A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

教えないことは隠すことだ(中)=明治軍国主義の誕生

 1月5日、芝・泉岳寺に出向いてみた。赤穂浅野家は、広島・浅野家の支藩である。だから、同境内には戊辰戦争で亡くなった芸州広島藩の墓がある、という文献の確認のためだった。
 12月は忠臣蔵で、きっと混み合うだろうと思い、あえて翌月にしたつもりだが、それでも大勢の人出に驚いてしまった。正月三が日はずいぶん込み合った、と甘酒屋の店主が教えてくれた。

 慶応4年4月27日、神機隊の300人余りが広島藩船の万年丸で、品川沖に朝4時に到着している。船内待機の後、5月8日には芝・泉岳寺に入り同14日10時の出立まで、滞在している、と同隊士の日記から判明した。(翌15日が上野・彰義隊の戦い)。

 このあたりの史料はないか。泉岳寺の社務所も忙しなげで、問いかけると書面の質問で、と言われた。人出を見た後だけに、予想通りだった。
 同境内には芸州藩士の墓があった。それにしても、赤穂浪士の人気はすさまじい。戊辰戦争で泉岳寺に来た広島藩士らが、朽ちた墓碑を見て、可哀そうだからと言い、『表忠碑』を建てた。(慶応戊辰春と明記)。大石力の真横にあった。

 徳川幕府から見れば、赤穂浪士の行為はどこまでも殺人行為だった。かれら47人は打ち首でなく、切腹で武士の体面を保った。庶民は歌舞伎で知り得ても、泉岳寺に表だって義士扱いの墓参りはできなかったようだ。だから、広島・浅野家の家臣が、朽ちた墓碑を憐れんだように廃れていたのだ。

 忠臣蔵と、戦争とは同列に考えられないが、「正義」の討ち入りだと、赤穂浪士は考えたのだろう。戦い、争いは、多くの場合、正義の発想だろう。 
 
 
「正しい歴史認識」そんな驕った気持ちはないが、戦争へと暴走してきた、維新の実態を掘り起こす。過去には薩長土から発掘されてきた。とくに、司馬遼太郎の歴史史観は、それらの藩を中心に展開されている。「薩長同盟」が作品の核になっている。

 薩長同盟は倒幕にさして役立っていない。誇張されている。王政復古で新政権ができても、長州の成果はほとんど無に等しい。

 明治政府以降、司馬史観まで『薩長』と一括りにする。そうして教えられてきた。この史観が明治政府の本質を隠れたものにさせている。ふたつを切り離して、維新史をみれば、その違いがよくわかる。
 
 薩摩藩の西郷・大久保はどこまでも、徳川家を断つ、討幕で推し進んできた。大政奉還の後も、将軍職にとどまている慶喜を討つ。それでないと徳川幕府の終焉はないという考えだった。だから、西郷たちは江戸城開城で、精神的に終わっているのだ。

 長州藩は安芸毛利家が広域支配200万石(実質)から36万石に転赴された。関ヶ原の恨み、徳川を倒して、こんどこそ長州支配の政権をつくる、という考え方だ。目的は政権を奪うことだった。

 ここが薩摩と長州の根本が違う点だ。これを同一視するところに、軍国主義思想の根源をわからなくさせているのだ。

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