A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(2)仙台・若林区=二つの偶然で、命拾い

 大災害とか、大事故には生と死を分ける、偶然性のドラマは必ずある。そのまま小説化すると、却ってリアリティーのない作品になってしまうから不思議だ。

 長年使ってきた血圧計が3.11にふいに不具合になる。それが一日違いならば、佐野謙三さん(65)は間違いなく死んでいたという。絶妙なタイミングで命拾いしている。

 謙三さんは2年前にJR関連会社をリタイアしている。奥さんはいまも勤務を続けるので、かれが家事を受け持ち、朝、昼、夜、とタイムスケジュールで日々を過ごす。同居する92歳の父親・良蔵さんの世話も組み込まれている。

 謙三さんにとって、自由な時間は昼食後からである。かれは乗用車で、仙台市若林区の荒浜から名取市の海岸(スポットとしては6カ所)に出向き、好きな海釣りをしたり、ウォーキングをしたりする。それが日課の一つ。
「家の回りのウォーキングは、リタイア老人に成り下がったようで、一切しないんです」

 海が大好き人間。10年前に亡くなった、母親譲りだという。

「母親は四国・今治市出身で、幼少女の頃から海釣が大好きだったそうです。看護婦になり、満州の病院に勤務し、そこで結婚し、終戦後に引き揚げてきてから、父の故郷である仙台で半生を過ごしています」
 母親は瀬戸内に里帰りしても、伝馬船で毎日沖に出て、一本釣りで大きな魚を釣り上げていた。

「ボクは母の里帰りの夏休みが、最大の楽しみでした。祖父母が瀬戸内の島暮らしでしたから、もう釣り三昧です」
 歳月が流れて、母親は80代になった。それでも海釣りが大好きだったという。謙三さんは勤務先が休みになると、親孝行のつもりで、母を仙台港まで車で連れて行き、夕方になると迎えに行っていた。
「釣りは集中力ですね。ボクの3倍は釣っていました。『お婆ちゃんが、こんなにもたくさん釣ってる』と岸壁で覗き込む人はみな驚いていました。血筋ですね、ボクはともかく海が大好きなんです」

 そんなふうに語る謙三さんの話が、3.11に及んだ。
 92歳の父親が、今朝から血圧計の調子が悪いという。謙三さんが点検しても不具合が生じる。
「もう寿命だから、買い替えた方が良いよ」
 高年齢者の血圧測定は大切である。どうせ買うなら、早い方がよいだろう、と考えた謙三さんは、昼食後の片付けが一段落すると、海辺のウォーキングは後回しに決めてから、乗用車で仙台駅前の量販店に向かった。

 ものの数分、陸上自衛隊駐屯地の横にさしかかった時、車体が大きく上下左右に揺れた、さらにバンドする。急停止した謙三さんは車から出ても、立っていられず、両手をついたと話す。激しい余震が続けざまにきた。これでは量販店に行っても、営業停止だろう。

 そう判断すると、かれは自家に引き返してきた。父親は無事だった。家のなかは家具や食器などが散乱しており、片づけを始めたという。

「3月はまだ寒いし、窓を閉め切って片付けをしていました。自衛隊駐屯地が近くて、すべての窓が防音ガラスなんです。だから、防災無線が聞こえず、津波による避難の呼びかけもわからず、ずっと家にいました。電気が止まり、TVも見られず、状況がまったく判りませんでした」
 謙三さんは周辺住宅で、避難せずはきっとわが家だけだろう、と苦笑する。

 大地震の後に津波がくる。その考えはなかったのですか、と聞くと、「仙台には大津波の歴史がないし、大地震=仙台に津波がくる。その考えはまったくありませんでした。ぼくが海岸でウォーキングしていても、津波は警戒しなかったでしょう。それは三陸のリアス式海岸の話だという先入観がありましたから。ボクは間違いなく津波にのみこまれていたはずです」と話す。
 
 3.11で、宮城県が大津波で未曽有の死者と行方不明者を出したのは、謙三さんと同じ考えだったからだろう。と同時に、仙台平野はどこまでも海岸との高低差がなく、三陸海岸のように裏山がないので、津波被害が広域に出たのだ。
 
 かれはもう一つ幸運を語る。

 謙三さんは防災無線が聞こえず、TV、ラジオの情報もなかった。オール電化の家は暖房がなく、寒い思いをしていた。しかし、佐野さん宅は石油ストーブだから、夜の寒さはしのげたから、避難所に行かず、ひたすら家のなかで片づけをしていたという。
 本来ならば、佐野家は大津波に襲われても不思議でないほど、海岸から近い距離にある。

「仙台空港への高速道路がすぐ近くに走っているのです。高架でなく、土盛りですから、大津波の防波堤になってくれました。土盛りの貫通路から、津波の海水が浸水してきても、勢いがなく、わが家の手前で止まっていたのです」と話す。もし高速道路がなければ、家屋はやられただろう、と後からぞっとしたと語る。まさに、二重の幸運に助けられている。

 大正時代生まれの父親・良蔵さんからも話が聞けた。90代にして頭脳は明瞭で、記憶も正確で、顔の艶も良い。私が指導する「小説講座」に自分史から小説に転向を図る、92歳の女性受講生がいる。ともに年齢を感じさせない頭脳だ。

 良蔵さんは(旧)角田市の農家の次男に生まれている。8歳の時に関東大震災が発生したという。日本は復興のために外国から多くの借金をしたことで、その返済のために年々、税金はうなぎ上り。拍車をかけるように昭和の大津波で、東北は極貧状態になった。農家の娘たちが売られていく。それらを間近に見て育ってきたという。

 良蔵さんは農家の次男だから兵隊に志願した。そして、満州鉄道に勤務し、そこで結婚している。生後6か月の子どもを連れて引き揚げてきた。人間が生きる限界、その状況を克明に語ってくれた。
 今回の取材では、関東大震災、東日本大震災、2つの大災害を同時に語れる人物に出会えたのだ。作品化するうえで、貴重な証言だと思った。

 名取市の津波の被災現場に行ってみたいというと、謙三さんは「ボクは二度ばかり悲惨な現場を見てから、トラウマになり、海岸に行っていないんです。すっかり片付けられたと聞いています。ボクもどう変わったか見ておきたいし……」と案内役を引き受けてくれた。【つづ゜く】



取材先の人物、企業、絞り込まれた地区名は、被災者のプライバシーの尊重、および取材源の守秘義務から仮名としています。(小説の人物名に近いところです)

「3.11(小説)取材ノート」トップへ戻る