元気100教室 エッセイ・オピニオン

女ごころ  金田 絢子

 作家、岩橋邦枝さんのエッセイ、「平気でばあさんという男ども」を共感をもって読んだのは、15年ほど前になるだろうか。未だに頭にこびりついている。

 彼女は、50歳そこそこで、ばあさん扱いをされた。学生たちの飲み会に仲間入りしたとき、会費が、女子は男子学生よりも二、三千円安かった。
 彼女は男性並みの会費を払い、律儀に差額を持ってきた学生に「いいんですよ」とお釣りをことわった。すると同席していた中年の大学教師が口をはさんだ。
「そう、こちらはいいの。ばあさんは女のうちに入らない」
こんな奴は、ビールでもぶっかけてやればいいのだ。


 私にもいささか苦い思い出がある。(当時、私は60代であった)近所の若夫人が娘とみちですれちがい、
「よく、お宅のおばあさまにお目にかかります」
 それを聞いて私はショックで暫く口がきけなかった。
(なぜ、お母さまにって言わないのかしら、まちがってる)
 と思ったからだ。

 我が家では、「おばあちゃん」は禁句である。
 私が四八歳の時に生まれた初孫にも「アーバ」とよばせてきた。私の気持ちを慮って娘たちは決して「おばあちゃん」とはよばない。「アーバ」もしくは「お母さん」である。

 そんなことを露知らないひとさまが、お婆さんよばわりをするのは仕方がないとも言えるが、どうしてもその時、こだわらずにはいられなかった。私は娘の母親であって祖母ではない。

 フランスでは、いくつになってもマダムだそうである。フランスはうぬぼれの強い国で私は好きじゃないけれども、”なんでもかでもおフランス”の日本人が、この風習をまねないのは、片手落ちだと思う。

 岩橋さんは、この彼女のエッセイのはじめに、
「今年は大学を卒業して40年目にあたるので、クラス会の趣向をかえて小旅行をしよう。夫婦づれ歓迎という案が出て、旧友数人で会食をした」
 のだが、中の一人が
「(主人が)ばあさん連中に囲まれておともする気はないって」
 というかと思えば
「うちもそうよ」
 なんて合づちを打つのまでいる。


 60歳を一つ二つ過ぎた女に、ばあさん呼ばわりはないだろう、と彼女は言う。
 私もそう思う。たしかにおばあさんと呼ばれただけで、腹をたてるのは度量がせまい人間のあかしには違いない。
 でも人はみな、煎じ詰めれば問題にするにも当たらない事柄に、一喜一憂する生きものではないか。
 ずっと昔、背の高い友人が、もう一人の背の高いクラスメートをさして何気ない調子で「Dさんは背が高いからいいのよ」と言った。私が背の低いことにコンプレックスを持っていたら、カチンときたかもしれない。
 私は学校ではコンプレックスの固まりだったのに、「チビ」については何とも思っていなかった。
 私は周囲の人、殊にオバサマ連にちやほやされたが、小さくてかわいいからだと勝手に決めこんでいた。

 また、小さいと年をとってから、皺なんかも全身が手狭な分、めだたなくてすむと楽観視してきた。
 ところが、ある時、私より小さくて、すっかりしなびた人を目にして、ぎゃふんとなった。老いてちぢんで歩いている姿は、目立たないの次元を越えて、いじましかったのである。勝手な思いこみをしたがる、私の性癖が地に落ちた瞬間であった。
(もうやめよう、意地を張るのは)と思った。

 ああ、それなのに、数日経ったら、当たり前のように以前の私に戻っていた。年をとってばあさんとよばれるのは当たり前、とうそぶく度量を未だもちあわせぬ、私の苦闘は続く。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

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