A010-ジャーナリスト

「終戦をもって日本国民を救う=鈴木貫太郎」① 全身全霊をかけた終戦への道

 ここ千年来で、外国との関係で国難を救った日本人を3人あげなさい。そう問われたならば、北条時宗、阿部正弘、鈴木貫太郎をあげるだろう。

 北条時宗(ときむね)は若くして鎌倉幕府の執政(しっせい)である。当時の蒙古(もうこ)はヨーロッパ諸国まで侵略の手を伸ばし、世界帝国だった。世界最強の蒙古軍の襲来にたいして徹底抗戦(こうせん)で退け、国を守った(元寇の戦い)。

 阿部正弘は、嘉永6年の米国のペリー提督が浦賀に来航のとき、徳川幕府の老中首座(現・内閣総理大臣)である。一か月遅れでロシア艦隊も長崎にやってきた。
 これら西洋列強の軍事圧力にも屈(く)せず、阿部正弘は戦争せずに開国した。さらに通商の道を開いて、現代の貿易立国・日本の礎(いしずえ)をつくった。私たちはその恩恵を得ている。

 国難と戦った北条時宗は33歳、阿部正弘は39歳、ともに全身全霊(ぜんしんぜんれい)をかけたのだろう、若くして現職で死去している。


 太平洋戦争の末期に、鈴木貫太郎(かんたろう)は77歳で、内閣総理大臣に指名されると、おどろいて、「とんでもない話しだ。お断りする」と高齢を理由に断った。

 真珠湾を攻撃した開戦時の東条英機(とうじょうひでき)内閣はすでに倒れ、次なる小磯(こいそ)内閣が短命で昭和20(1945)年4月7日に総辞職したのである。
 同年3月10日、米軍の東京大空襲で10万人が亡くなり、3月26日からは激しい沖縄戦がはじまり、日本列島が戦禍(せんか)にまみれて廃墟(はいきょ)寸前の状況だった。
 だれもが、死に水を取る総理になりたくないだろう。


「わが国はまさに壊滅の寸前にある。この状況を切り抜けるのは、もはや鈴木しかいない」
 昭和天皇からつよく要請されると、鈴木貫太郎は断りきれず、前内閣の総辞職の4月7日に、総理に就任したのだ。そして、組閣した。
 
『戦争を始めるのは容易(たやす)い。終わるのがとてつもなく難しい』
 政治家は勇ましく声高に、国民を守る、正義の戦いだと言い、戦争を始めるのが常だ。戦火を交えて、勝った、勝ったと言っているうちは良いのだが、思わぬ長期戦になり、しだいに国民は疲弊(ひへい)し、政治にも失望し、命の恐怖にさらされる。やがて、終りが見えてこなくなる。
 
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 太平洋戦争は単発の戦争ではなかった。

 明治時代からの薩長閥の軍部政権が、日清・日露の戦争を引き起こした。そこに起因(きいん)した数々のおおきな戦争を経て、行き付いたところが太平洋戦争であった。この認識はとても重要である。

 明治時代から軍部と経済界が結びついて、政策の具(ぐ)として戦争を利用してきたのだ。戦争史観の教育の下で軍国少年が育ち、聖戦(せいせん)として位置づけられたうえで、徴兵制(ちょうへいせい)で戦地に赴(おもむ)き、国家のために死す。

 この構図は日本列島が廃墟(はいきょ)寸前までつづいた。一億総玉砕(そうぎょくさい)という国論が生まれ、ナチスドイツが敗戦しても、単独で世界を相手になおも戦いつづけた。

 出口が見えない。戦争の休戦協定の労(ろう)をとってくれる国がいないのだ。満州事変(まんしゅうじへん)のときに、松岡外相が強引に勇ましく国際連盟を脱退した。世界を敵にまわした。このツケが昭和20年に重くのしかかってきたのだ。
 つまり、明治・大正・昭和と一連の戦争でとらえないと、終戦・和平のみちが理解できないのである。

 この間に政争(せいそう)が起きても、軍事独裁の内部にからむ権力闘争(とうそう)であり、けっして反戦・自由主義と軍部との対立ではなかった。

「明治時代から続いた戦争の連続性を、軍人政治家がみずから自分たちの手で、この戦争をやめさせられるのか」
 海軍の軍人である鈴木貫太郎には、その命題(めいだい)が突きつけられたのである。終わりの見えない戦争を、いかに終わらせるか。
 かれは二度も、軍部クーデターで命を狙(ねら)われた人物である。和戦(わせん)で終わらせないかぎり、日本列島は四か国に分断された植民地になるのは自明の理だった。
 
                     (4回シリーズの予定です) 

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