元気100教室 エッセイ・オピニオン

火 桑田 冨三子

 今年の暮れは寒かった。
 毎年のこととして暮からお正月にかけて家族は総出で播州・竜野の田舎にある今は誰も住んでいない実家に戻る。

 そして9個も並ぶ墓石の掃除をし、先祖にお参りすることになっている。しかし今年は子どもの受験があるとかで、私は息子の左近と久しぶりに、たったふたりだけで行くことになった。

 裏庭には、夏に切った木や枝が大量に積んである。これがすっかり乾いているから焚火にはもってこいである。他にもまだある。落ち葉が深々とたまっている。家の大掃除などひと仕事が終わると、左近が焚火をはじめる。


 私は夕食の用意だけして寒い外に出てゆく。陽が沈んだあとでも光がのこる空は未だあかるい。風邪はつめたいが、そんなに強くない。

 星が白く光りだす頃になると、焚火の日は、ぼうぼうと燃え盛る。パチパチと火の粉が飛び跳ねる。枯れた竹の節が割れてバンッと大きな音を立てる。見ているだけで心が踊る。これはなぜだか判らないが、結構、焚火を楽しむ人はおおいらしい。

 人間の半分は焚火を好み、あと半分は焚火には関心がない、と何かでよんだことがある。
 ただ火を見ているだけで、何もしゃべらない。時々火ばさみで燃え尽きないで落ちてくる枝を、ふたたび炎の上に戻すだけだ。


 左近は、蓑(み)(穀・塵などを分けて除く農具)いっぱいに落ち葉を抱えて来て投げ入れる。小さくなっていた火がふたたび盛大に燃えあがり勢いを取り戻す。
 それの繰り返しだ。
 やがて焚火は終わりに近づく。もう新たに燃やすものは持ってこない。燃え尽きるのを見守るだけだ。もはや炎はない。ただ真赤に輝く燠(おき)の世界である。

 火ばさみで炭を掻きだし穴をあけてのぞき込む。そこがまた想像力を掻き立てる。まるで宮殿の様だ。豪華な赤い柱に支えられた広間には、チロチロと青い炎が立っている。
 見ていて飽きることがない。それは、夜、飛行機の窓から見える到着地の街の光が、宝石箱をひっくり返したように見える、あの煌びやかな光と同じだ。


 想像はさらにあらたな想像を呼ぶ。人家の少ない田舎の空は星がよく見える。そこで私は古い、ある情景を思い出す。
 燃え尽きる焚き火の終焉を見るたびにその情景がありありと心に浮かびあがってくる。

 ケープタウンでIBBYの大会が終わり、ヨハネスブルグから840キロを一気にフランクフルトへ飛んだ時のことである。

 満天の星の中を黒い巨大な怪鳥の様に飛行機は飛び続けていた。拡げた長い翼の先には、まるで秘密の合図かのような赤い光が時を置いて点滅していた。
 機内の灯は全部消されていた。乗客はみな眠りこんでいる。窓という窓はみな閉じられて、私以外に窓から外を見ている人はいない。

 私は奇妙な遊びを思いついた。
 この飛行機の機体がすっかり消えたことにするのだ。この窓も、壁も、前の椅子も乗客も全部見えない。周りのすべてを消してみると、私はなんと一人で空を飛んでいるではないか。まるでそれは、魔法のランプをこすり絨毯に乗って空を飛んでいるアラジンであった。竜野の空には満天の星がきらめいていた。

 ふと我に立ち返って、自分の今の姿を見出だす。高い白壁の塀に囲まれた、だだっぴろい枯草の庭の中で消えていく焚火の残りの前に、しゃがみこんで、ジイッと火を見つめている私、これは一体何なのだろう。

 テンポの速すぎる都会生活への抵抗か、それともストレス解消か、いやいや、何のことはない、ゆっくりと流れていたあの昔の日々へのノスタルジアにちがいない。

 
              イラスト:Googleイラスト・フリーより

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