A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・写真エッセイ】  3年ぶりの新作 = 黒木 成子

 パッチワークを始めてもう25年になる。子どもの幼稚園グッズを近所の友人たちと一緒に作り始めたのがきっかけだった。皆で集まってわいわいやっているうちに、当時はちょっとしたブームのパッチワークをやってみようと決めたのである。

 そのころ、私は下の子どもが産まれたばかりで、夜もろくに眠れない日が続いていた。こんな状態ではとても無理だと思ったが、友人たちは盛り上がっており、話についていけないのも寂しいと思い、形だけでも参加することにした。
 友人たちも皆子どもが小さかったため、最初は同じマンションの経験者を家に招き、教えてもらうことになった。

 始めた動機はいい加減だったが、いざやってみるとなぜか面白い。型紙を作って一枚一枚生地を切り、縫い合わせていく。そんな地道な作業の連続だが、少しずつ形になっていくのが楽しかった。
 きっと、子育てと家事のみの毎日でイライラしていた時に、1日30分でも自分だけの時間が持てるのが新鮮だったのだろう。

 毎日少しずつ進めて、1か月程してやっと完成したのが、クッションカバー(写真・右)である。
「風車」というパターンで、三角形を組み合わせた簡単なものだ。25年もたつと色あせてしみだらけで、破れているところもあるが、思い出の第一作目なので、どうしても捨てられず、今だに持っている。

 こうしてパッチワークにはまってしまった私は、皆でお茶を飲んでいる時も、1人ちくちくと針を動かす人になっていた。
 2~3年後、子どもたちが成長すると時間の余裕もできたので、学校に通い本格的に勉強を始めた。そのころになると、一緒に始めた6人の仲間たちはもうやめていて、続けているのは私だけだった。


 パッチワークはアメリカがその起源と言われている。17世紀の西部開拓の時代に、貧しさの中で、寒さをしのぐため残った生地をつなぎ合わせてベットカバーを作ったり、古くなった服のきれいな部分だけを切り取ったりして再利用したというのが始まりだった。

 それが、物が豊富になった今とでは、わざわざ新しい生地を切りきざんで装飾的なタペストリーを作る贅沢な手芸となった。

 日本にアメリカのパッチワークが入ってきたのは戦後である。もちろん、それ以前にもハギレを縫い合わせて着物を作るという文化は存在した。

 これは江戸時代の後期に作られた下着だが、アメリカンパッチワークのヘクサゴン(六角形)の形をつなぎ合わせている。日本では亀甲の模様と言うらしい。(写真・左は、『ハギレの日本文化誌』 福島県立美術館 より引用)

 また、日本で古くから行われている「刺し子」もパッチワークにおいて「キルティング」と呼ばれている、表布とキルト芯と裏布とを三層に合わせて縫う方法とよく似ている。

 それぞれの国で同じような手芸が発達したが、国民性からか微妙に形態が異なっている。私が習い始めたころは、日本人の几帳面さからか、パッチワークとは手で縫う物であり、キルティングの針目は1㎝につき3針、などと決められていた。
 角を合わせ、正しくきれいに縫った物がいい作品と呼ばれていた。

 当時、友人がハワイで買ってきたハワイアンキルトのバッグの針目の粗さには驚いた記憶がある。
 本場のアメリカでは早くからミシンを使い、決められたパターンにとらわれず、自由な発想の作品が多かったが、この十年くらいの間に、日本でもミシンを使ったミシンキルトと呼ばれるパッチワークが盛んになってきた。
 私も布と布をつなぎ合わせるピーシングには、徐々にミシンを使うようになった。


 その後、通っていた学校を8年程で卒業し、個人の先生についてデザインの勉強をして、オリジナルデザインの作品を作るようになった。
             
 作品をコンテストに応募して入選したこともある。「曼珠沙華の咲く道」(縦218㎝×横174㎝  2005年制作)  
 これは埼玉県にある巾着田と呼ばれる曼珠沙華の群生する場所へ行き、風景を写し取ってきて、そのイメージで作った作品である。

 そして、何年かすると、習っている教室の展示会の責任者の仕事をするようになった。生徒でもあり、展示会の役員として仕事をするのは大変だったが、それも好きなパッチワークのためと思い、他のメンバーとも協力して年1回の展示会の準備を進めた。

 あとは展示会を数日後に待つばかりとなった2011年3月11日、東日本大震災が起こった。

 なんとか展示会だけは開催したいと思いあれこれ努力したが、交通機関の麻痺により作品が届かない。計画停電で照明もどうなるかわからない。東北に住むメンバーはもちろん来ることはできず、関西のメンバーもこの時期に、東京へ行くことに家族が反対するなどの異常事態までも発生し、やむを得ず展示会は中止になった。

 被災された方々のことを思うと、たかが趣味の展示会の中止などなんでもないと思われるが、案内状を送った各方面への連絡に追われながら、数々の準備の苦労を思い出し、無気力な日々を送っていた。

 そして、こんな前代未聞の出来事に遭遇したことにより、思いもよらぬ事態が発生した。展示会に関係することで生じた不手際に対し、万が一の備えが足りなかったと、すべてが私の責任となってしまったのだ。
 責任者として当然のことではあるが、パッチワークそのものに対しても向き合えない気持ちになった。
 それ以来、いくら作品を作ろうとしてもうまくいかず、やめてしまおうとさえ思った。しかし、作りかけの作品はどうしても捨てることができず、仲間たちからも「もう一度一緒にやろう」と励まされ、なんとか再び針を持つことができた。


 やっと気持ちも前向きになり、止まっていた作品が前に進み出し、完成したのは3年後のことだった。そして2014年2月に行われた展示会に間に合わせることができた。

 この作品はきれいな四角ではない、いびつな形、そしてミシンでのキルティング、と初めて挑戦することばかりだった。
 デザインの段階では面白いと思ったが、いざ作り始めてみると、重なった部分の処理や裏の始末などにとても苦労した。


 今回の展示会のテーマがアルファベットの「T」だったので「T」という形を分割したり変形させたりしている。題名は「出逢い~Red&Bleu~」(縦170㎝×横144㎝)

 赤と青の色の出逢い、新しいパターンとの出逢い、新しいデザインとの出逢い・・・色々な出逢いによってできた作品である。

「3年ぶりの新作」と案内状に書いて送ったので、展示会にはたくさんの友人たちが観に来てくれた。

 ここまで戻って来られたのは、指導してくれた先生や仲間たちの存在があった。そして余計なことは考えず、自分とパッチワークだけに向き合い、無心になれたからだと思う。

 そして作品を見て「よかったね」と言う友人たちの言葉を聞くと、また次も頑張って制作しようと新たな意欲が湧いてくる。 


朝日カルチャー・千葉  2014年3月の提出作品】 

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