歴史の旅・真実とロマンをもとめて

神機隊~志和で生まれた炎~≪6≫藝薩長軍事同盟の倒幕=プスネット連載より 

 幕末史は謎めいたミステリーがある。

 慶応3年10月15日の大政奉還から、同年12月9日の小御所(こごしょ)会議(京都)で明治新政府ができる間、約一か月半にわたり、幕末史の空白がある。全国にまたがって大名、公卿などの史料が皆無なのだ。
 なぜ、こうも歴史が消される必要があったのか。
 推量の段かいだが、明治政府による歴史資料の焚書(ふんしょ・書類が焼かれる故事)の可能性が高い。薩長閥の政治家が、「薩長倒幕」をいう用語を正当化する、悪質な歴史のねつ造があった、と見なしても、まず間違いないだろう。


 くわしくは拙著「広島藩の志士」(南々社)の「まえがき」、「あとがき」には歴史の真実を折り曲げる、ねつ造、改ざんの証拠だてを克明に記している。


 神機隊幹部の黒田益之丞(ますのじょう)、船越洋之助、川合三十郎、小林柔吉(じゅうきち)などが、浅野長勲(ながこと)や辻将曹(つじしょうそう)の手足となり、京都や大坂で、諸藩の同志と連絡をとり、活発な倒幕活動する。
「倒幕の主役は広島藩だった」とそれら展開が同書で展開されている。明治政府がつくった「官製幕末史」や「司馬史観」に影響された鵜呑みの人には、広島藩が主役とはかつて考えも及ばなかっただろう。


 同年9月に薩長芸3藩による大掛かりな挙兵(きょへい)が成立した。芸藩誌は「藝薩長」と記す。薩摩藩も広島藩と長州藩の上洛の挙兵が、準備万端と整った。実行に移りはじめた。

 ところが、薩芸と手を組めなかった土佐藩の後藤象二郎が、二藩との密約に反し、大政奉還の建白書が幕府に提出したのだ。結果として、後藤は広島藩が「軍事圧力で大政奉還を迫る作戦」を横取りされたうえ、山内家が建白書の紙っペラを提出したのだ。

 薩芸は信義にも劣る後藤象二郎だと、怒り心頭だったが、結果として、薩長芸軍事同盟による挙兵は、後藤にふり回されて失敗した。
 

 あらためて京都で、薩長芸による軍事同盟を結び直がおこなわれた。徳川慶喜の大政奉還とおなじ時機になった。

 同年11月末には、広島藩が主導した藝薩長による挙兵・3藩進発(しんぱつ)は約6000人の軍隊にもおよぶ。突然、畿内にあらた最新式武装の兵力だった。幕末で最大級の挙兵を成功させたのだ。
 だれが、いつ、どこかで、ち密な作戦を練ったのか。それは歴史の謎である。


 確認できるところから、ひも解いてみよう。

 芸州広島藩の浅野家・家史「芸藩誌」によると、慶応3年10月末、広島藩世子の浅野長勲が岩国新港に出向いて毛利の世子と会う。
 同10月晦日、長勲が木戸孝允を乗船させて広島に着く。(長州は朝敵だから、大手を振って広島藩領に入れない)。木戸孝允は船越洋之助に会ったり、広島城で長勲と細かく密議する。


 薩摩の密貿易港でもある御手洗(広島県・大崎下島)で、4藩の大物があつまり、挙兵計画がち密にねられたのだ。木戸孝允は御手洗に出向いた。この御手洗の密議は、4藩の関係者の日記が現存しない。
 まさしく、明治政府による焚書だ。


 明治初期の御手洗港(大崎下島)(御手洗重伝建を考える会・提供)


 歴史はいくらねつ造しても、どこかに漏れがあるものだ。
 60年間沈黙を守った新谷(にいや)道太郎(御手洗出身)の口実自伝があった。昭和10年発行で、諏訪正編「維新志士・新谷翁の話」がある。
 そこには同年11月3日から6日まで、広島、薩摩、長州、土佐による「4藩軍事同盟」が大崎下島・御手洗でおこなわれたと記す。
 
 どんな挙兵だったのか。

 橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第八十二巻に、くわしく書かれている。
『長藩(長州藩)の一半はわが藩兵(広島藩兵)を装うために、軍旗、徽章など皆わが広島藩と同じにした。御手洗を出航し、淡路沖に停泊する。27日、兵庫沖にて、川合三十郎(神機隊)が長州人を同地に上陸させる。このとき幕兵が通過したので、長兵は打出浜より上陸し、後日、西宮に転営させる』


