入ったグラスを二人の前に並べる富江に明は釘をさしておいた。疲れていなければ体力にまかせていくらでも飲んでしまう光二の為にも自分の為にでもあった。
「酒は、酒は天下の回りものだい。俺の酒を俺様が飲む。これで又明日も元気で働けると言うもんだ」
 それでも氷の浮いた水をひと口飲むと大分光二の目に生気が戻って来た。それを見て富江はウイスキイのボトルを開け、二人のグラスに注ぐ。そのあとで自分のグラスを一番濃く作って半分近くをひと息で飲んだ。

 富江は光二より三つ年上で離婚経験があると言っていた。三年程前からこの店に来た。光二とはその時以来の仲だった。そして一年前からは光二は富江の家に泊まるようになっていた。いつか工場で光二は富江が病気の母親と二人で住んでいると言い、飲むと必ずおしまいはこの店に来る。

 工場では何度か富江の事を話す光二。しかしそれは自慢というより投げやりと言った語り口である。
 結婚する気もある訳でもない訳でもない。なりゆきだなどとも言っていた。
 好きとかどうとかもはっきりとは言わない。月に一度位は飲みすぎた日に泊っているようだ。明にも本当の処は良くその関係がわからないのだ。いつも他人事のように自分と富江とのいきさつを話している
「ボーナスが出る。やっと出る。そしたら十万はここの借金払う。半年ぶりに払う。そんでもまだ五万円以上残ってたらだな。その時は富江と温泉旅行だ。光チャンは気前がいいんだ全部使ってしまう人だもんね」
 酔いが切れたかのように一人はしゃぐ光二の声が頭の上を素通りしてゆく。それに替って明は、焼酎ハイボール。ウイスキイ。日本酒。したたかに飲んだ安酒の酔いが一気に頭へ来たようだ。まぶたが重い。四時間残業。そしてそのまま飲み続けて二軒、三軒目。もうすぐ十二時になる頃だろう。どこの店だったか、焼きうどんを食ったな。もやしの筋がまだ奥歯にひっかかっている。それからレバ刺も食ったな。光二は半分以上残してしまっていたな。あそこの酒は強すぎたようだ。おや何という匂いだこの酒は、もう駄目だ。体がアルコールを受け付けない。でここはどこだっけ、耳の奥でモーターの音がしている。俺はまだ仕事中だったかな。
 閉店になって三人で連れ立って外に出た。

 露地にもそして大通りにもすでに人影はない。夜半を大分回っている。
 吹き抜けてゆく木枯らしに煽られて舞い上がったポリバケツ。道に生ゴミを撒き散らしながら転がってゆく。二歩三歩追った光二がそれを蹴り上げる。容器の側面に穴が空きそこに片方の靴が突き刺さったまま空を飛んで露地へと転げ込んでゆくバケツ。
「クソオ、バケツまで俺をバカにしくさって。頭に来たぞ」
 片足跳びで追いかけてゆく。棒切れを拾って散々にポリバケツを殴り付けている。そのあと上に乗りあげてとうとう踏みつぶしてしまった。その棒切れでさらに電柱を殴り付ける。強く打ち付けた時折れた棒の先が飛んで今度は腰のあたりに当たった。すると光二はそのままうずくまってしまった。

 しばらく動かなかったが、「うー寒いぜ。寒いぜ。酒が切れた。どっかでラーメンでも食ってゆくか」
 先に立って歩き出す。空は晴れ、月はまんまる。電線が木枯しに泣いている。長身を丸めジーンズに両手をつっ込んだ影が白いコンクリート道路で揺れている。リーゼントは乱れを見せない。
「あたしもうあんな店やめたいわ」
 屋台のラーメンを啜りながら富江が呟いた。
「考え方ひとつさ富江チャンの。酒飲んでバカ言って適当にやってられるかどうかさ」
「皆はそうよ。この商売やってる女達はね。そういうタイプじゃないのあたし」
 笑い出そうとした富江の目の端から涙が溢れている。もう限界なのだろう。しかしどうせ他人の彼女だ。明には他に適当な言葉が見当たらない。洋子の事で頭の中はいっぱいなのだ。
「世の中、バカな男が多いでしょう」
 どちらかというと光二に向かって言っているのだろう、顔だけは明を見ているが。
「ヤダ、ヤダ。ヤダゼ俺だって。ばかに生まれたのが運のツキよ。一日中機械にコキ使われてよー。そんで人生終ってしまうなんてね考えただけでもゾッとするぜ。あーあ、バカは死ななきゃ治らねえー。」

 昼の工場の中でだってそうだった。光二の口調にかかるとどんなグチも明るく耀いてしまう。若さがそうさせているのだろう。その若さが明にはたまらなく憎く思えてくる。
「俺よお、帰って寝なきゃ。明日の夕方までにあの残りのシャフト五十本削ってしまわんと本当にボーナス出ない事になるぞ。お前のボーナスも。まったくウチの工場の自転車操業には今年も泣かされるぜ」

