歴史の旅・真実とロマンをもとめて

姫路城(白鷺城)あのいじめられっ子は健在かな、どうしていのかな? 

 小学生のころから、姫路城はいちどは行ってみたかった。

 それは広島の離島に転校してきた少年(小学4、5年?)が「白鷺城は真っ白できれいだ。毎日、見ていた」という語りが、私にはずっと記憶に残っていたからだ。
 
「城をみてみたい」と思った最初が、姫路城でもあった。しかし、わたしは歴史小説を書く作家になっても、白鷺城は足がむかなかった。

 広島と東京間を往復する、かんたんに立ち寄れるルート上にあるけれど、姫路下車はいちどもなかった。

 その少年は、転校後に、すぐに登校拒否児になった。

 広島の島っ子たちは、いじめは上手だ。乱暴だ。

 近年、メディアなどで、いじめ問題がでてくると、「最近はひどい。むかしはそんなことはなかった」という。

 それを聞くたびに、「嘘つけ、むかしのほうが、もっと酷(ひど)かった」とおもう。コメンテーターのいつものいい加減な発言にうんざりしながらも。

 と同時に、白鷺城を思い浮かべる。

 少年の名前は忘れてしまった。もう半世紀もまえのことだから。

 学校の先生に命じられて、朝は交代で、登校拒否児のかれを迎えに行く。

 女郎屋の裏手の小さな借家だった。

 しかし、少年は家から出て来ない。


 なぜ、登校拒否児になったか。

 クラスメートは、すべてわかっていた。

 「おまえの母さん、女郎だ。女郎ょっ子だ」

 「迎えにきたぞ、女郎ょっ子」

 これでは、学校に来るはずがない。

 「早くでて来い、女郎ょっ子」
 

 島の遊郭は、内航船の船員をあいてに繁盛していた。

 母親はそこで身を売る。生きていくため、子育てのために。姫路から流れてきたのだろう。

 子どもは残酷だ。そんな家庭の事情など、みじんも理解していない。

 戦後の男の子は、乱暴だ。喧嘩が遊び道具の一つだ。

 理由は簡単だ。周囲の大人の男性はかつての軍人経験者ばかりだ。

 教職員だって、数年前まで、銃剣で人間を殺していたのだから。
 
 教師に殴られなかった生徒は、いるのかな? 男子生徒ではきっといないだろうな。


 「全体責任だ。全員ならべ」と言われて、殴られた。1度や2度ではない。

 当然のこととして、耐えた。親など話すわけがない。

 不愉快だったら、殴る、という軍人の残影が、子ども社会にまで伝染していた。

 だから、子どもたちは平気で喧嘩を売る。

 「女郎ょっ子」は、転校当初は、白鷺城をなつかしげに語って聞かせていた。

 しかし、田舎の島っ子には、都会っ子として、鼻持ちならなかったのだ。

 なにかと都会からの転校生には、ささいなことで喧嘩を売る。

 喧嘩して、泣いて、しょげる奴は弱虫だ。笑いの種だった。

 負ける奴が悪い。

「くやしかったら、かかってこい」

 男だったら、喧嘩を売るのが当然だった。

 
 日本は敗戦だったけれど、軍人精神、任侠の世界がまだ持てはやされていた。清水次郎長、国定忠治、鞍馬天狗が英雄だった。

 日本はアメリカに負けた。しかし、中国や朝鮮が戦勝国だと認めていない。かれら軍人を蔑視する風潮があった。
 日本人はアジアで最も強いんだ。そういわれて、子どもたちは信じて育ってきた。

