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【寄稿 エッセイ】   また、延岡へ = 永野 さくら

 昨年(2018年)の秋、別居中の夫から、体調が悪いと連絡があった。
「食欲がなくなり、身体がだるく、微熱が続くので、1週間ほど前から病院に検査入院している。担当医から、どうしても家族と話したいと言われているから来てほしい」という。
 夫とは別居して8年になる。病院は彼の単身赴任先で、夫の実家のある宮崎県延岡市である。その間、娘の結婚式で会った以外、ほとんど連絡をとっていなかった。

 
 夫の女性問題がきっかけで夫婦仲がうまくいかなくなり、別居を始めた時、私は一刻も早く離婚届けを出したかった。
 だが、夫からは「会社の単身赴任寮(延岡)に入るためには家族が必要なので、在職中、籍はそのままにしてほしい」と言われた。私も、夫の扶養家族のままならば、保険料などを支払わなくて済む。お互いの利益のために、籍は抜かないままになっていた。

 戸籍上は妻だが、実生活は無関係に埼玉県で暮らしている。妻として病院に行くのには抵抗があった。私の住む埼玉から延岡へはかなり遠い。

 私たち夫婦の不仲を、夫の両親や親戚たちは、なぜか一方的に私の責任だと思っていた。私たちがもめていると聞いた義母からは、かつて「こうなったのも、すべてあんたが悪い」と、私を誹謗中傷する電話がかかってきたものだ。義母の強い口調に、私はひどく傷ついた。親戚たちまでもが、夫に都合のいい話だけを鵜呑みにして、かなり誤解していたようだ。

 私は「事実はこうです」と反論したかったが、すでに夫とは別れる決心をしていたので、あえてそれを口にしなかった。私を悪者にした夫や義父母を心から憎み、二度と会いたくないと思っていた。
「交通費も出すからどうしても来てほしい」
 という夫の言葉に、これはただ事ではないとの予感がして、迷った末、私は延岡まで行くことにした。

 延岡は、旭化成の工場がいくつもある街だ。中心部にはシンボルの大きな煙突がそびえ立つ。24時間稼働している工場からは、白い煙りがもくもくと立ち上っている。
 もう二度と行くことはないと思っていたこの街に、こんな形で再訪するとは、思ってもみなかった。


 夫から連絡があった約二週間後、昨年の11月の末、私は約20年振りに延岡を訪れた。

 JR延岡駅で汽車を降りるとすぐにタクシーに乗り、夫が入院する医師会病院に向かった。病院で再会した夫は、憐れな病人だった。太り過ぎたと言い、高いお金をかけてダイエットしていたころとは、まるで別人だった。

 夫は私を見ると、小さく手をあげて「すまんね」と言った。
 そんな彼を見て、私はどうしようもない複雑な気持ちになった。過去にはさんざん恨んだりしたが、別居して何年もたつと、そんな気持ちも消えていた。
 私は、夫のあまりのやつれように驚き、急に夫が可哀相になった。
 そうは言っても、この街には、さんざん私の悪口を言っていた義父母や親戚たちがいる。病気になった夫には同情するが、私にもプライドがある、と心の中で我を張った。

 医者と話をする時間になった。担当医からは
「色々調べても原因がわらないので、宮崎県立延岡病院へ転院して調べてほしい」と言われた。
 これはもしかすると、相当深刻な病気かもしれない。

 その日、義父母たちは遠慮していたらしく、病院で顔を合わせることはなく、私は一人で夫を転院させ、いったん埼玉に帰った。
 その後、転院先の病院で、胃カメラや大腸の内視鏡検査やリンパの組織検査などをしたが、いっこうに病名はわからなかった。私はその間、夫からのメールや電話で様子を聞いていた。夫は「相変わらず食欲がなく、どんどん痩せていく」と不安そうに話していた。私の心もやり切れなかった。


