A030-登山家

ヘリ墜落事故から奇跡の生還者。執念の山小屋作り

 日本百名山の一つに急峻な水晶岳(2986メートル)がある。それは北アルプスで、最も奥地に位置する山岳だ。登山口までのアクセスが悪く、アプローチが長く、1日では登頂できない。片道だけでも、2日を要する。
 水晶岳は黒部川の源流に近く、日本海から吹きぬける強風がすさまじく、天候が安定しない。山岳関係者によると、瞬間風速が50メートルを超えることもあるという。水晶小屋(2900メートル地点)は古い建物で、収容人員がわずか20人弱。宿泊者はここから山頂まで、一時間強かかる。それも天候が安定していれば、という条件がつく。

 日本百名山を目指す登山者たちにとって、こうした登山条件の悪い水晶岳はとかく後回しにしてしまう。最後の100座目の山としてめざす登山者が多い。

 伊藤正一さん(84)は松本出身で、10代のときターボエンジンを発明し、陸軍参謀本部長にその能力を認められたひとだ。終戦直後、山小屋経営に乗り出した。昭和22年には三俣山荘、水晶小屋を2万円で買い取った。その後において雲ノ平山荘、湯俣小屋の四ヶ所を経営する。
 水晶小屋を除いた、三つの山小屋は過去に改装されて快適だ。水晶小屋だけは山岳の立地条件の悪さから、粗末な状態だった。収容人数も20人弱のままだった。

 その後、伊藤正一さんから息子・圭さん(30)と妻の敦子さん(27)たち夫婦に管理が任された。夫婦は水晶岳に新築山小屋を建てることが念願だった。
「かならず山小屋を新築してみせる」
 ふたりは執念を燃やしてきた。
 資金、設計、人手、建設物資のヘリ輸送、どれも平地とは比べものにならないほど、膨大な労力を要する。それらを積み重ねてきた。念願の山小屋建設のめどが立ってきたのだ。工事は今年の6月の雪解けからと決めた。他方で、環境省、林野庁などに山小屋新築の建設申請を出した。

 長野県の建設請負業者が決まると、関係者による現地の下見が行われることになった。4月9日ときまった。長野県大町市のヘリポートから伊藤圭さん夫婦、建設関係者たちが水晶岳の建築現場まで飛んだ。
 現地の水晶小屋まえに着くと、伊藤さんや建設関係者は積雪のうえで、工事の打ち合わせをした。そして、4時15分。帰路のヘリが全員を搭乗させて飛び立った。強風に煽られて墜落してしまったのだ。乗務員と乗客はあわせて10人だった。機長を含めた2人が死亡。残る8人は重軽傷だった。
 伊藤圭さんは鎖骨骨折の重体。夫人も顔面に傷を負った。

 3ヵ月後。伊藤さん夫婦は事故にも挫けず、執念で水晶小屋の新築に着手したという。

 小田光康さん(ライブドア・PJニュース編集長)と私は2人で、その情報をもとに、水晶小屋新築現場の取材に向かうことに決めた。あわせてヘリ墜落の被害者から、生の声で事故当時の状況を聞きたかったからである。
 7月6日正午に東京を発って現地にむかった。翌7日は、大町ダムから三大急登の一つ、ブナ立尾根を登る。登りきった烏帽子岳()から、さらに野口五郎岳にむかった。午後からは雲が稜線を隠した。他方で、雲の彼方でヘリ飛来が何度も聞こえた。水晶小屋新築工事用の物資を運ぶヘリだとわかった。

 野口五郎小屋で宿泊し、歓待を受けた。8日早朝に経った。10時ごろには水晶小屋の建設現場が見えてきた。金槌やドリルの音が山間に響く。近景になると、大勢が突貫で屋根を葺いている状況が掌握できた。屋根ができれば、風雨があっても、内装工事ができる。それだけに、全員で取り掛かっていた。

 小田さんと2人は11時過ぎに現場に着いた。大工、内装屋、とび、左官など合計十数人の工事人がせわしなく働いていた。背中に十字の三角巾を巻く圭さんから、小田さんはインタビュー取材する。私は写真撮影に注力した。墜落した機体は運び去られて、存在しなかった。

伊藤圭さんの両肩には痛々しい三角巾。(遠景は槍ヶ岳)


「12時まで待っていただいたら、昼食を用意します」
 敦子さんが親切にいってくれた。彼女の眉間にはまだ傷の手当てがなされていた。
 小田さんとともに、昼食をご馳走になることに決めた。昼食は三色どんぶりだった。食事をしながら、夫妻からヘリ墜落事故の状況を聞いた。
「あの日は朝から、あまり天候はよくなかった。飛ばないと思っていたら、パイロットがやってきた。だから、皆で乗り込んだ」
 山岳経験の少ないパイロットだったという。
「現地の建設下見が一通り終わった。午後は天気が崩れてきました。ヘリは来ないと思い、全員が雪で埋まった山小屋に泊まるつもりでした」
 圭さんが語った。
 夕方、山小屋で食事を取っているさなか、ヘリの音が聞こえてきた。霧の立ち込めた悪天候のなかをやってきたのだ。
「当然、食事もそこそこで急いで、全員が乗り込みました」
 ヘリが離陸後、突風にあおられて墜落したのだ。
「3分ぐらい飛んだと思いました。実際は飛び上がった15秒後だったそうです。記憶を失って前後をよく 憶えていないんです」と圭さんは話す。
「乗務員が機内無線で、事故の連絡をとっていたようです」
 敦子さんは意識がはっきりしており、機内の状況を語ってくれた。
「山小屋建設のために、亡くなった人がいる。その人たちのためにも、事故で怖気て建設を諦めたらいけないと思ったんです」
 伊藤夫婦は口をそろえて語った。

 他方で、難問が起きた。長野県の建設業者はヘリ墜落のダメージが強く、水晶小屋新築工事から手を引いてしまったのだ。工事人たちに逃げられては建設が進まない。
「設計技師が新潟県の建設業者を紹介してくれたので、工事は計画通り進めることができました」
「ヘリで僧侶に来てもらい、慰霊祭と地鎮祭が行われました」
 敦子さんが語った。
 6月下旬から現場に入ったが毎日のように雨続きだった。狭い小屋のなかで、台所まで宿泊所だった。すこしの晴れ間を見て、水晶岳の山頂に登ったり、三俣山荘まで往復4時間かけて風呂に入りにもいった。
「工事の方はヘリできて、ヘリで帰るだけで、登山には関心もなかったようです。でも、山好きの人が増えました』と敦子さんが笑みを浮かべた。

 本格的な建築資材の荷揚げは昨七日で、ヘリが10便ほどあったようだ。きょうは棟上だった。全員がはつらつと働いていた。

               円錐形の山岳が、難所の水晶岳

 北アルプスは国立公園ゆえに、建築には法的制約が多いようだ。水晶小屋はエネルギー節約から、風力発電を計画している。許認可の環境省から色の問題で、未解決となっているという。7月20日頃から登山者たちがやってくる。急がれる。

 このルートは北アルプスの裏銀座コースと呼ばれる。過去から遭難者の多発する場所で有名だった。山小屋が少なく、雨が降れば、逃げ場がなく疲労凍死というケースが目立った。水晶岳小屋が完成すれば、80人と収容人数が増える。その分、裏銀座コースで遭難したり、生命を落としたりする登山者が激減するだろう。

 伊藤圭さん夫婦はヘリ墜落事故のショックを乗り越え、山小屋建設を推し進める。他方で、高山病に苦しみながら難工事に立ち向かう関係者たちに敬意を払いたい。

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