 長州藩兵は、広島藩の軍服・広島の軍旗をもって、毛利の家老を罪人の搬送をやったのだ。これは歴史的事実だった。これが長州藩の恥部となり、広島藩は恨みを買った。
              
           *


 慶応3年12月9日に明治新政府が誕生した。毛利家の朝敵も解除され、西宮に待機して長州藩が大坂経由で上洛した。さらに土佐藩も京都に挙兵してきた。

 ここの藝薩長土の軍隊が出そろう。明治天皇の近衛兵(このえへい)が主目的だった。後醍醐(ごだいご)天皇が「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」で失敗したように、武門政治(ぶもんせいじ)にもどさせないためのものだった。


 ところが戦争思考が強い西郷隆盛が「島津幕府」をめざして、「鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦い」を仕掛けたのだ。つまり、天皇を守る皇軍が、薩摩藩の政権欲に使われたのだ。


 広島藩兵は伏見に出陣していた。平和主義の辻将曹は一発の銃弾も撃たせなかった。「徳川家の大政奉還で平和裏に政権移譲がおこなわれている。天皇を守る軍隊を、会津と島津の遺恨に使うな」という指示を出していたのだ。

 辻将曹の判断が、薩長の軍隊の反発を招いた。芸州広島藩が明治政府の主流から外された、主なる原因となった。

 明治後半、内閣総理大臣まで輩出した長州藩士としては、毛利家の家臣なのに広島軍服で鳥羽伏見で戦った、長年の屈辱だったのだろう。
 藝薩長軍事討幕から、德川倒幕から藝州広島をはずし、「薩長倒幕」という言葉に帰られたのだ、それが焚書になったと十二分に推量できる。

 大崎下島の御手洗の金子邸で協議の上、3藩進発(挙兵)で、軍略にしろ、毛利家の藩士が他の制服を着せられるのは、耐え難い屈辱なのである。そのうえ、わが毛利家・家老を罪人護送させた役をやらされた。この屈辱と怨みが底流にあったから、それを明記した浅野家史「芸藩志」が封印させられたのだ。



 鳥羽伏見の戦いのあと、北関東、北陸、奥州で、旧幕府軍が反乱・暴走して戦火が拡大した。
 このままでは5年、10年戦争となり、西洋の侵略の口実にもなりかねない。わが国が重大な危機におよぶ。
 そう判断した広島藩・神機隊は、藩庁に出兵申請をした。藩内の認識は「島津幕府」づくりの戦争だ、徳川幕府を薩摩幕府に変えても、何になろうと拒否した。

 しかし、藝薩長同盟の中心となって活躍した神機隊の若者たちは、このままだと戊辰戦争が国内のし烈な内戦に拡大していく。早期に戦争を終結するのが民の安堵になるし、外国の餌食になるのを防ぐことになると、自費で約320余人が奥州戦争への出陣をきめたのだ。

「芸州広島藩 神機隊物語」には、『民のために生命を惜しむなかれ』とかれらを克明に記している。
 この東西に分かれた戦争では、日本の260余藩からそれぞれ複数の諸隊、草莽の隊、旧幕府軍など合わせると、軍隊は数千の数におよんでいる。
 そのなかでも、全額自費は広島藩の神機隊だけである。


神機隊  《7》 ~志和で生まれた炎~ 神機隊と神木隊

「神機隊物語」の取材、執筆するさなかに、『まさか』という偶然の出会いがあった。

 慶応4年3月11日に、神機隊が自費で、志和から戊辰戦争へと出兵した。会津にむかう途中、海路で品川に上陸した。浅野家の菩提寺・泉岳寺(せんがくじ)(忠臣蔵で有名)に滞在中、上野戦争への参戦をきめた。

 地形偵察に行った藤田太久蔵(たくぞう)参謀たちが、上野の山で道に迷い、敵陣の彰義隊のなかに入ってしまった。
 敵方は刀を抜いて殺到してきた。
「諸君、早まり給うな。われらは敵意があって上野にきたのではない。隊長どのに会いにきたのだ」というと、敵兵は斬るに及ばず、隊長のところに案内した。

「隊長とは、どこかでお目にかかったようだが」
 機知に優れた藤田がほほ笑んだ。
「先年、長州征伐で、広島に長く滞在して大変お世話になった。そのとき確か貴殿にお目にかかったはず」
 藤田も久しぶりに会った懐かしげな顔で、広島藩も長州征伐当時に苦労したと聞かせた。やがて、心を開いた隊長が道案内し、上野の山から脱出させてくれた。(広島郷土史談)。

 この敵陣はどこか。越後(えちご)高田藩(たかだはん)の江戸詰だろう。

 先立つこと、鳥羽伏見の戦いのあと、神機隊の小林柔吉(じゅうきち)が、北陸鎮撫使(ちんぶし)の参謀となった。慶応4(1868)年2月には高田会議を開き、越後高田藩の榊原家を新政府側に恭順(きょうじゅん)させている。


 同高田藩江戸詰の武士らは、芸州口の敗北で、徳川四天王もこのありさまか、と嘲笑われた。ここは徳川家に最後までご奉仕するべきだと言い、脱藩したうえで、上野の彰義隊に加担した。
 かれらは榊(さかき)の漢字を分解し、「神木隊」を結成した。神木隊=シンキタイとも読める。奇異な偶然である。

