A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】鳥島と漂流者たち=久保田雅子

 【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています
             
                                    久保田雅子


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                 作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


鳥島と漂流者たち 久保田雅子

 私がはじめて読んだ漂流物語は、野上弥生子氏の<海神丸>だった。
 女性作家が壮絶な漂流状況を書いたことにおどろき、感動したものだ。と同時に、漂流物語にはことさら興味を持つようになった。

やがて、いろいろな物語を読むなかで伊豆諸島の無人島である、鳥島(東京から約600キロ)に何度も出会う。
 アホウドリの生息地としても有名な火山島の、この島には江戸時代に数々の漂流した船が流れついた。この島のおかげ(存在)で生還できた漂流民は80名以上だという。
 
 鎖国以前の日本は、天測航法技術を持っていて、太平洋を横断する航海もできた。御朱印船が活躍し、南洋諸国とも盛んに交易をしていた。
 だが、江戸時代になると、鎖国政策のため船は国内運搬用のみの廻船となった。陸上の山見航法で、暴風雨などに巻きこまれて陸から遠ざかってしまうと、船位がわからなくなってしまうというお粗末なものだった。

 収穫が終わった新米を江戸に運ぶ季節が、ちょうど冬の北西季節風で、船乗りの恐れる<大西風>のころだ。
 もしも、黒潮に乗ってしまうと日本から遠く流されてしまう。
 嵐の最中におみくじで占いをして、帆柱を切り捨てるという無知な行為から、天候が回復した時にはもはや帆船航海ができなくなり、漂流だ。

 活火山の鳥島は食用になる植物もなく水もない。漂流者は洞窟を住まいとしてアホウドリと魚を食糧に、水は雨水を貯める工夫などをした。

 
 1719年に漂着後、鳥島で20年もの長きに渡ってのサバイバル生活の後、生還を果たしたのは遠州(静岡県)の大鹿丸12名のうち3名だった。<鳥島漂着物語>(小林郁著)絶版。

 このときは島が活動期で火口から火種を得て、夏には立ち去ってしまう渡り鳥のアホウドリの干し肉を作り、保存食として夏を過ごす工夫をしている。
 20年後に島に漂着してきた江戸の宮本全八船17名とともに、伝馬舟でついに八丈島に帰着を果たす。

 吉村昭の著作<漂流>は、1785年、江戸後期、土佐(高知県)から漂流した長平の物語だ。
 遭難した4人のうち3人が1年半のうちに病死した。ひとりになった長平の火もない孤島での暮らしは、孤独と絶望の極限で想像を絶するものとなった。

 3年目に備前国(岡山県)の船(11名)が漂着、さらに翌年、薩摩(鹿児島県)の船(6名)が漂着する。
 この3組の漂流者たちが、自分たちで流木などを集めて船を作り上げ、12年目にして青島への帰還を果たすまでの物語だ。 
 生還できた者たちは、後の遭難者のために火打道具など生活用品を残している。

 1841年には、同じく土佐のジョン・万次郎もこの島に流れ着き、5か月近くを過ごして米国捕鯨船ジョン・ホーランド号に救出される。
 万次郎たちはアホウドリが渡り鳥であることは気付いていたが、保存食とすることまでは思いつかず、夏になって食糧もなくなり救出されたときは餓死寸前だったようだ。

 万次郎はハワイを経てアメリカ本土に渡り、船長ホィットフィールド氏の養子となって、アメリカで教育を受けて10年後に帰国する。


 万次郎の頃になるとアメリカの捕鯨船が鳥島近辺を頻繁に通過するようになって、鳥島の遭難者は捕鯨船に救出されるようになる。
 現在の日本のように行方不明になった船や、生還した漂流者達が日本中に知れ渡ることもない時代だ。記録にある生還者だけでも、80名以上というのだから、その何倍かの漂流者たちがいたはずだ。

 この島のおかげで生きて帰国できた人たち…。無念と絶望のうちに島で死んでいった大勢の人たち…。いずれも、心身ともに想像を絶する過酷な環境だったに違いない。

 島には以前、気象観測所があったが火山活動の群発地震によって、1965年に閉鎖された。火山活動度ランクAの活火山に指定されている。

 現在は、なにもない忘れられた無人島である。その島には、交通手段もなく行くことも不可能だが、私には何とも言えない特別な思いのするところだ。


 地図の引用先は、
  フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)より

 文・写真 久保田雅子

 編集    滝アヤ

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