歴史の旅・真実とロマンをもとめて

神機隊  《7》 ~志和で生まれた炎~ 神機隊と神木隊

「神機隊物語」の取材、執筆するさなかに、『まさか』という偶然の出会いがあった。

 慶応4年3月11日に、神機隊が自費で、志和から戊辰戦争へと出兵した。会津にむかう途中、海路で品川に上陸した。浅野家の菩提寺・泉岳寺(せんがくじ)(忠臣蔵で有名)に滞在中、上野戦争への参戦をきめた。

 地形偵察に行った藤田太久蔵(たくぞう)参謀たちが、上野の山で道に迷い、敵陣の彰義隊のなかに入ってしまった。
 敵方は刀を抜いて殺到してきた。
「諸君、早まり給うな。われらは敵意があって上野にきたのではない。隊長どのに会いにきたのだ」というと、敵兵は斬るに及ばず、隊長のところに案内した。

「隊長とは、どこかでお目にかかったようだが」
 機知に優れた藤田がほほ笑んだ。
「先年、長州征伐で、広島に長く滞在して大変お世話になった。そのとき確か貴殿にお目にかかったはず」
 藤田も久しぶりに会った懐かしげな顔で、広島藩も長州征伐当時に苦労したと聞かせた。やがて、心を開いた隊長が道案内し、上野の山から脱出させてくれた。(広島郷土史談)。

 この敵陣はどこか。越後(えちご)高田藩(たかだはん)の江戸詰だろう。

 先立つこと、鳥羽伏見の戦いのあと、神機隊の小林柔吉(じゅうきち)が、北陸鎮撫使(ちんぶし)の参謀となった。慶応4(1868)年2月には高田会議を開き、越後高田藩の榊原家を新政府側に恭順(きょうじゅん)させている。


 同高田藩江戸詰の武士らは、芸州口の敗北で、徳川四天王もこのありさまか、と嘲笑われた。ここは徳川家に最後までご奉仕するべきだと言い、脱藩したうえで、上野の彰義隊に加担した。
 かれらは榊(さかき)の漢字を分解し、「神木隊」を結成した。神木隊=シンキタイとも読める。奇異な偶然である。

 この神木隊には橋本直義(なおよし)がいた。かれは勇敢な武士で、芸州口の戦い、上野戦争、宮古湾の海戦、箱館戦争の激戦地で負傷しながらも戦っている。

 明治8年頃から、かれは「最後の浮世絵師=揚州周延(ようしゅう ちかのぶ)」として戦争画、歴史画、開化錦絵、役者絵、美人画など、さまざまなジャンルで活躍している。

 橋本直義はかつて海田市に滞在している。絵師の腕前から広島・船越(ふなこし)の大江谷(おおえだに)の「誰故草(たれゆえそう)」と縁もあるだろうと、拙著「芸州広島藩 神機隊物語」で取り上げた。


 揚州周延「帝国万歳憲法発布略図」= 提供・上越市立総合博物館

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