 この神木隊には橋本直義(なおよし)がいた。かれは勇敢な武士で、芸州口の戦い、上野戦争、宮古湾の海戦、箱館戦争の激戦地で負傷しながらも戦っている。

 明治8年頃から、かれは「最後の浮世絵師=揚州周延(ようしゅう ちかのぶ)」として戦争画、歴史画、開化錦絵、役者絵、美人画など、さまざまなジャンルで活躍している。

 橋本直義はかつて海田市に滞在している。絵師の腕前から広島・船越(ふなこし)の大江谷(おおえだに)の「誰故草(たれゆえそう)」と縁もあるだろうと、拙著「芸州広島藩 神機隊物語」で取り上げた。


 揚州周延「帝国万歳憲法発布略図」= 提供・上越市立総合博物館

明治維新150年周年記念、歴史講演会(4月15日)=広島市・船越

 広島市民が、幕末・維新の「広島藩」にたいして燃え上がってきた。

 3月12日に発売した「広島藩の志士」が、広島市内の大手書店で、軒並みベストセラーになっている。立て続けの出版となった「芸州広島藩 神機隊物語」(4月4日発売)が、既に品切れがでるなど、順調に推移している。

 いまや『広島藩』人気が急上昇している。 
 この背景の下で、広島市船越公民館で、4月15日午後1時15分から、講師・穂高健一「知られざる幕末の芸州広島藩・神機隊の活躍」の講演をおこなう。

 中国新聞が4月11日朝刊で「神機隊の歴史 穂高さん語る」と前打ち記事を掲載してくれた。

 新聞をみた方から、問い合わせが多く寄せられています。(岡田館長談)

 さかのぼること昨年の春、船越の「唯故草(たれゆえそう)」を観ませんか、と紹介してくださった人がいた。
 私の知識は皆無だった。作家は好奇心が強い。ひとこと返事で出むいた。

 現地の船越公民館に訪ねると、唯故草同好会の方が、可憐な唯故草の特性を説明してくださった。
 岡田館長が植生する船越中学の周辺とか、岩滝神社とかを案内してくれた。


 わたしはちょうど浅野家の家史「芸藩志」から、「神機隊物語」の取材・執筆の着想を練っていた。そんな話を岡田館長にすると、「唯故草」を作品のなかに、登場させてください」と依頼された。

 神機隊の兵卒が華麗な花にこころが休む、というていどならば、いかようにも書けるし、とかんたんに引き受けた。


 後日、日浦山(船越・海田と登山口が多い)の山頂まで登ってみた。
 作者として、美景の情感を文章スケッチした。このとき、プロローグとエピローグは護国神社の巫女を登場させることに決めた。巫女の名は大和倭香(やまとしずか)とし、海田出身の短大で、唯故草を愛でる20代の女性とした。
 初稿はそうしておいた。
 
 初稿を一読した編集者(東京在住)から、作品の書きだしが長州戦争からだと、広島の気質や文化はわかりづらい。全国のひとは、江戸時代の広島魂が知り得ないまま読まされてしまうよ、とつけ加えた。
「現代の広島人すらも、江戸時代の広島なんて、知っていませんからね」
 私は苦笑しながら、妙に納得させられた。
「2稿では、浅野家が紀州和歌山藩から広島へ移封してきたところから、書きだしたほうが良い」
 江戸時代の広島の政治、経済、文化、広島の気風や、広島魂を読者にしっかり理解されたうえで、『幕末に、なぜ広島藩が倒幕の主役に躍りでたのか。なぜ倒幕で藩論統一ができたのか。なぜ、神機隊が自費で戊辰戦争に出兵したのか』とストーリーを展開すれば、全国の読者に理解されるし、共感を得られるよ、と助言をうけた。

 作家と編集者は両輪で、作品を生みだすもの。わたしは編集者のことばに、もっともだと納得しながらも、
「初稿で幕末10年間を濃密に書いているのに、2稿では250年もさかのぼるの……」
 このさきの原稿の締め切り、出版日を考えると、大変な忙しい作業になった。

 小説家は、文章を書き足すのはさほど労苦はない。かたや、推敲(すいこう)までした1行一句には愛着があるから、削除が難儀だ。
 巫女が日浦山に登る。ここらは全面カットしないと、全体の枚数がオーバーする。


 岡田館長と約束した唯故草はいかにつかうか、と思慮した。神機隊の兵卒が唯故草を愛でる。これは月並みで、だれにでも書けるし、プロ作品じゃない。

 長州戦争のとき、越後高田藩が海田市に長期に宿陣し、そして長州軍に大敗した。かれらのなかに、唯故草を愛でる人がいたと想定してみた。
 高田藩(榊原家)の掘り下げが始まった。上越市立博物館の学芸員から、著名な郷土史家の村山和夫さんを紹介してもらった。

