A010-ジャーナリスト

「終戦をもって日本国民を救う=鈴木貫太郎」② 私の屍を踏み越えて、国運の打開を

 国家滅亡の最大の危機に、どんな内閣総理大臣が求められるのだろうか。
 
 昭和20年8月15日正午の玉音放送に、以下の一か所がある。(口語文に翻訳)

『……、わが1億国民が身を捧げて尽力し、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の情勢も、またわが国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害がおよぶ範囲は、まったく計り知れないまでに至っている。……』

 昭和天皇が、広島さらに長崎まで原爆が投下された8月9日頃の戦況を語っている。終戦まで、あと6日間の日本は、まさに亡国の崖っぷちまで追い込まれていたのだ。敵の連合国にたいして政治の技術、政争などはもはや役に立たない。

 これを乗り切った鈴木貫太郎(かんたろう)とはどんな人物だろう。エピソードは豊富な人物だ。太平洋戦争がはじまると、「これで日本も三等国に下る」と言っていた。
「軍人は政治を本分とせず」と大臣を断ってきた。
 その鈴木貫太郎が、77歳にして内閣総理大臣を引き受けることになったのだ。ちなみに、生まれたのは徳川時代で、慶応3(1868)年1月18日である。

 その所信演説では、

「私の最後のご奉公と考えます。まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります」
 と述べた。

『死に花を咲かす』。『私の屍を踏み越えて』。これをどう読み解くべきなのか。歴史を後ろから見ると、かれの内心は真逆だったとおもえる。国民の死ではなく、和平だった。
 組閣で入ってきた陸軍大臣は、軍部の要求として「本土決戦(一億総玉砕)」を持ち込んできた。ここは、ひとまず、陸軍の主張(本土決戦)を真正面から受けとめた振りをした、と推測できる。正面衝突すれば、たちまち内閣が崩壊する。知的で功名な処し方だろう。
 ここらは追って、海・陸・外務の対立で展開したい。

 最も重要な鈴木貫太郎の死生観、人間性などにスポットを当ててみたい。

 昭和11(1936)年2月26日に起きた「2.26」事件は、陸軍青年将校らが1、483名の下士官兵を率いて起こした、近代日本最大のクーデターだった。

 かれらは「昭和維新」を叫び、重要閣僚ら9人を殺害した。昭和天皇が『下士官兵に告ぐ、今からでも遅くない、原隊に復帰せよ。抵抗すれば、逆賊で射殺する』と奉勅命令(ほうちょくめいれい)で収拾を図った。
 ただ、その後において軍部の力が強まり、5年後の太平洋戦争の突入(1941年)の起因のひとつに挙げられている。それほどの大事件だった。

 鈴木貫太郎は当時、昭和天皇の侍従長(じじゅうちょう・昭和4年~11年)を務めていた。

 事件勃発の少し前のある日、青年将校のひとり安藤輝三大尉が、侍従長の鈴木を訪ねてきた。
 
 ふたりで時局を語った。軍縮問題、日ソ関係、農村問題などだろう。鈴木は安藤の考えを聞いたうえで、歴史観や国家観などから説き諭したという。

「鈴木さんはうわさと実際と、会ってみるとまったく違っていた。西郷隆盛ような、懐が大きいひとだ」と言い、安藤はなんども鈴木貫太郎殺害の決起を思い止まろうとしたらしい。クーデターの決意が鈍り、まわりの青年将校は安藤をなじったという。

 当日の安藤大尉は、襲撃部隊を指揮し、侍従長公邸(麹町区三番町)に乱入してきた。とっさに押入れに隠れた鈴木貫太郎だが、襖(ふすま)に銃剣が刺さるので、観念して出てきた。
「待て、待て、話せばわかる」
「問答無用」
 兵士の銃が鈴木にむけて発射された。左脚付根、左胸、左頭部と三発が被弾し、鈴木は倒れた。八畳間は血の海になった。
「中隊長殿、とどめを」
 下士官がうながすので、部屋に入ってきた安藤輝三中尉が軍刀を抜く。喉元をねらった。
「おまちください。老人ですから、とどめは止めてください」
 八畳間の片隅に座っていた妻のたかが立ち上がると、兵士が夫人を抑え込んだ。
「どうしても必要というなら、わたくしに任せてください」
 と大声で叫んだ。
 安藤大尉はうなずいて軍刀を収めた。
「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」
 安藤は号令した。たかの前に進み出て、
「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対して、何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ず、こうした行動をとったのであります」
 安藤は静かに語り、女中にも、
「自分はのちに自決いたします」
 と語ってから、兵士を引き連れて公邸を引き上げた。

