A033-「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより

藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか、RCCラジオ7月9日放送

RCCラジオ(中国放送)で、毎月第2土曜日の9時05分から『歴史スペシャル』で、穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」が放送されています。

(2021年)7月9日は、『藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか』というタイトルです。

 幕末の歴史で、広島藩がどう関わったのか。薩長という言葉はよく聞くが、広島について語られることは少ない。なぜか。たしかに広島藩は42万石の大藩であり、「日本外史」の頼山陽を生みだすほど皇国思想の要の藩でありながらも、「天下の駄藩」と蔑まれるほど、政治に関わっていません。

 ペリー提督の来航、水戸藩からの尊皇攘夷、長州の過激攘夷論、桜田門外の変、薩摩による公武合体論、文久の改革、と幕府の根幹が一気に崩れますが、広島藩は我関せずです。

 その理由のひとつとして、浅野家は徳川御三家に近い血筋が多々入っている。かたや、豊臣政権時代には、浅野長政が五奉行の筆頭(内閣総理大臣)という、複雑な立ち位置にあったからです。
 そんな広島が急激に動いたが「禁門の変」で、長州藩の毛利家が朝敵になり、孝明天皇の征討の勅命が幕府に出たときからです。
 長州戦争を前にして、幕府と長州を仲介する役がいない。まわりの諸藩は逃げ回っていた。ならば、徳川系にも、豊臣系にも、顔がきく広島藩が双方の仲介役を買って出たのです。
 ここから、広島藩が強烈に幕末歴史に登場してきます。  

【今回の放送内容のあらすじ】

 総督の尾張慶勝(元尾張藩主)と参謀・西郷隆盛(薩摩藩)らが、孝明天皇から幕府に朝敵の長州を討て、という大命題に添わず、毛利敬親・親子の処分を行わず引き揚げた。
「芋の悪だくみに、慶勝は乗せられた」と一橋慶喜の怒りを買った。そこで、14代家茂将軍を江戸城から大坂城へと出陣し、諸藩にふたたび出陣を要請した。


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  越後高田藩の出兵風景。明治最後の絵師:揚州周延(橋本直義)の作

 35藩のいずこも、「わずか四か月のあと、また長州出兵か」とウンザリ。戦意もなく、死にたくないし、武器砲弾も自前だし、それも消費したくない。厭戦気分だった。

 ちなみに、越後高田藩は、幕府の第二次長州征伐の出兵要請で、4500人の藩兵は慶応元(1865)年5月に大阪に向けて出発した。幕府の方針が細部で煮詰まらず、半年は大坂で無為に過ごす。やがて、大坂から広島藩領の海田に12月に到着した。ここからも明日の戦いはやるのか、やらないのかと、長期に7カ月も滞陣する。厭戦ムードは高まるばかり。

  かれら国元、あるいは江戸藩邸を出てから延べ13カ。妻子や家族を想う望郷の念の書簡が多く残されています。

「なんで第一次で決着できなかったのだ』と不満が募る。第二次長州征討の戦いに勝ったところで、幕府から報奨金が貰えるわけではない。兵士にかかる衣食住と宿賃は、幕府の補填がなく、すべて藩の負担になる。

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 広島藩は「この2回目の征討には大義がない」と猛反対だった。
 慶応2(1866)年6月には5月、広島藩学問所(現・修道高校)のOB・若者たち55人が、前線基地の広島にきていた老中・小笠原にたいして暗殺予告まで行う。騒然となった。広島藩は藩主・長訓、世子・長勲の仲介で、広島藩出兵拒否で解決を図った。

 翌6月には、第二次長州戦争が勃発した。6月は長州軍は岩国から大竹・大野に入り、旧式武装の彦根藩、高田藩を打ち負かし、広島城下に近い廿日市、五日市に勢いよく進軍した。
 それを見た幕府は真剣になり、フランス式最新部隊の紀州藩を芸州口の最前線に投入してきた。紀州藩は互角以上に戦うし、沖合の幕府軍艦から連続して艦砲射撃で長州兵を打ち負かす。長州藩は岩国に近くまで逃げ帰った。

 芸州広島藩が乗りだし、安芸領(広島領)で戦争するな、領民が迷惑だと言い、長州軍と幕府軍の間に割り込んだ。戦争以前の状態にもどさせた。
 芸州口の戦いは、後世で言われるほど、長州の勝利ではなかったのだ。

1か月後の7月、大坂城で、14代家茂将軍が20歳の若さで死去したのである。
「将軍が死去して、本州の外れの一藩と関わっている暇はない。勝海舟、休戦してこい」
 一橋慶喜の命令で、海軍奉行の勝海舟が単独で広島城下にやってきた。広島藩の執政・辻将曹が勝と面談したうえで、宮島(広島県)で、双方の休戦協定が結ばれた。

