A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 木戸書簡は「薩長同盟」でなく「皇軍挙兵」の談論だ (上)

 歴史観は、固定観念にとらわれると、その枠組みから脱皮できず、真実、事実に近づけなくなる場合が多い。顕著な例が、「薩長同盟」だ。

 第二次長州征討で、長州藩は勝っていない。
『朝敵になった毛利敬親(たかちか)と、世子を後ろ手に縛ってでも、江戸に連れてくる』
 これが幕府がわの戦争目的だった。
 しかしながら、戦争のさなかに、德川家茂将軍が死去したので、一ツ橋慶喜が勝海舟を広島に送り込んで、休戦協定させた。

 毛利家は現・山口県から勢力圏を拡大したり、京都・江戸まで侵攻し、勝利したりしたわけではない。別段、勝ってもいないのに、明治政府の御用学者が、「長州藩が勝った、勝った」とするから、無理な辻褄合(つじつまあ)わせが必要になってくる。

 長州藩は長崎で西洋最新銃を購入し、その仲立ちは龍馬で、1866年1月21日、薩摩の小松帯刀と木戸寛治(桂小五郎)で、6か条の『薩長同盟』を結んだとする。

 1866年1月に、毛利敬親の命令で、家臣の木戸寛治ら4人が、京都の小松帯刀邸にでむいた。木戸は現代でいえば、長州の外務大臣だった。小松邸には、薩土長の関係者ら11人がそろった。


 長州藩は、「禁門の変」で京都御所に銃弾を放ち、京都を火の海にし、幕府、民衆、朝廷から敵視されていた。長州は朝敵だった。
『朝敵という汚名を外してほしい』
 これが毛利家の最大の目標だった。

 朝敵の長州が外れないかぎり、政治的な行動は一切できない。


 小松邸で、三藩の話し合いが行われた。長州藩が幕府から宣戦布告されていない段階である。あえて厳密にいえば、くしくも木戸が京都を立ち去った翌日、1月22日、幕府は長州処分の最終案を決めたのである。そして、
「毛利家の封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶」
 と奏上し、勅許が下された。

 つまり、三藩の話し合いは、毛利家の処分案が決まる前段階で、藩主の蟄居が取りざたされている段階である。
 長州藩が戦時下の体制に入るのは、
『蟄居処分が決まっている毛利敬親と、世子を後ろ手に縛って差し出せ』
 と大目付の永井尚志(なおゆき)が、広島藩を介して要求した。それにたいして広島藩も、長州藩も拒絶した。この段階から、きな臭くなってきたのだ。
 それはまだ数か月先だ。

 では、1月の小松帯刀邸の密会は何だったのか。薩長同盟ならば、薩摩4人、長州4人だけで、土佐側から3人の立会いなどは必要ない。坂本龍馬はこの中のひとりである。
 この11人で、一体なにが話し合われたのか。


 ややさかのぼれば、1864年に第一次長州征討が決着した。その直後から、江戸幕府への失望感が出てきた。

『德川幕府は、解決した長州問題を言いだしてきた。そのうえ、天皇と幕府と双方から、政治指図が出てくる日本は危うくなる。こんな德川幕府ではもうダメだ。皇軍の挙兵が必要だ』
 鎌倉幕府を倒した、後醍醐天皇の挙兵、つまり「建武の中興」がひそかに話題にあがりはじめたのだ。

 「建武の中興」とはなにか。蒙古襲来の元寇以来、鎌倉幕府の政局が極度に不安定になり、幕府はしだいに武士層からの支持を失っていた。

 その一方で、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒をひそかに計画をはじめた。天皇の討幕は、なんどか失敗した。けれど、やがて元弘3(1333)年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇がみずから行う政治)が成就したのだ。

 蒙古襲来後の鎌倉幕府の末期症状と、いまや通商条約後の尊王攘夷論がうずまきはじめた江戸幕府と、酷似してきた。孝明天皇の発言がより強くなってきた。後醍醐天皇に似てきた。


 『われらは、孝明天皇の下に挙兵する』
 薩摩藩、広島藩、土佐藩の家老級の人物が、極秘に皇軍の模索をはじめていたのだ。

 幕府ににらまれている毛利家だが、長州藩は下関戦争の経験がある。このさき皇軍として組み込むには、長州の代表者から胸の内を聞く必要がある。
 
 坂本龍馬、中岡慎太郎などが毛利家に働きかけ、薩摩憎しの木戸寛治(桂小五郎)が殿の命令で渋々京にやってきたのだ。
 小松邸に入った当初、木戸は怨念で薩摩攻撃が激しく、話し合いにもならず、品川弥次郎などは唖然としていたようだ。

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