A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(31)陸前高田=30分間はとても長いんです

 大津波に襲われた高田市は、1年半経ったいまなお荒涼とした地形が拡がっている。被災後の取材で、「こんなにも標高がない町だとは思いませんでした」と多くの声を聞く。住人の話と現地を何度も歩いて、地形を解析してみた。
 気仙川(高田市)の河川が数千年かけて、山奥から土砂を運びだし、広い扇状の洲を作っていた。所どころには泥があるが、それも埋め立てられて平坦化されている。文明がごく自然に発達してきたのだ。


 広田湾の海岸に沿った集落は、ホタテ、ワカメ、カキ養殖の漁業の盛んな地区になった。一方で、中心部はどこまでも平坦な土地だけに、都市文化が発達してきた。高田市役所、JR高田駅、大町商店街、大型スーパーなどもできた。
 これら市街地から海岸の間は2-3キロの距離がある。民家、ビルなど建物や産業が密集してきたことから、住民にとって海は意識外で、ふだん海、海岸、潮など感じられない生活になった。夏休みに海水浴に行くていどの認識だった。

 日本は災害列島である。有史からの経験則だけで、津波が襲う角度一つすら正確に測れない。人間の想定、仮説から外れたことが起きる。3.11はそれを教えてくれた。それをもって1000年に一度だという。5000年に一度だったかもしれない。

 明治大津波、昭和大津波、そしてチリ地震津波でも、高田市街地にまで津波は押し寄せなかった。約200年の経験からしても、市街地の住人は、大津波警報が出ても、ここまで来るはずがない、と信じ込んでいたのだ。
「30分は長い時間なんですよ」
 2時46分の大地震の直後、強い余震もきた。一瞬、大津波がくるかな、と誰もが一度は脳裏で意識したはずだという。

 5分、10分、15分もすれば、どうも津波は来そうにもないや、別段逃げる必要もない、と人は安易な方に気持ちが向いてしまう。一度は避難した人も、35分前に自宅に戻っていった。そして、巨大津波に襲われている。

「最悪の状況にしたのが、高田市の有線放送です。『大津波警報が出ました。3、4mの津波が予想されます』。この高さは余計な放送でした」と語る。住民に安堵感を与えた。「なんだ。それならば、チリ地震津波の高さと同じじゃないか。高田松原の4.5mの堤防よりも低いじゃないか」と却って安心感を誘ってしまったのだ。

 気象庁は次々に予想する津波の高さを変えていった。だが、地震=停電で、おおかた県庁を経由するFAX情報などが市役所の放送担当まで届かなかったのだろう。高田市民はくり返し、3、4mの津波予想を聞かされつづけた。どうせ無関係だと、30分も経てば、聞き飽きてしまったようだ。
「3、4mの高さは言わないほうがよかったんです」
 と現地の方は語る。

 高田松原で見張る職員から緊急連絡を受けたのだろうか、市の有線放送から「あっ、津波が10mの高さで、堤防を越えました」とくり返す途中で、絶句してしまった。もはや手遅れだった。市役所まで海水が到達していたのだ。

 津浪は沿岸部に来ると、世界最速の100mランナーよりも早い。高田松原をなぎ倒し、市街地に襲いかかる、巨大なエネルギーで猛烈な破壊をはじめていたのだ。

 奇蹟的に助かった人から話を聞くと、ブルドーザーが家屋を壊すような音がしたので、振り返ると、解体作業のような煙が舞い上がっていた。「映画のセットかな、きょうはそんな話は聞いていないし」と茫然と見上げていた。
 誰か記憶にないが、津波だ、と叫んでいたので、「これは現実だ」と思い、無我夢中で逃げました。いま命がある方が不思議です」と話す。


             撮影:穂高健一、陸前高田市、2012年8月23日(被災から約1年半後)

「3.11(小説)取材ノート」トップへ戻る