 長州は、馬関海峡をはさむ小倉藩との戦いでも、九州男児の死に物狂いのゲリラ戦だの、小倉城を自焼するだの、決して楽な戦場ではなかった。沖に幕府海軍の軍艦が終結している。まだ、火を噴いていない。
 長州側も、徹底抗戦し、大坂、京都、江戸に攻め入る力などない。辻将曹の和解に快く乗ってきた。9月初旬に、幕府と薩摩との和平協定が結ばれた。しかし、長州の朝敵と、毛利家処分問題が解決したわけではない。たんなる戦争の現状維持の停止だった。

 この慶応2年12月には、ペリー来航以来、朝廷政治を取り戻そうとする孝明天皇が死去した。政治が混沌としてきた。ただ、長州の朝敵が外れたわけではない。

 その後においても、幕閣(江戸城組)は、未解決の毛利処分を言いだす。芸州広島藩などいくつかの諸藩に、萩城の毛利敬親・定広の親子を捕縛し、江戸に連れて来い。処分は江戸で命じるからという。
「そんなことはできるはずがない」
 どの藩も拒否すると、幕閣はならば、第三次長州征討を言い出す。

「ここで3度目の長州征討をやれば、疲弊した民は塗炭の苦しみに陥る。西洋諸国は、内戦を口実に内政干渉し、植民地になる恐れがある。こんな幕府は政権を朝廷にもどさせよう」

 広島藩主の浅野長訓、世子の長勲はそう決断した。慶応三(1867)年正月、広島藩の執政・石井修理が老中筆頭・板倉勝静(かつきよ)に「大政奉還の建白書」を提出した。これは一般にいわれている後藤象二郎の「大政奉還の建白書」よりも、10カ月も早いものだった。
 しかし、幕府は拒否でもなく、無視だった。


写真=ネットより
                
 この慶応3年5月に、幕府と雄藩の有力大名との「四侯会議」が京都で開かれた。「長州藩処分問題」と「兵庫港の開港問題」が主要課題だった。
 島津久光(薩摩藩)が音頭を取り、松平春嶽(前越藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)らによる幕府の諮問会議の形態だった。ただ、薩摩のイニシアチブを嫌う德川慶喜が、この「四侯会議」を分裂・解体させたのだ。

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 「四侯会議」の分解をみた広島藩は、幕府に期待するものがないとして、「大政奉還」を藩論とした。執政の辻将曹など、多くの有能な広島藩士が、大藩に「大政奉還」に働きかけた。薩摩、土佐。さらに岡山藩、鳥取藩、徳島藩などである。


 御手洗港(広島県・大崎下島 写真)で、薩芸交易が盛んにおこなわれている。かたや、宮島(広島県)で芸長交易がある。これは薩摩、長州、広島は深い三角貿易の経済圏であった。
 この3藩がやがて結びついて、薩長芸軍事同盟ができる。
 
 まず、広島藩の辻将曹の働きかけ、薩摩の島津久光が「大政奉還」に乗ってきた。薩摩家老の小松帯刀も賛成した。小松が札度同盟土佐藩にも持ち込む。後藤象二郎は山内容堂から、建白書の提出は良いが、武力圧力に反対された。

 広島藩は、この「四侯会議」の空中分解を機に動き出す。まず、薩摩藩の島津久光、
「土佐がダメならば、朝敵の長州を誘い込もう」
 小松帯刀の奇策に対して、長州は待ちに待っていたと乗ってきた。
 ここに薩長芸軍事同盟が結ばれた。

 ただ、後藤象二郎が抜け駆けで徳川慶喜将軍に、大政奉還建白書を出した。慶喜が公議政体論者でもあったことから、これにのって政権を朝廷に返還した。朝廷も受理した。
 
 大政奉還のあと、藝州広島藩は藩論が割れた。鳥羽伏見の戦いが勃発したが……。広島藩は非戦を唱えた。広島藩は伏見街道に、軍隊を出しながらも、辻将曹は一発も撃たせなかった。「これは薩摩と、会津の遺恨に過ぎない戦いだ」
 その認識が、広島藩の幕末の存在を消してしまったといえる。

 広島は日和見主義、臆病風が吹いた、と侮られた。これが広島に伝わると、かれら神機隊の320人は憤り、戊辰戦争の関東、奥州への出兵を決めます。広島藩の藩政府は彼らの出兵を認めなかった。すると、神機隊の320人は全員が脱藩届を提出し、自費をもって、出兵します。

 第二次長州征討には小笠原老中を暗殺してまでも、無益な戦争を止めようとしていた若者たちです。それなのに、かれら若者は命を惜しまず、出兵します。そして、最も激戦地を選び、戦います。

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