 村山さんと諸々と語るうちに、「明治時代の有名な『最後の浮世絵師』の揚州周延(ようしゅうちかのぶ)が、長州戦争で広島表に行っていますよ。この方を登場させたら、いかがですか。本名は橋本直義(なおよし)」
 とアドバイスを受けた。電話取材のさなか、パソコンで画像を確かめると、教科書に載っている「越後高田藩の出陣」の絵があった。
 これは素晴らしい人を紹介してくれた、と感謝の念をもった。


 その後、越後高田藩と広島藩との接点が次つぎと発見できた。上野戦争では、「こんな偶然が現実にあるのか」、と途轍もない広島藩側のエピソードと結びついた。気持が震えた。作家みょうりだと感動した。「神機隊物語」のなかでも、盛り上がりのひとつになった。
 
 広島・船越の「唯故草」から、思いもかけない大きな歴史的な発見があった。船越公民館の講演では、ふだん聞けない作家の裏舞台も語るつもりである。

「神機隊物語」は徹底した取材で、歴史新発見とか、通説をくつがえす場面が随所にある。なぜ、それら発見にたどり着いたか、と作家の書斎側を中心に、芸州広島藩とか、神機隊とかを紹介していくつもりである。


    『揚州周延の歴史画は、上越市立博物館・蔵』

【チラシ情報】

神機隊テーマ『幕末維新史 広島藩の躍動』= 中国新聞・文化

 中国新聞の3月16日の朝刊「文化」欄に、「穂高さん新小説」と題して、新刊「芸州広島藩 神機隊物語」と、再判される「広島藩の志士」のふたつが紹介されました。記名記事で、林淳一郎さん。



 記事の一部をご紹介します。
 
 新刊「芸州広島藩 神機隊物語」(2160円)が4月初めに刊行される。神機隊は、明治時代へ移り変わる150年前にの内戦で、激戦をくりひろげた実在の部隊だと記す。

 若き隊員たちの足跡を軸に、長州と薩摩だけでは語りきれない、歴史の変革を新鮮に描く。

 新政府軍に加わっていた広島藩は、戊辰戦争で旧幕府軍と戦った。広島藩士や地元農家の志願兵で結成された神機隊の約300人も参戦した。東北へ向かい、現在の福島県浜通り一帯で、激戦を重ねた。

 小説では、内線に至るまでの広島藩の奔走ぶりもたどる。薩長と軍事同盟を結んだほか、大政奉還では徳川幕府にたいして政権を朝廷へ返上するように促す。その建白書も提出した。大崎下島の御手洗(呉市)で密議された出兵計画や、御手洗が薩摩との密貿易の拠点になったいきさつにも迫る。

「中略」

 広島藩の記録「芸藩志」などをひもとき、福島や鹿児島で取材も進めて、ストーリーを紡いだ。
 いずれの登場人物も実在し、描写に心を砕いたと、作者は語る。さらに、プロローグとエピローグで、高間省三を祀る広島護国神社の巫女(みこ)が、浪江へ墓参に向かうシーンなども盛り込んでいる。

 さらに、同記事では「広島藩の志士」(1728円)の再刊にもおよぶ。

 穂高さんは4年前に、高間省三を主人公にした「二十歳の炎」も刊行している。このたび発行元を変えたうえで、3月半ば、広島市東区の南々社が新装版「広島藩の志士」として発行した。

 穂高さんは「神機隊」をテーマにしながら、「埋もれつつある郷土の歴史に、若い人たちの関心が向くきっかけになれば」と願う。

神機隊~志和で生まれた炎~≪5≫隊を創設した木原秀三郎=プスネット連載より 

 木原秀三郎(適處)はどんな人物か。
 東広島市高屋町(旧・檜山村)の庄屋で、志高く、満27歳で長崎に遊学している。その後は江戸で勝海舟の門下生になり、築地の軍艦操(そう)練所(れんしょ)で航海術、砲術を学ぶ。やがて、広島藩・江戸藩邸で抱えられ、応接方(おうせつがた)(藩の外交官)に任命された。広島に帰国して軍艦付となった。

 第二次長州征討のまえ、広島藩の若者たち55人は切腹覚悟で、小笠原老中の暗殺で戦争を止めようとした。木原もいた。しかしながら、戦争が勃発した。

 長州藩兵が岩国から小瀬川(おぜがわ)を越えてきた。芸長の不可侵条約を無視し、幕府軍を追って大竹、大野、廿日市、広島城下近くまで攻めてくる。この間、広島領民にたいして強奪、略奪、放火までやった。

 広島藩の農兵といえば警防団ていどで役立に立たず。やがて、西洋式軍隊の紀州藩兵と幕府海軍の艦砲射撃で、長州藩兵は岩国まで追い返された。

 木原は農閑期のみ訓練をする農兵でなく、毎日、訓練する壮兵(そうへい)(職業軍人)の軍隊をつくるべきだと、約一年前から主張していた。木原は洋学をも学び、世界最強のイギリス軍隊の知識があったのだ。
 