 そんな大人の空気が、子ども社会にも影響を与えていた。

 「弱い子をより叩きのめす」
 
 日本軍人はつよい、アジアは弱い。その誤認識と妙に共通していた。

 私は全国津々浦々、かなり城をまわっている。歴史作家としても、城は研究対象だ。

 このたび、『家康と播磨の藩主』(播磨学研究所)の共著の伊藤康晴さん(鳥取)から謹呈された。「西国の将軍、姫路城主・池田輝政」というタイトルで執筆されていた。

 伊藤さんとは1-2年にして、鳥取市に出むいて飲んで語る近代史家だ。

 これを機会に、姫路城主に行ってみよう、と決めた。8月12日に出むいた。
              
 わたしは少年の面影をどこか探していた。姫路駅から白鷺城の往復で、少女の裸身がやたら目立った。このくらいの年齢のときかな。

「日浦山」(広島県)から芸州口の戦いを一望=長州藩は最初が卑怯、のちに敗走

 日浦山(ひうらやま・広島県海田町)に登るほど、遠景が高くなる。

 瀬戸内海がはっきり輪郭をあらわし、宮島(みやじま)が浮上してきた。瀬戸内海の海岸線が、鮮明な線をひいて伸びる。秋晴れの絵画のような自然の造形美だった。


  慶応2(1866)年6月の開戦まえ、この海域は、幕府軍の軍艦がびっしり埋まり、当時は蒸気軍艦ですからね、煙突の黒煙がもうもうもとなびいていたでしょう。

「芸州口の戦いの先鋒は、広島藩だった。それが抜けたわけです。おどろいたのが鎧(よろい)兜(かぶと)で武装した彦根藩と越後高田藩です。かれらは広島に長期間にわたって逗留しています。厭戦(えんせん)感がただよい、戦意などなかった。最前線に押し出されてしまった」

 6月7日、幕府軍艦は周防大島(すおうおおじま)や馬関海峡(ばかんかいきょう)へとむかった。そして戦端を開きました。

  山頂が近くなり、最期の急こう配の道になった。たどり着くと、小さな白地のタオルで首すじの汗をぬぐった。

             *

 慶応2年6月14日の朝、幕府の攻撃命令で、先鋒の井伊家の軍勢が小瀬川を渡って岩国に入ろうとしたとき、戦端が開かれた。

「歴史書は、このように長州がわに都合よく書かれています。実際は前夜、長州軍が広島藩領に無断で侵入し、大竹の北側にある鍋倉山(なべくらやま)に陣取っていたのです」

 武器をもった侵略行為ですから、褒められたものではありません。

 鍋倉山から、臼砲(きゅうほう・曲射砲)の砲弾が、井伊家の軍勢へ撃ちこまれました。つまり、真横、後ろから砲撃をしたのです。これが戦争の発端です。

 長州藩兵が山を駆け下りながら、最新銃で一斉射撃です。井伊家の軍勢は予想外の方向の奇襲(きしゅう)におどろいてしまう。

 側面攻撃、後方攻撃をうけると、指示命令の系統がズダズダに切られてしまう。井伊家の軍勢は隊伍(たいご)を崩しました。銃声や砲弾の音に、馬たちがおどろき、乗る武将たちは転落する。もう大混乱をきたし、小方(おがた・大竹市)へ敗走をはじめます。

 井伊家は有名な赤備(あかぞな)えの旧式の軍装で、鎧(よろい)兜(かぶと)や旗(はた)指物(さしもの)が赤や朱です。井伊家の逃げる鎧兜の兵士は争って小舟に乗ろうとする。大勢が乗りすぎて浸水したり、転覆したりする。

 長州兵が最新銃で狙い撃ちです。井伊家の陸兵はもともと雑兵が多い補給部隊だった。それが先兵になったから、ひとたまりもない。

 重い甲冑、鎧を脱ぎ捨てて、ことごとく西国街道の陸路や海路を逃げていく。冠山からの子尾根が海辺までせり出し、街道の道幅が狭かったのです。
 逃げ込む兵士は押し合い圧し合いです。


 彦根藩・高田藩が敗走してきたので、幕府は幕府歩兵隊と、紀州支藩の新宮(しんぐう)藩の水野歩兵隊を芸州口に投入させた。

 第一線に出てきた水野忠幹(ただもと)は、フランスから購入したミニエー銃600丁で決死の戦いに臨んだ。死者が次つぎ出ても、水野家は紀州藩の付家老であり、主君の征長総督の面目にかけて、頑強に反撃する。

 こんどは長州軍を四十八坂まで退却させていく。そこに幕府海軍がはげしい艦砲射撃を加える。長州軍はひたすら退却で、小方の先まで退いていく。


『上記は、来年4月1日に出版予定の歴史小説「芸州広島藩」の一節です。第一章は現代から入ってきます。この作品の狙いは、大藩・広島藩からみれば、幕末史が変わるです。これまでの通説は随所で覆しています。

「芸州口の戦い」で、長州藩兵は卑怯にも前夜に広島藩領に忍び込んでいた。紀州藩が出てくると敗走していた。
 歴史家、歴史小説家は、「防長回転史」の受け売りで、長州藩が芸州口の戦いまで「勝った、勝った」とされています。
 しかし、広島側の資料をみれば、長州藩は最初が卑怯、のちに敗走です。

