A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(29)気仙沼=「ささかぜ、現在地を知らせよ」

3.11東日本大震災の発生後の、気仙沼海上保安署の緊迫した任務が取材できた。

 2時46分に大地震が発生した。合同庁舎から担当職員5名が、巨大な余震すらいとわず、小型巡視艇「ささかぜ」の係留地に走った。艇に飛び乗ると、すぐに出航した。
 気仙沼はカツオ、サンマがメインの漁港だ。入港中の漁船など船舶に対して、
「津波に注意せよ」と勧告しながら、ささかぜは沖に出ていく。水深50メートル以上の海域に出ないと、津波から艇は守れない。

 合同庁舎で指揮する同保安署長の目には、はるか沖合いの津波が見えてきた。
「どうか、無事にいてくれ」
 と祈る気持ちだったという。
 もし津波で転覆すれば、殉死者を出してしまう。むろん、他署から捜索応援など貰えるはずがない。救助の手段を失ってしまう。

 庁舎は地震発生時から停電だ。小型発電機を回し、無線機を使えるようにさせた。
「来た、来た、津波が……。凄いことになっている」
 気仙沼を襲う大津波は、沿岸の備蓄石油タンクを流し、停泊する船舶をなぎ倒し、家屋を流す。
 海上保安署の庁舎すら、津波が入ってくる。

「ささかぜ、現在地を知らせよ」
 署長は無線で呼びかけた。
『第一ブイの沖に到達』
 そこは水深50メートルだ。
「よくぞ、完遂できた」
 署長はうれしかったという。

 その後の「ささかぜ」は、海上に流された被災者たちの救助活動や、行方不明者の捜索を行う。2クルーの交代制で、24時間の活動である。
 他方で、気仙沼大島に火災が発生したことから、消防職員たちを輸送する。島の病人が出れば、本州側に搬送する。

「船底1枚下は地獄です。それは漁業者も保安職員もおなじ。海上では職員が1人失敗すれば、船全体が危なくなります。たとえば、1人の見張りを欠いたら、それだけで衝突の危険性が高まります。密集した海上のガレキのなかで、海上保安署の船が動けなくなると、誰も助けてくれません。安全運航に気をつかう毎日でした」と署長が語る。

 気仙沼はリアス式海岸だから半島への道路がないし、ささかぜに頼るところは大きい。交信するヘリから、遺体発見、と連絡が入ると、ささかぜはそちらに向かう。ガレキが漂着し、近づけない。となると、管理艇(ゴムボート)引っ張って行っていく。


「警察も、自衛隊も、みんな同じでしょうけど、震災の後、職員のなかには家族と連絡が取れず、精神的につらい面が多々あったと思う。3.11から最初の1か月は合同庁舎で、雑魚寝で、不眠不休でした」と話す。

 全国の海上保安部(沖縄を除く)から、職員や潜水士が同署にも派遣されてきた。特殊救難隊が羽田から来ていた。海上保安庁による懸命の捜索が続けられた。
 震災直後から3か月経っても、海水の透明度が悪く、1メートルすら見えない。目視で探する。ソーナーで探す。

「地元の人は、人が海に落ちたら、どこらに沈んでいるとか、この辺りに流れ着いているとか、と私たちよりもくわしい。そこを集中的に探すと、ご遺体が発見できるケースも多々ありました」
 台風や大しけで海が荒れた後、遺体が発見できる確率は高いともいう。

 沿岸の海底で乗用車が発見された。クレーン船で引き揚げると、4名の遺体があったという。引き揚げに携わる作業員が探していた家族だった、という悲しい話もあった。

 沖合いで発見された遺体の収容作業を聞いてみた。それは実に大変なものらしい。
「職員が海水に入って、ご遺体を抱えてきます。海中で、専用ネットに入れるのも苦労します。そして、3人の手で巡視艇に引き揚げます。これも重い。港に戻ってきて、検視のために警察に引き渡します」
 警察は身元を特定してから、家族に連絡する。遺族は警察に出向く。

 陸上で生活するものは、海上保安署による海上捜索の任務の詳細など、ほとんど知り得ない。遺族すらも、わかっていないだろう。表に出ないことも書く、小説の取材としては重要だと思った。

 大地震の直後に、同職員がとっさの判断で「ささかぜ」を沖出しで守った。それが震災後の気仙沼の人命救助活動、行方不明者の捜索に如何に重要だったか。
 大津波で1階、2階と水没していく気仙沼合同庁舎から、
「ささかぜ、現在地を知らせよ」
 その問いかけに対して、沖から応答があった。それは心にうれしかった
 ささかぜとともに、1年余りたった今まで職員から負傷者やケガ人が出なかった、良くやってくれた、と話す署長の顔は印象的だった。
 
 

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