 広島藩庁は、領民の大被害を知り、やっと木原の考え方を理解し、神機隊の創設を許可したのだ。
 志和盆地の地形・風土を知りつくす木原が、本拠地を志和にきめた。

 結成時、志和冠村の庄屋・近藤権之助が山野の練兵所、食糧の確保、兵舎づくりなどおおいに協力した。優秀な家中(浅野家臣)が約30人と、賀茂郡八十八か村を中心に近郊から1200人が隊中として入隊してきた。
 藩庁の許可は200人の費用のみだった。

 差額の隊費は、藩の要人・小鷹狩(こだかり)介之丞(かいのじょう)が配慮し寄付金でまかなった。武器弾薬は、武具奉行の高間多須(たす)衛(え)(省三の父親)が、西洋式最新銃と銃弾を貸与し、志和練兵所の訓練では十二分につかえた。

 神機隊の優秀な家中が交代で、城下から約30キロの志和にきて、数日間は寄宿し、寝食をともにし、思想教育、軍事教育、軍律の厳しい指導にあっても、家中・隊中の人間関係は良好で、日本最強の軍隊をつくりあげていくのだ。

                     【つづく】


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪4≫隊の精神「死を惜しむなかれ」=プ4スネット連載より 

 第二次長州征討まえ、広島藩・執政(しっせい)ふたりが謹慎(きんしん・幽閉)処分をうけた。
 これは幕府の権威主義で、わが広島藩を蔑(ないがしろ)にしたものだと、藩校・学問所の有志55人が怒り、老中暗殺の予告にでた。そこには船越洋之助、川合三十郎、木原秀三郎、高間省三などがいた。
 安政2(1866)年5月23日のことだった。

 神機隊の歴史の始まりでもある。

『諸君、死を惜しむなかれ。もし死を躊躇(ちゅうちょ)するならば、だれが国論の統一を成し遂(と)げられるというのか』
 秀才の星野文平(御手洗出身)が、同窓の船越洋之助、川合三十郎らにいい残し、3年前に割腹していた。死を惜しむなかれ。これが神機隊の精神になった。

『逆党の小笠原壱岐守・室賀伊予守の首級を六月一日までに討取り 神明正道に備へん』
 広島城下の5か所に、かれらは張り紙をだしたのだ。老中の命を狙う、幕府の逆鱗(げきりん)に触れて斬首である。

 これを事前に知った世子・浅野長勲(ながこと)が、そなたらは行動するな、余が小笠原を殺(や)ると止めに入っていた。これが徳川家の耳に入れば、最悪は幕府が長州藩と戦うまえに、広島藩と戦闘になりかねない。

 第11代藩主の浅野長訓(ながみち)はどんな策を取ったのか。広島城に小笠原老中を呼びだし、「広島藩は長州との戦いの先陣だが、参戦しない」といい渡した。
 だれが考えても、火に油を注ぐものだ。
「あなたの身の安全は確保できないから、早々に広島から出て行ってくれ」と冷たくもうし渡した。小笠原老中は反論できず、スゴスゴと小倉に移った。


 豊臣秀吉の正室・寧々(ねね)(北の政所)は浅野家から嫁いでいる。徳川家康すらも浅野家には一目をおいていた。先の第10代藩主の浅野慶熾(よしてる)は、徳川家(いえ)斉(なり)将軍の実孫であり、家慶(いえよし)将軍のオイだった。

 浅野家はき然と幕府にものがいえた格式ある家柄である。老中・松平宗(まつだいらむね)秀(ひで)が5月28日、広島に着任した。
 浅野長訓にいわれて6月2日には執政の辻(つじ)将曹(しょうそう)が謹慎を解かれた。(野村帯刀(たてわき)はそれ以前に謹慎が解かれていた)。
 浅野家が藩論一致で、徳川家の倒幕にうごきだす契機はこの時点にあった。


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪3≫神機隊発足の芽生え=プレスネット連載より 

 長州藩は倒幕の主役ではなかった。毛利家は藩内の内乱ばかりで、明治新政府樹立まで表立って関わっていない。そういえば、「えっ、ウソ」とおどろく人は多いだろう。

 慶応3年10月15日の大政奉還では、長州藩はカヤの外である。同年12月9日の京都の小御所会議(こごしょかいぎ・写真)で、明治新政府が誕生するが、このとき主な長州藩士で京都にいたのは品川弥(や)二郎(じろう)だけである。
 情報収集で潜伏(せんぷく)する品川ひとりをもって巨大な徳川政権を倒した主役だとはいえない。

            *

 倒幕の足音はいつからか。
 天保・天明の大飢饉(だいききん)で、徳川政権の経済基盤が傾き、ペリー提督の来航から鎖国(さこく)防衛ができず、開港へとおよんだときである。