「もう賊は逃げたかい」
 鈴木貫太郎は自分で起き上がった。妻のたかは夫の止血処置をとってから、宮内大臣に電話をかけて医師の手配を依頼した。この電話で、昭和天皇が2.26事件を知ることになったのだ。

 鈴木の頭部に入った弾丸が耳から抜けていた。胸部の弾丸はわずかに心臓から外れていた。左足の付け根も銃弾が抜けている。いっとき出血多量で、鈴木は意識を喪失し、心臓も停止した。駆け付けた医師による甦生術(そせいじゅつ)がほどこされて、奇跡的に鈴木は助かったのである。
 自殺未遂のあと安藤大尉が処刑されると、鈴木貫太郎は「思想という点では、実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べている。

 

 鈴木貫太郎は、大正7年12月~海軍兵学校(広島・江田島)の校長に赴任している。
 上級生が下級生を指導するに鉄拳(てっけん)する。これを「修正(しゅうせい)」といい、兵学校の伝統だった。鈴木は、同年『鉄拳制裁に就いて訓示』で、厳しく禁止している。なぜ、禁止するのかとA4の用紙で、こと細かく説いている。

 鉄拳制裁は、一種の暴力行為に他ならないし、軍規(ぐんき)に違反する、と論断(ろんだん)する。憲法の規定の範囲内からも、はみ出した不法行為である。
 将来は将校になって、下士卒の兵隊をつかうことになる。いまの兵隊はむかしの足軽、商人、農民などとちがい中学、それ以上の教育を受けてきているし、法令なども知っている。それら兵隊に殴打すれば、批判眼でみられ、横暴残虐(おうぼうざんぎゃく)を感じさせてしまう。

 鉄拳制裁は日本の武士道から起因したものにあらず。むかしの武士ならば、鉄拳をくわえられると、武士の面目をつぶされたと、死をもって恥を雪がんする。決して行われなかった。
 大和魂とは、道徳上の上下一致、同心一体である。上の者は下を愛撫(あいぶ)し、下の者は上の者を尊敬する。こうした精神で、向かう軍隊が最も強固になる。
 
 鈴木にはドイツ留学の経験があるだけに、ドイツ魂と、ドイツ軍隊の強さはたんに機械的なものでなく、大和魂とよく似ている、と展開している。

 外国では、鉄拳制裁が人権を害し、下士卒の兵隊の抗議で、海軍刑法及び懲罰令による軍法会議の対象になる。しかし、わが国では、海軍全体がその認識に欠けている。りっぱな将官すら、殴打している。
 諸君らから正さねばならぬ。本校では今後において懲戒処分にする、と訓示している。
 
 海軍兵学校に入学すれば、将来は海軍大臣、さらに首相になれるかもしれない。親兄弟の期待を背負って、難関中の難関、兵学校に入学しながら、下級生を殴って退学処分では割が合わないだろう。

           *   

 鈴木貫太郎は就任のあと、まもなくしてアメリカ大統領ルーズベルトの訃報を知った。

 ルーズベルトは、1941年12月8日に、日本軍が予告もなく真珠湾を攻撃したのは国際法違反だと憤り、英国チャーチル首相からの要請もあった第二次世界大戦へと踏み切ったのだ。そして、日本戦と、ドイツ戦へと派兵した大統領である。

 
 
 鈴木貫太郎は、日本の同盟通信社の短波放送により、和文と英文で、弔電として、

『今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。
 しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います。昭和20年4月7日 内閣総理大臣・鈴木貫太郎」
 という談話を、世界へ発信している。

 1945年4月23日のTIME誌に、その英文の弔意が掲載されたのである。


 ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは敗戦の寸前にあった。ラジオ放送でルーズベルトを口汚くののしっていた。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが、鈴木貫太郎の弔電の放送にふかく感動した。

 イギリスBBCの放送で
「ドイツ国民の皆さん、東洋の国・日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存しています。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」
 と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた。(ウィキペディア(Wikipedia))

 日本人とは宣戦布告もなく、パールハーバーを攻撃した。野蛮な黄色人種だという見方が世界で一般的だった。
 鈴木の弔電で、敵をも尊重する騎士道に似ている、と評価されたのだ。

 むろん、日本国内に目を向ければ、殆どの軍人は鈴木に強い批判をむけた。いまや敵国の英語は使うことすら国賊だという時代に、日本の首相がアメリカ大統領に弔電を打ったのだから。それは批判囂々(ごうごう)だった。
 
 たとえ敵国といえども、巨大国家のトップの死を悼む。この紳士なる行動が、終戦後の日本の処し方におおきく影響を与えたのである。

                         (4回シリーズの予定)

     
 
 

「ジャーナリスト」トップへ戻る