A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組=あだち区民大学塾で講演

 足立区郷土博物館で、区制80周年の記念事業の一環として、令和2年11月29日から令和3年2月23日まで、文化遺産調査特別展『名家のかがやき』が開催された。
 穂高健一著「紅紫の館」(令和3年2月)が発刊された。
「あだち区民大学塾」において、2つの題材を基に講演会が企画されました。

 講演会の主題『幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組』で、10月2日(土)、同月23日(土)、同31日(日)の3回にわたり開催されました。

 講師は3回とも異なり、午後2時~4時であった。

足立講演会.jpg
 第1回は小説「紅紫の館」の作者として穂高健一である
 足立で農家(新田開発)と武士(江戸城の北東部の守り)の両面の役割を担った郷士・日比谷健次郎の活躍を紹介した。


 おなじ武蔵の国の郷士でも、幕末に日野周辺の八王子千人同心から近藤勇、土方歳三などが京都に挙がった新撰組(当初は浪士組)が名高い。
 しかし、武蔵国・足立区においても、千葉道場の免許皆伝者の日比谷健次郎は、内密御用家として江戸防衛に徹し、おおいなる活躍をした。

 なぜ桜田門の変が起きたか、まずはそこから話をすすめた。そして、大政奉還、鳥羽伏見の戦いのあと、慶喜が江戸城を無血で開城したのに、なぜ薩長主体の新政府軍が上野戦争を仕掛けたのか。
 
 それは上野の東叡山寛永寺の貫主・輪王寺宮(りんのうじのみや)が東武天皇に君臨する動きがあったからである。

 京都に眼をむけると、父の孝明天皇が崩御すると、幼帝・睦仁(むつひと)が満14歳で践祚(せんそ)した。ただ、即位の礼を執り行っておらず、天皇ではない。
 ところが、薩長は幼帝・睦仁がさも天皇のごとく好き勝手に扱っている。君側の奸(くんそくのかん)だと、旧幕府が強い反発を抱いていた。(この段階で明治天皇とするが間違いである。会津戦争が終わる寸前まで、幼帝の睦仁殿下である)

 かたや、輪王寺宮能久(よしひさ)は二十歳であり、孝明天皇の義弟ある。天皇になる資格は十二分にある。
 
 奥羽越列藩同盟に呼応して輪王寺宮が天皇になれば、日本に二人の天皇ができる。まさに南北朝時代の再来で、東西朝時代になる。


 新政府軍はあらゆる面で不都合であり、輪王寺宮の抹殺を謀った。そして、やらなくてもよい流血の上野戦争を仕掛けた。
 足立郷士の日比谷健次郎が輪王寺宮の救出に関わった。成功すると、輪王寺宮は榎本武揚海軍の軍艦で奥州へ渡った。そして、仙台藩、会津藩の盟主になった。


 戦争は軍資金がないとできない。上野戦争の前に、「徳川の知能」といわれた旗本・松平太郎が金座、銀座、銅座から百万両余りをもちだす。それを日比谷健次郎が手助けをした。小判と銅銭が新撰組の土方歳三、伝習隊を率いる大鳥圭介など旧幕府軍の軍事費となった。


 幕末から埋蔵金の伝説があり、小栗上野介忠順が江戸城から運び出したという見方が流れていた。その実、運びだした人物は松平太郎である。江戸城が無血開城されたとき、城内の金庫は空であった。新政府側の多くの証言から、それは事実である。


 つけ加えれば、さらにその前の「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城(華城)から慶喜が東帰した直後から、3日間にわたり、榎本武揚の幕府海軍が金銀をすっかり運びだしていた。
 慶喜から戦場を一任されていた大目付・永井尚志(三島由紀夫の曽祖父)が指図し、全軍を江戸への撤兵と、旗本の妻木頼矩(よりのり・目付)には大坂城を長州藩に引き渡しする当日、城の火薬庫を自爆させたのだ。大爆発で、華城は全焼した。新政府は得られる金品がなかった。

 旧幕府には知恵者の人材が豊富だった。大坂城と江戸城の金庫はともに空っぽだった。
 新政府は結果として、資金豊富な旧幕府軍と戦う羽目になってしまった。松平太郎の運びだした資金で奥州戦争、榎本武揚が大坂から軍艦で持ち去った軍資金で函館戦争を戦う。

 かたや、新政府にはまったく金がなかった。戊辰戦争に参戦した西側の諸藩は、戦費がもらえず、薩摩藩、広島藩、土佐藩、福岡藩など、大規模な藩がこぞって贋金づくりに精を出したのだ。日本経済が破綻寸前にまで落ちた。
 
 戊辰戦争が終わると、明治新政府は満足な通貨ももてない赤字財政苦からはじまった。近代化を謳っても金貨がなければ、外国があいてにしてくれない。資本主義とはなにかもわからない。
 最悪はこのさきアジア諸国のように半植民地である。


 当時、西洋式の財務諸事情と資本主義に明るいのは、パリ帰りの渋沢栄一である。かれの上司は徳川慶喜である。新政府は窮地から大蔵省の出仕をもとめざるを得なくなったのだ。
「上様を惨めな朝敵にした新政府だ。断る」
 渋沢は強く拒否した。静岡で謹慎中の慶喜から、
「新しい国家をつくるためだ。もう敵も味方もない、大蔵省に出向きなさい」
 と渋沢は諭されたのである

 ここらを2時間にわたって語った。

         *  

 第2回は日比谷家の子孫である歯科医師の日比谷二朗さんで3.>

足立区の日比谷家の屋敷や数々の文化財について紹介がなされた。特に屋敷・甲冑・雛人形・狩野派の絵画・独語辞典「和独対訳辞林」について。

         *

 第3回は足立区立郷土博物館学芸員の多田文夫さんである。

 新田開発や残された文化財から、日比谷家に止まらず、幕末の足立の郷士は文化の担い手として狩野派の絵画を伝えるなど、文化的にも経済的にも極めて豊かな状況であったことが説明された。


「楽学の会」事務局の糸井史郎さんは、3人の講師による講演会は期待以上の評価が得られました。足立区の江戸時代の文化水準が非常に高かったことを足立区民の方々に知って頂くことができました、と語った。

「歴史の旅・真実とロマンをもとめて」トップへ戻る