 日米通商条約が締結されると、外国人を排除する攘夷(じょうい)運動が盛んになった。長州藩が朝廷をかつぎだし、国内政治の中心を江戸から京都の天皇へと移させた。
 しかし、長州藩はあまりに過激攘夷すぎて、孝明天皇からかえって排除された(八月十八日の変)。

 毛利家の三家老が失地回復をもとめて、元治元(1864)年、軍隊を引き連れて京都に挙がり、禁門(きんもん)の変(へん)を引き起こした。御所にむけて発破し、藩邸に火を放ち、京都の約半分を大火災にさせた。

 激怒した孝明天皇が、長州を征伐せよ、と家(いえ)茂(もち)将軍に命じたのだ。
 これでは勤王を標榜(ひょうぼう)する長州にとっては台無し。幕府と天皇を敵にまわして倒幕どころか、本州の西端に封鎖された。
 朝敵の毛利家中は京都にも、広島すらいけない禁足が、王政復古による明治新政府誕生までつづいたのだ。
 ところで、第一次長州征討は、長州藩の関係者の切腹・斬首で終わった。その後、長州藩内で高杉晋作など過激派の力が強まり、德川幕府はそれを危険視し、第二次長州征討へむかっていく。

 広島藩が戦争回避の周旋にのりだした。
 小笠原老中が広島に赴いてきた。広島藩の執政(実質・家老)の野村帯刀が小笠原に強く非戦の意見を具申する。逆に謹慎処分にされた。同様に、辻将曹・執政が大儀のない戦争だとくりかえし、謹慎。怒った優秀な若者55人が、切腹覚悟の行動にでた。ここから神機隊発足への芽生えとなった。

                       【つづく】  

 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第3回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪2≫幻の歴史書だった芸藩誌=プレスネット連載より 

 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載します。同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第2回目です。
 
                 *   

 慶応4年(明治元年)7月、戦史にのこる神機隊の激戦は広野駅(宿場)からはじまった。広野は米作の平野で、遮蔽物(しゃへいぶつ)がほとんどない。
 相馬軍・仙台軍・旧幕府軍の連合4000~4500人の大軍団が埋めつくす。朝昼夜、なんどきも銃弾と砲弾が飛び交う。

 新政府軍の鳥取藩軍は、その恐怖から途中で退却した。孤軍となった神機隊280余人の精鋭部隊は、一歩も引かず、全方位の敵兵をあいてに壮絶な戦いに挑む。死傷者が連続する。
4日間の死闘で弾薬がつきてしまう。
 砲隊長の高間省三が、とてつもない奇襲攻撃をかけて、敵本陣の広野駅を奪ったのだ。

 川合三十郎・橋本素助編『芸藩(げいはん)志(し)』には、こうした壮絶な戦場が克明に描かれている。
 明治半ば、浅野長勲(ながこと)(最後の大名)が、幕末の政治活動をともにやった川合と橋本に、幕末・維新の家史編纂(へんさん)を命じた。
 ふたりは藩の応接掛(外交官)で、政治の裏舞台を知りつくす。さらに、志和で神機隊を旗揚げした中心人物である。なおかつ戊辰戦争には隊長で出陣している。

 編集要員は約300人で、完成は明治42年だった。

 当時は、薩長閥の政治家がつよい権力を持つ。かれらはかつて足軽の身分にも満たない中間(ちゅうげん)や貧農の出身者だった。幕末の頃はまだ下級藩士で、政権内部の機密情報など知りえる立場ではなかった。

 やがて総理や大臣になると、自分たちを偉くおおきく見せるために、腐敗していた徳川政権を俺たちが打倒したのだと豪語していた。

 芸藩志となると、かれらが語る幕末史とは真逆が多い。自尊心をへし折られたかれらは強権で即刻、封印させた。
 幻の歴史書だった芸藩志が昭和53年に、300部出版された。すでに「竜馬がゆく」の司馬史観が世のなかで固まっていた。

 わたしには、それら通説をくつがえし、歴史教科書すらも書き換える内容におもえた。明治政府が修正をもとめず封印したことが幸いし、手垢がついていない。
 その認識のもとに、芸藩志により近く、「広島藩の志士」(二十歳の炎・改訂版)を執筆した。さらに、「芸州広島藩 神機隊物語」も4月1日に発売予定である。


 【関連情報】

①「広島藩の志士」(定価1600円 南々社)は、二十歳の炎の新装改訂版です。3月12日から全国一斉販売されます。
「まえがき」「あとがき」「口絵」が付加されています。
 この「あとがき」には、おどろくべき幕末の焚書(焼き棄てる)が明記されています。幕末の重要人物の日記がまったくない。誰が燃やし、破棄したのか。
 悪質な歴史のねつ造は誰がやったのか。従来の幕末史観が、真逆になる可能性があります。

