A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(27)気仙沼大島=燃える家屋が灯籠流し

 気仙沼大島と本州の唐桑半島は狭い海峡である。「大島瀬戸」と呼ぶ。生カキの養殖で名高い。
 3.11で、太平洋側からの津波と、気仙沼湾からの津波とが、3日間にわたり、左から右からと襲来したところである。

 気仙沼大島の外浜はその大島瀬戸に面した、小さな集落で7軒あった。現在は家屋はすべて流されてゼロである。合計9人が亡くなった。被害が大きかった。

 助かった女性(60代)から、話が聞けた。7軒のなかでも、やや高台だった。(私の目で、それが確認できた)。宮城県沖がきたら、津波は10メートルの高さだから、わが家は大丈夫だと、彼女はシュミレーションしていた。室内で、大地震で倒れたものを整理していた。

「バカ、逃げろよ」と夫に言われた。
 夫は海峡のカキ養殖イカダから、急いで漁船でもどり、自宅をのぞいたようだ。

 彼女は2階の窓から、海を見たならば、津波が岸壁に襲いかかっていた。濁流だった。大島瀬戸は船や家が流れていた。「ここも危ない」と手にするものも一切なく、急きょ94歳の婆ちゃんを背負おうとした。
「元気なものだけで逃げて。とにかく逃げて」と拒絶したという。
 真下の家はもはや流れ出している。
 婆ちゃんは頑として聞き入れなかった。
 津波に追われた家族は、必死に裏山の沢沿いを駆けずりあがった。途中からふり返ると、自宅の屋根がすっぽりなかった。90代のお年寄りは、9人の犠牲者の一人になった。

 亀山の中腹まで来ると、大島瀬戸の石油タンカーの船員が、助けを求めて手を振っていた。「私たちにはどうすることもできなかった。その船員が助かったか、どうかも分からない」と話す。
 夜の津波は向きを変えたようだ。停電で真っ暗になり、何も見ることができない。しかし、燃える家屋が大島瀬戸を行ったり来たりしている。まるで「灯籠流し」のようだったという。

 その燃える家屋や船の火が、こんどは大島の山林に引火した。住民は防災訓練の指定場所である、亀山(かめやま)中腹の大島神社に避難していた。ところが、山火事の発生で、延焼の危険が出たので、他に移動命令が出た。
 道路は地震でがけ崩れ。車では通れない。停電で街灯もない。難儀しながら、体育館に移り、ロビーにブルーシート引いて寝ることになった。毛布二枚ずつもらった。

 3.11は寒かった。朝になると、同じロビーには遺体が2体、収容されていた。そのうえ、同日には避難できた老人が過労からか息を引き取った、と話す。


  写真説明:亀山山頂からみた大島瀬戸。山の裾野が外浜、対岸が本州の唐桑半島である。

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