A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

パパの小言 = 林 荘八郎

 いつもの夕方の散歩の時間になった。                     
「パパ! そろそろ出かけようか!」
 ママのかけ声で腰を上げる。散歩と言っても、ほんの少し家の外へ出るだけだ。用を果たすだけの外出だ。家のそばに小さな花畑がある。土の匂いを嗅ぐとオレは催す。そして用を果たす。後始末をしないまま、ママと一緒に急いで家へ戻る。


 オレは体高二十センチにも満たない小型犬のチワワだ。年齢は、多分十歳くらい。なぜ一緒に暮らし始めることになったのか、何処で出会ったのか分からない。多分、ご主人が亡くなって、毎日がさみしかったころ、ペットショップでオレを見つけたのだろう。その頃は小さくて可愛かったはずだ。そしてパパと名づけて大事にしてくれている。楽しい二人暮らしではある。

 住いは横浜郊外の海辺の小さな町だ。漁師町のため、昔から犬よりも猫の方が大事にされてきた。ヤツラは自由で、鎖に繋がれることもない。我が物顔で町の中を行き来している。三毛猫なんぞは女王気取りのように見える。それにしても恋の季節のヤツラはうるさい。ヤツラに比べると、犬は恋もままならない。だから町内で子犬が生まれたという目出度い話もないし、近所には子犬がいない。オレは高齢者なのだ。仲間も同じだ。隣の家では、オヤジも犬もヨボヨボだ。このあたりは人間も犬も揃って年寄り社会だ。

 オレはそんな町で暮らしている。

 エサは通信販売で買ってもらう缶詰品だ。メニューは豊富で、まぐろ味、かつお味、しらす味、とり味などがある。レトルトもある。スナックもある。オレはこれらの加工食品の味しか知らない。ママの食事の残り物を食べることは滅多にないからだ。

 ママが元気だったころは一緒に遠くまでお出かけした。散歩に出かけるとシベリアン・ハスキーやゴールデン・レッドリバーなど、見上げるような大型犬によく出会ったものだ。今は彼らには滅多に出会わない。町内の知り合いは小型犬ばかりだ。すっかり小型の世界になった。恐い大型犬がいなくなったのは、なぜだろう。


 恐いといえば、ここは車が恐い。閑静な町だが朝夕には多くの軽自動車やバイクが猛スピードで通り抜ける。オレの散歩コースはどうやら彼らの抜け道らしい。背が低いので車はデカく見える。それが通り過ぎる時は本当に恐い。あの大型犬よりも恐い。そのうちに誰かが犠牲になるだろう。事故が起こる前に何とかできないものかと思う。

 昨今は犬の糞の始末にはうるさい。オレが用を足すのは近所の花畑だ。最も快適な所だが、用を果たすと、ママはそれを見て見ぬふりをして、さっさと家へ戻る。だって町内はいたるところ舗装されているので、糞をした後、足で土を蹴って隠すこともできないからだ。気持ちよく用を果たし自分で始末できるところは、今やなかなかないのだ。

 その畑でせっせと花を育てて楽しんでいる老人がいる。その人には顔を合わせると睨みつけられる。どうやら糞の犯人がオレであることを知っているようだ。咎められたことはないが、あの人には嫌われているな、と、ひと目で分かる。おまけにあの人には、

「犬の分際で、人間様にケツを拭かせる不届きな奴」とも思われているみたいだ。
 あの人は苦手だ。

 ふと思うことがある。人間って勝手だ、と。
 子犬がいないのも、缶詰のエサばかり食べさせられるのも、小型犬ばかりの世の中になったのも、危険な車が多くなって、安心して町の中を散歩できないのも、気持ちよく糞をできないのも、みんな人間の勝手ではないのか。

 人間が作ったこの世相も環境も好きではない。犬にとっては住みにくいのだ。

 オレは寒くもないのに毛糸のセーターを着せられている。仲間も同じだ。先行き長くない気がする。飼い主も犬も医者通いだ。こんな暮らしで、こんな姿で長生きはしたくない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

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