 
②㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪1≫戊辰戦争 連戦連勝の軍隊=プレスネット連載より

 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載します。同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第1回目です。

                 *

 広島には、毛利元就から原爆まで、その中間の歴史がない、といわれてきた。なぜか。学校教育でも、郷土史として習っていない。芸州広島藩は倒幕の先駆けで中心的な存在だが、倒幕には無縁だ、と殆どが思い込んでいる。
 慶応3(1867)年9月、広島藩は、徳川慶喜に軍事圧力で政権返上を迫るために、広島・薩摩・長州の薩長芸軍事同盟を成功させた。

 そこで旧来の農兵とちがう、実戦につよい西洋式軍隊が必要となった。藩の有能な応接掛(外交官)たちが、農商の子弟、神官、医者などに呼びかけて神機隊(しんきたい)を結成した。同9月、志和(東広島)で旗揚げする。職業軍人として、日々、実戦型の訓練で、軍律も厳しく、最新武装の軍隊だった。

 この9月から歴史に加速度がついて、大政奉還、三藩進発(挙兵)、王政復古、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと拡大していく。

 神機隊は、広島藩庁に戊辰戦争の出兵を申請した。だが、大政奉還で徳川政権は終わっている、と拒否された。かれらは承服せず、藩から一両も貰えずしても、あえて自費で全隊員約1200人から精鋭300余人を選び参戦した。
 上野戦争、奥州戦争へと転戦し、命を惜しまない壮絶な戦いを行った。


 諸藩が参戦した戊辰戦争だが、神機隊は連戦連勝の最強の軍隊だったと、知る広島県人もまずいない。

 神機隊の砲隊長は高間省三である。かれは18歳にして学問所の助教というエリートだった。満二十歳で、福島県・浪江の戦いで戦死する。この若さで広島護国神社の筆頭祭神に祭られている。

 どれだけ武勇にも優れた人物だったか。

 明治26(1893)年に、『軍人必読 忠勇亀鑑(ちゅうゆう きかん)』が発行された。
 そこには日本武尊、加藤清正、徳川家康など英雄がならぶ。戊辰戦争ではひとり。西郷隆盛、板垣退助、大村益次郎でもなく、高間省三である。
 幼少の強い性格、頭脳明晰の優れた人物、戦場での大胆な戦い方、浪江の戦いの壮絶な戦死まで紹介している。

「えっ、芸州広島藩に、こんなすごい人物がいたのか」
 実のところ、私自身もまったく知らなかった。

          写真=最新銃をもった高間省三(広島護国神社蔵)


【関連情報】

 ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

【近代史革命】世界三大焚書か=明治政府の幕末史のねつ造は(下)

 幕末史の大政奉還や小御所会議にかかわった歴史上の人物らの日記が、奇怪にも存在しないのだ。ことごとく現在進行形の日記がない。なぜないのか。これは焚書(ふんしょ)以外の何ものでもないだろう。

 これまで学者、作家はいったいなにを根拠に学術書、小説などを書いてきたのか。まったく理解できない。

 明治新政府の顔ぶれは、松平春嶽、尾張・徳川慶勝、浅野長勲(浅野家は松平の姓を名乗れる)。山内容堂(佐幕派)、島津忠義(家定将軍の正室・篤姫)というすべて徳川家である。
 徳川公方様のケイキ(慶喜)さんが身を引き、ほかの徳川家の方々に代わられた。人事の一新を図った、という意味合いで、明治時代のひとたちは『御一新』(ごいっしん)と呼んでいた。大正時代まで、その呼称だった。
 
 一般庶民には、徳川慶喜は、ながくケイキさんと慕われてきた。松平容保すら日光東照宮の宮司になった。戊辰戦争で一人も大名が殺されていない。これは徳川倒幕ではない。
 後世の造語である。
 明治維新となると、昭和に入って言われ始めたものだ。2.26事件の青年将校が「昭和維新」と叫んだことから、政府関係者が「明治維新」と後付したのである。
 

 偉人伝で現存する日記に類似する史料は、あらゆるものが後年の聞き取り、あるいは勝海舟の「氷川清話」のように記憶で書いたものである。勝海舟の書で解るように、都合のよいこと、差しさわりのないこと、我田引水ばかりである。

 現在、NHK大河ドラマの主役となった西郷隆盛の日記も存在しない。

「南洲翁遺訓」となると、旧出羽庄内藩の関係者が作成したものだ。庄内藩といえば、鳥羽伏見の戦いの引き金となった慶応三年12月に江戸の薩摩屋敷を焼き払ったことで有名である。
 かれら庄内藩はかつて江戸の治安部隊だった。
 そこに江戸騒擾(強奪、略奪、美女狩り・強姦、二の丸放火)などテロ活動が横行した。江戸を恐怖に陥れさせた西郷隆盛は最大の憎い敵だった。だから、庄内藩は大砲を撃ち、テロリストの多くを惨殺した。
 その庄内藩士が西郷をほめたたえる「南洲翁遺訓」となれば、怪しいものである。戊辰戦争後、恭順した庄内藩が、新政府に媚(こ)びる面が強い。内心は腹立たしいのに。

