A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

涙の手紙=金田絢子  (#ICAN:ノーベル平和賞 授賞式に読んでもらいたい作品)

 その手紙は母宛に、疎開先の「茨城県猿島郡弓馬田村」に届いたものである。手紙の冒頭の「三月丗一日」の日づけから推して、昭和二十一年のことと思われる。

 差出人は、母の友人の花水さんである。母と花水さんは、府立第二高女(現、都立竹早高校)の同級生で無二の親友だったようだ。

「去年の今頃のことなど、いろいろ思ひ出されます。幼馴じみのお心安だてに、お目にかかってお話しする様に何でも書いて見やうかと思ひますの。讀みにくいけど讀んで下さる?」
 このように始まり、おしまいまで仲良しの“あなた”に聞いて欲しいという、一途な思いにつらぬかれている。
 四枚の便箋の三枚目までは、うらおもてをつかってびっしり文字が並ぶ。
 昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾がおとされた。忌まわしいあの日、花水さんのご主人は、役所にいく途中で、自転車にのって橋をわたっているとき、被爆した。
「午後四時頃『ヤラレタ』と云ってそれでも歩いて帰ってきた姿。もう書けません、「とても大火傷でした。よく此処迄かへって来た、それ程の大火傷でした」
「とに角はじめは元気でしたの」
 ご主人も花水さんも治る、と信じていた。


 ふた月まえの、昭和二十年六月、転任の沙汰があり、同月十九日、夫婦と子供四人の一家は、広島にうつった。「その時、本当に生きて再び東京を見る気持ちは全くありませんでした」

 広島に着いたものの、住むところもない有様だった。七月になってやっと、広島から四里程はなれた可部町で、住まいを得た。
「広島の一つ先の横川駅から四十分程省線で山の方へ入った、静かな町で、大田川が流れ」などの記述のあとに、八月五日の描写が涙をさそう。

 広島へ来てからもご主人は日曜日も休まず役所に通っていた。原爆投下の前日、「日曜日でしたが、午後三時ごろかへり、子供三人(末の子はまだ乳飲児)連れて裏の川へ行って、泳がせたり、遊んだり一時間程楽しさうにやってをりました。それが親子の浅いきづなの最後で御ざいました」

 被爆した主人は高熱で三週間、うわごとを言いつづけた。
「私事は一つも無くて、全部役所の仕事のことばかりでした」
「最後の四日程は意識不明のまま、何の遺言ものこさず自分では治りたい治りたいとあせりながら、亡くなりました」

 三枚目のむすびは「こんな大惨事になるなら、どうして(日本は)もう一週間早く、降伏しなかったのかと恨むのは私だけでせうか。でもこれも皆運命でございませう。私がかうして子供四人を負うて先のわからぬ世に生きてをりますのも、私の運命です」
 三十代の若さが書かせたすばらしく悲しい手紙である。

 涙で文字がかすれ、読めない部分もあるが、全面、真情にあふれている。大切にとっておいた母の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。

 時代をうつして、粗悪な便箋にはやぶれがめだつ。いまにもこわれそうであるが、母の遺志をついで、生涯わたしも、手放すまいと思っている。


【HP管理者より】

「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室、11月度提出作品です。ご本人は都合で当日欠席でした。きょう2017年12月10日に#ICANのノーベル平和賞の授与式がありました。
 被爆者の妻の生々しい描写が、このまま埋もれず、世に知らしめるべきだと判断し、作者・金田さんのご承諾を得ないまま掲載いたしました。(穂高健一)

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