A060-3.11(小説)取材ノート

小説取材ノート(1)仙台市=原爆ドームから東北被災地へ

 2011年3月16日13時46分に、巨大地震の東日本大震災が発生した。その直後から、ジャーナリストたちが現場から生々しく状況を報道してきた。とくに大手マスコミは機動力にものを言わせ、世界に向けて大惨事を発信してきた。
 一方で、全国から大勢のボランティアが東北地方の現地に入り、復旧に手を貸してきた。

 大災害から2か月、3か月と月日は経っていく。
 「私には何ができるのだろうか」
 と常に自分に問いつづけてきた。この際は被災地に飛んでいき、被災者への援助、手助け、片付けなど体力を使うべきだろうか。と同時に、一度は大災害の生々しい現場、リアルな状況を見ておくべきではないか、という衝動に駆られていた。
 そうではない。私は作家として、なにか別の役割があるはずだ、と圧えた。

「文学は災害に対して何ができるか」
 作家の立場で、被災者一人ひとり、あるいは一家族と向き合う。そして、小説で書き残す、それしかないと結論づけた。

 早くに被災地に入れば、大自然の恐怖、倒壊、破壊の物理的な惨事に目を奪われてしまい、私自身が距離感をなくすだろう。距離感のない作品は、作者の空回りで、駄作になってしまう。

 小説は災害の惨(むご)を伝えるものではない。数奇な運命を語るものではない。大震災で、人間の生き方、考え方、ものの見方がどう変わったのか。そこを書くのだ。小説は報道ではない、人間を書くことだ、と律してきた。

 個人商店のような小説家の出番は、災害発生から約半年が経った頃かな、とあえて抑えてきた。とはいっても、被災現場が漸次片付けられていく。やがて災害の痕跡がなくなり、何も書けないのではないか。その焦燥感がたえず付きまとっていた。
 
 11月半ば、行動を起こすことに決めた。大津波の被災地となった仙台市・若葉区、名取市、陸前高田市を当座の取材先とした。

 その1週間前の11月7日、私は広島原爆ドームの前に立っていた。大勢が火炎や白血病で死んだ、投下後の様子(資料から)を思い浮かべた。太田川の川船にも乗ってみた。私が小学校低学年の頃、川沿いは被災者のバラック建がずらり並んでいた。
 一方で、大災害を小説として書くのは何十年ぶりだろうと、考えていた。

 小説習作時代、おおかた30代後半のころ、私は原爆投下後の、両親を失った悲惨な兄妹を書いた。まずは広島平和記念資料館で、原爆関連資料を徹底して読み込み、焼けただれた人間の写真なども脳裏に刻みこんだ。原爆の恐怖が夢に出てくるまで熟知したうえで、ストーリーを構成し、書き上げた。

 恩師の伊藤桂一氏から、「これは児童文学だね。環境は厳しいけど、低いところでまとまっている。小説はもっと厳しく書かないとダメだよ」と酷評された。それが理解できるまで、十数年かかった。

 主人公が少年・少女だと、いくら厳しい環境でも、作者の執筆姿勢が甘くなってしまう。人間の美醜が書ききれていない作品になるのだ、と。白血病の妹は初めから、かわいそうなものだと決めつけている。距離感のない作品になっていたのだろう。

 3.11は大人を主人公にする、と広島で決めた。徹底して大人の目線で書く。大災害のなかで、人間は何を考え、何をよりどころにし、明日への生き様をどうとらえているのだろう。災害で生じたはずの人間模様、とてつもない醜さと美しさ。差別とか、格差とか、その醜態が必ずあるはず。それらがどのように、いまの生き方に影響しているのか。あるいは今後も受け入れられるものなのか。
 それを小説化していく。それには徹底した取材が必要になる。

 どんな主人公にするか。それは白紙だ。被災地の取材のなかで、決めていく。まずはひざを交えて語ってくれる人を探しだす必要がある。心を開いてくれる人がいれば、やがて何度も通う。2年、3年かけてでも、一つの作品を完成させる、と決意した。

 仙台市若林区にすむ佐野謙三さん(65)は幼いころを知る。災害後、安否確認の連絡をしたところ、
「父親の血圧計が壊れていなかったら、ボクは津波にのまれて死んでいたよ」
 という話が戻ってきていた。

 大災害で生と死を分ける、偶然性のドラマは必ずある。それがメインに座ると、小説が陳腐になる。しかし、話を聞くことで、着想の一つになるはずだ。
 取材の第一歩として、かれに会おうと、仙台行のチケットを買い求めた。

 原爆ドームを見た、ちょうど一週間後の午後の同タイムだった。私は仙台駅舎の外壁を見ていた。きれいに化粧された、新装の駅だった。TVが報道した災害の痕跡など、みじんもなかった。

「この先、行くところどこも残骸(ざんがい)、瓦礫(がれき)など、すっかり片付いているのかな? 先が思いやられるな」
 私は思わずつぶやいた。たとえそうだったとしても、作家の武器は想像力だ、と自分を鼓舞した。

 佐野謙三さんとは約束時間に、仙台駅前で会えた。どんな話に及ぶのか。取材の手掛かりのスタートになるのか、と思いめぐらせた。【つづく】



取材先の人物、企業、絞り込まれた地区名は、被災者のプライバシーの尊重、および取材源の守秘義務から仮名としています。(小説の人物名に近いところです)

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