「動乱の世は、だれも明日がみえない。迷い、疑心暗鬼、試行錯誤が日記に表れるものだ。それが歴史的事実になる」
 歴史を後ろから作り直した聞き書きは、すべてストレートに辻褄(つじつま)が合いすぎている。怪しいものである。


 土佐藩でみてみよう。山内容堂の日記はない。最も重要な史料がないのである。つづく後藤象二郎、板垣退助、福岡 孝弟( たかちか)らも、当時の現在進行形で書かれた日記がない。なにをもって土佐藩を知ることができるのか。
 龍馬は届いた手紙はすべて焼き捨てている。木戸孝允からきた手紙の裏書き一通だけが現存するのである。鉄砲密売の自分から出した手紙など、どこまで真実か解らない。密なる商売の性格から、はったりも、ウソも、駆け引きも、見栄ぱりの面も多々あるだろう。

 幕末の政治改革は、「薩長倒幕」でなく、德川の人事一新である。あるいは「徳川内部崩壊」だとしても、龍馬の活躍など、大半が作り物だと言っても過言ではないだろう。
 ありもしない船中八策など、いい加減な倒幕という創作幕末史に、私たちはごまかされてきたのだ。


 広島の講演で、質問が出た。
「そんな大規模な焚書(ふんしょ)ができますかね?」
「やる気になれば、できますよ。江戸幕府がつぶれて武士は失業し、食い扶持を探していました。全国260余藩の隅々に散っていた公儀隠密だって、食べていくためには、新しい仕事を探す。明治政府の秘密警察に組み込まれたり、あるもは軍隊の憲兵になったでしょう」
「なるほど。なれた職のほうが働きやすい」

「江戸時代の商人は『各藩の紳士録』を持っていました。商いの重要な資料です。これをみれば、260余藩の上級藩士は、一目瞭然でわかります。明治22年以降に、政府が元公儀隠密の秘密警察に、これこれの日記を処分しろ、と命じたとすれば、かれらは水を得た魚のように、天井裏、床下から深夜に忍び込み、いとも簡単に日記を盗み出すでしょう」

「公儀隠密は、それが仕事だったんですよね」
「そうです。江戸時代に公儀隠密という260余年も徳川政権を支える裏と影の組織があった。だから、明治政府があえて新規に作らなくても秘密工作員の土壌があったのです。中野学校のスパイ養成などの教官にもなったでしょう」

「だれが焚書をやったのでしょう?」
「徳川家が内部崩壊なのに、『幕府倒幕』ということばを世の中に発信した人ですよ。ほんとうの意味で倒幕はなかった。その証拠に、薩長土肥の下級藩士は、明治2年ころまで大臣クラスはいない。せいぜい次官か、局長クラスです。とても、倒幕と言えたものではない」

 徳川家の内部における人事の一新を、「徳川倒幕」にすり替えた。なぜか。
「そうしなければならない存在の人物がいたからです」
 身分の低いもの、学歴のなかったものが最も高い政治的な地位に就くと、過去を誇大視し、偉そうに語るものです。
「実際には倒幕していないのに、自分たちは徳川を倒しただの、徳川よりも優れているんだぞ、江戸幕府は劣悪な政治だったから倒す必要があっただの、と故意に大きくみせる造作の必要を感じた政治家がいたのです。それが焚書のボスです」
 その心理は現代でも同じです。端的な例は、私の先祖はすごい、と自慢したがります。本当に、そうなのか、と疑っても、まま聞き流して終わりにしてしまいます。

 だが、歴史はそうはいかないのです。

 人間は突然変異なことはしないものです。だから、「歴史から学ぶ」ことができるのです。私たちが現在から将来を洞察するとき、過去の事例はとても大切です。人間はだいたい同じことをしますから、歴史の事象は指針づくりにとても役に立ちます。

 しかし、為政者が自分を大きく見せるために、史料を焚書し、歴史的事実をねつ造していると、私たちは将来にたいする判断や指針が狂ってしまいます。
 
「私が調べたかぎりでは、幕末政治の中心にいた人物の肉筆の日記は、いまの段階では確認できていません」
 皆さんで、大名と家老、そして上級公卿たちの現在進行形の日記を探しましょう。発見できなければ、明治時代、あるいはそれ以降の政治家が、自分たちの不都合で焚書したことになります。指示命令した人物が特定できなくても、大規模な「世界三大焚書」として汚名をきることになるでしょう。

 ぞっとすることですが、事実だったら、目を反らすことはできません。後世の国民を裏切った悪質な政治行為ですから。糾弾されるべきです。

                                  【了】