A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

防護服で、「高間省三」碑に墓参 = 福島・双葉町

神機隊の砲隊長・高間省三が、戊辰戦争の激しい戦いの浪江の攻防戦で死す。有能な藩士で、頼山陽2世ともいわれた、頭脳明晰で、文武両道に通じる若者だった。

 広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。



 さらいねんは維新150年である。広島護国神社(藤本宮司・写真の右端)は、高間省三の遺品が劣化しつつあるので、約200点をすべて写真撮りし、永久保存版の本にしたい意向がある。

 その作業がスタートした。

 神社の所蔵写真から、現在は広島藩の兵士らの墓地の写真撮りへと移った。ことし2016年7月20日から2泊3日で、茨城県・福島県の、それぞれの墓地に出むいた。
 
 高間省三が眠る双葉町は、福島第一原発の事故から、現在も残留放射能の濃度が高く、特別許可が必要である。

 7月22日は、その双葉町に出むいた。


 戊辰戦争で亡くなった広島・浅野家藩士ら一部は、東京・泉岳寺にも祀られている。そちらの写真撮りも成されている。

 泉岳寺といえば、赤穂浪士「四十七士」の墓で名高い。なぜ、と思われるだろうが、広島・浅野藩42万石は宗家であり、赤穂浅野家は5万石で分家だった。

 赤穂浅野家はお家おとり潰し(改易)で、家臣は浪人になり、四十七士は斬首でなく、切腹になった。むろん墓地などない。浪人といえども、元もとは浅野家の家臣たちである
 宗家・広島浅野家の配慮で、菩提寺・泉岳寺に祀られたのである。


 ちなみに、大石内蔵助の遺髪は、当時、生き残った志士のひとりが宗家・浅野家で祀ってほしい、と広島まで持ってきた。その遺髪が現在、広島市内の墓地に祀られている。
 あまり知る人がいないけれど。(そこには高間省三の顕彰碑もある)。

 浅野家家臣の有能な高間省三は、なんと18歳で、藩校・学問所(現在の修道高校)の助教だった。第二次長州征討が勃発寸前には、同校OBら55人で、広島にきた小笠原老中を暗殺を企ててまで、戦争を阻止しようとした。

 しかし、それはかなわず第二次長州征討は起きてしまった。大政奉還後も、鳥羽・伏見の戦い、さらに戊辰戦争へと戦火が拡大した。

 高間省三ら神機隊は自費で出陣した。そして、相馬・仙台軍と激しい戦いに望んだ。

 ひとたび戦争がおこると、反戦の若者でも出征して命を落とす。「戦争は起こさせたら駄目だ」。それを小説で感じ取ってほしい、と私は高間省三を主人公にした「二十歳の炎」を出版した。

 現在は三版。少しずつではあるが、高間省三の生き方を通して、明治政府が封印した芸州広島藩の幕末の動きが知られはじめた。
 
 幕末の中心は薩長土肥でなく、「薩長土芸」だと認知されてきた。

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