 明は突然こみ上げて来るいきどおりを押さえ付ける事が出来なかった。両足をバタバタ踏み交わしながら持ち上げた丼の汁を思いっきり乱暴に啜った。それが逆流して胃の中のものが口に向かってこみ上げて来るようだ。ムカつく酔いが深い。頭の中がグルグル回っている。目の前の丼の形がハッキリ見分けられない。そう言えば残業のあとずっと飲みっぱなしだ。腹の中はブレンドされた酒がタップ、タップと音を出して回っている。年だなあ俺も。二十八才の年齢がヤケに重く感じられてくる。

 こんなに酔ってあした又仕事して、何才まで生きればこういう人生が終るというのだ。
 歩き出して十分位してとうとう光二の方が吐き戻してしまった。最初の店での飲み方が悪かったのだろう。いつもの光二に似ず、ひたすらコップの中ばかり見つめて立て続けに焼酎ハイボールを三杯空けてしまった。そして急に元気を取りもどしたようにはしゃいだのだった。あの時の光二はコップの底に何を見ていたのだろう。

 声を出して吐き戻してしまってから光二は長い事道端でしゃがみ込んでいる。「来年か。来年になったら又次の来年こそと思うだけさ。そうやって年取ってくんだよな、俺たち」
 丸めた背を富江にさすられながら光二が呟いている。
「去年のお正月に飛んで行ってしまった凧。どうなったのかしらね。あたし達みたいね」
 光二の耳元にささやく富江の顔は見えない。
「二十三か。あん時や俺もまともな青春やってたよなあ。一年で十才は老けたぜ、俺も富江もよ」
 光二の声が少しずつ上ずって高くなって来た。
「生まれた時も、死ぬ時も別々よね、あたし達」
 明にはわからない。こんなクサイセリフがちゃんと様になってしまっている二人の関係。水草のような生き方かと思えばガムシャラに働くし、年上の女をあしらっているかのようにも見えるし、本気で傷口をなめ合っているようでもあるし、わかるのはその光二が明よりも四才若いという事だけだ。

 その若さが、やり直しのきくその若さがすべてを可能にしているのだろう。どんな状況でも、どんな底辺にいても、いつも光を放っているのだろう。耀いて見える光二の生き様。明にはどうしても出来そうにないその軽くて重いすべての動作と言葉。そしてその乱れを見せないリーゼントが明には手の届かないずっとずっと彼方に行ってしまった事だ。俺にも二十四才というものがあったのだろうか。
 ふっと明は自分の遠い過去をのぞき込むような気持になった。
「明さんどうするの。私の家へ来る」
 別れ道の処まで来て富江が言った。
「行こうぜ、もうおそいから」
 どうしておそいと行くのか光二の言い方には何かしらチグハグな感じがする。

 前に一度だけそう誘われて真夜中過ぎに富江の家へ行った事がある。海の匂う河口の土手下。そこに寄り集まっている古い漁師町の家並み。庭とも露地とも区別のつかない軒下を曲り曲ってたどりついた小さな家。隣は今も漁業をやっているのか境の壁には漁網が立てかけてあった。高い土手と隣家にはさまった月の光の届かない暗く細い一画になる富江の家。小さな土間とその奥の暗い部屋。ブツブツと呟きながら床に半身を起こしている老女を暗い部屋の奥に見ながら、台所の横の階段を二階へ上がる。屋根裏部屋のような低い天井の細長い二間続き。入り口の一室に明が寝て、奥の間に光二と富江が入った。経文を唱えるような老女の間延びした声が階下でかすかに聞えている。奥の間からもいつまでも続く二人の会話。

 やがて女のすすり泣くような声も洩れて来る。下の老女が歩いているのか畳を踏む音も時々した。押し殺したような女の泣き声はいつまでも続いた。そんな気配の中で眠りにつく事が出来ず、いつのまにか朝になっていたあのとき。こんな場面には二度と出会いたくないものだと思った。
「いいよ、俺先に帰る。光二、遅刻するなよ」
 別れを告げると手を振ってから思い切り走った。大通りの電車の踏切を渡る。木枯しに追われてダンボールが何枚もコンクリートの上で踊っている。背を丸めて走り抜ける明の影に次々とからみついてくる。月が白く光っている。ビルとビルの間で丸い月と星が不気味な程明るい。土手まで走り続けて一気に駆け登る。

 河原の向うに河が流れている。平ったい木造船が二隻ロープでつなぎ合って河口から進んで来た。
 先を行く大きい船の舳先が流れ下がる河の水を跳ね返して水しぶきを左右に上げている。その姿がトントンという単調なエンジンの音をなぜか一段と力強く感じさせている。進む後から広がる波は両岸へ行き着くまで消えない。はるか遠く河口近くの砂洲に半分乗り上げて傾いてしまっているもう一隻が見える。その先の東京湾の沖は点滅する無数の灯が行き交っている。

 河の向う岸の土手で誰かがトランペットを吹いている。吹きつける風にさからってグイと身を反り返す。月光を浴びてそのまま長い事動きをとめる。天を向いた楽器の先から哀調を帯びた音色が長く長く尾を引いている。

 海からの風が一段と強まって土手の枯れ草が鳴っている。河原の砂が舞い立った。
 チクショウあの砂だ。あいつが俺のあとを追ってあのボロ工場までついて来るのだ。その揚句に俺もあいつも木枯し吹き流されて工場の奥の機械の脇の吹き溜まりで途方にくれてしまうのだ。

【つづく】                

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