 転院して1か月半ほど経ち、年が明けて、やっと病名が「原発不明ガン」だとわかった。これは、ガンがどこから発生したかわからないが、どんどん転移していく恐ろしい病気である。
 私はその知らせを自宅で夫から電話で聞いた。夫はかすれた声でそう話すと「もう疲れた」と電話を切った。冷静さを装っていたが、内心は動揺しているようだった。
 私も心が大きく揺れた。
 夫が命に係わる病気になった今となっては、たとえ長期になっても、看病しに行こうと決めた。それは、愛情というよりも憐みに近い感情だった。義父母との確執も、この際忘れるよう努力しようと思った。

 幸い、私に一番辛くあたっていた義母は数年前から認知症になり、すでに自分の息子が病気だと認識できないという。

 私は、夫が先日生まれた初孫に会いたがっていると聞き、娘と孫を連れて、1月末に再び延岡を訪れた。
 夫は嬉しそうに痩せた手で孫の頭をなでていたが、すでに抱っこする力は残されていなかった。

 その後私はホテルに滞在し、病院を往復する日々が続いた。医師からは、もう抗がん剤を投与しても体力はないので、緩和療法で少しでも苦痛を和らげるしかないと言われた。

 本人も病状は理解しており、自分に万が一のことがあれば、遺産は私と子どもたちとで分け、住んでいた単身寮の後片づけをしてほしいと、かすれた声で私に話した。私も「あとのことは心配しないで」と応えた。正直、どんどん弱っていく夫にいたたまれなく、どんな言葉をかければいいかわからなかった。
 2月になり、夫は急激に衰弱していき、水を飲むことさえ困難になった。医師からは、会いたい人がいたら、会わせておいた方がよいと言われた。
 私は子どもたちに急いで来るよう連絡した。近くに住む親戚たちも集まって来た。皆が涙ながらに別れを悲しむが、本人の意識はだんだん薄れていき、どこまで認識していたかはわからない。

 そして2月10日早朝、ベッドの横に置かれた装置に、それまでは規則正しく山型に刻まれていた呼吸の波形がだんだんと崩れて不規則になった。血圧も下がってきた。そして呼吸の波が徐々にゆるやかになり、ついに平らな一本の線になった。同時に、赤いランプが点滅し、ピーピーという電子音がけたたましく鳴り響いた。

 これが、人の一生の終わりの瞬間なのか。夫は薄目をあけているが、呼吸はしていない。夫の妹たちの嗚咽が聞こえる。

 私は、ベッドの足元にいてその様子を見守った。涙は出なかった。ただ、夫には「ご苦労様でした」と言いたかった。
 痛みなどの苦しみはなかったものの、食べ物が食べられなくなり、やせ細り、だんだんと歩くこともできなくなる夫の様子を見ていただけに、楽になってよかったとさえ思った。

 夫が亡くなってからは、通夜や葬儀の準備で急にあわただしくなった。
 私が「喪主」だったので、棺桶や骨壺から来客に出す料理まで、すべてをすぐに決めなければいけない。悲しみに浸っている暇などない。
 私は数日前から病院に泊まり込んでいたので、ほとんどまともに眠ることができず、時々めまいがしていた。それに、折り合いの悪い親戚たちとの共同作業は、いやな思いをすることもしばしばあった。皆が私を嫌っているようにさえ思えた。

 習慣の異なる土地で、葬儀の作法も違い、戸惑うことも多かった。そんな時は「夫を見送るのは私の義務で、これさえ済めば私の仕事は終わる」と自分に言い聞かせ、無難に乗り切ろうと思った。

 葬儀での喪主の挨拶は、長男である息子が引き受けてくれた。100人を超す弔問客の名簿は、娘婿がすぐに作ってくれた。子どもたちの存在が、私の心の支えとなった。
 通夜、葬儀をなんとか無事に終え、数日中にあわただしく夫の住んでいた寮を引き払った。その後、市役所や入院していた病院を回り、一通りの手続きを終え、私は埼玉の自宅に帰った。夫が亡くなって、一週間たっていた。心身ともに疲れきっていた。

 帰宅して、持ち帰った色々な書類に目を通していると、昨年12月に夫が書いた入院同意書の署名が目に入った。文字が震えてゆがんでいる。このころすでに、かなり身体がきつい状態に陥っていたのだろう。
 60歳という年齢で、まだまだやりたいこともあったのに、きっと無念だっただろうと、このとき初めて私の目がしらが熱くなった。


                                 了

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