 多くの歴史家は薩長史観から、まだまだ脱却できていないようです。でも、ねつ造やメッキはいつしか剥げていくものです』

 
 越後高田藩は芸州口の先陣でした。井伊家の敗走に巻き込まれて戦いながらも、後退していきます。と同時に、大勢の犠牲者を出しています。

 この海田町・日浦山の山麓にある「明顕寺」で、高田藩の戦死者は150年間にわたり眠っています。

  

【近代史革命】 薩長同盟・薩長倒幕をう呑みにしている、幕末史オンチ

 第二次長州征討のまえ、慶応2年1月、京都の小松帯刀(薩摩)藩邸で、桂小五郎と薩摩側が密談した。小説的にいえば『薩長同盟』が結ばれた。薩摩側にはそんな密約の資料はない。

 慶応2年6月から、朝敵・長州軍は幕府軍と戦う。一般には長州が勝ったという。それはほんとうだろうか。
 大藩・芸州広島藩の執政・辻将曹らの仲立ちで、宮島・大願寺で、勝海舟と長州藩と休戦協定が行われた。

 大願寺の縁側に立った勝海舟が、「そんなところで、ひれ伏さないで。座敷に上がりたまえ」といっても、長州藩の広沢真臣(ひろさわ さねおみ)たちは、恐れおおくも徳川将軍の名代だから、座敷で向かい合う態度などできなかった。
 勝利者の意識ならば、そんな地べたにひれ伏す態度はとらない。長州藩はどこまでも、天皇に逆らった朝敵である。
 幕府軍とはいえ、あいては孝明天皇軍である。かれらはどこまでも「天皇から許しを得られていない賊軍・長州藩」の意識なのだ。
 
 勝海舟は「ならば、拙者が降りてゆこうと」、縁側から彼らの傍に歩み寄った。そして、慶応2年9月には、休戦協定が結ばれた。


「薩長同盟は、大願寺のあと、どうなったのか?」
 ここらは作家も学者もふれていない。「薩長同盟」を声高にいう作家は、この休戦後は「見ざる、言わざる、聞かざる」で頬かぶりである。
 1年が10年のごとく動く時代に、それはないだろう。


 この慶応2年は、徳川家茂将軍の死去、孝明天皇の死去に伴う、相続の大問題が連続して起きたのである。将軍家と天皇家の継承にともなう、新体制づくりが最大重要問題だった。本州の端っこの長州問題など、目もくれていない。

 長州藩は徳川時代が終わる(明治新政府ができる)まで、賊兵・長州の汚名を被っていたのだ。そんな天皇を敵にまわす長州藩は、260諸藩はだれも相手にしない。だとすると、残るは薩摩藩か。
 翌3年、京都で、四侯会議が行われた。長州問題は議題から外されて無視された。薩摩の島津久光などは面子丸つぶれだ。
 薩長同盟など、紙風船よりも軽いものだった。なんの役目も果たしていない。


 慶応3年9月の薩長芸軍事同盟(薩摩、長州、芸州広島)の下で、6500人の最新鋭の武装部隊が上洛する。討幕の歴史はここから動くのである。
 この3藩軍事同盟は、慶応2年1月の桂小五郎と薩摩側が密談『薩長同盟』とは、まったく無関係である。
 幕末オンチは、薩長同盟が芸州広島藩を巻き込んだとしている。それはあまりにも、広島藩を知ら無すぎる。

 当時は家柄がいかに重要か。広島藩主は、大御所・家斉将軍の孫・濃い血を継ぐ。その認識がないと歴史音痴になる。
 浅野家は格式が高い。秀吉の妻・ネネ(北政所、高台院)は浅野家から出てている。徳川家康も一目置く存在だった。
 浅野家は紀州和歌山から広島に転封したが、その紀州には徳川家が入るくらいだ。
 広島藩は42万石とはいえ、秀吉時代から、別格なのだ。江戸城桜田門の目のまえ、一等地、いまの警視庁から霞が関の一帯が「広島藩江戸藩邸」だ。
 ※井伊大老が暗殺されたのは、桜田門外、つまり広島藩江戸藩邸の目のまえだった。

 広島藩主が倒幕の決意した。そこから倒幕の歴史が動きはじめる。そして、薩摩と長州をのみこんでいった。
 なぜ、そう言いきれるのか。芸州広島藩の浅野家『芸藩誌(げいはんし)』には、それが克明に書かれている。
 芸藩誌は明治42年に完成し、明治政府があわてて即座に封印した。(昭和53年に300部が発行された)

 なぜ封印したのか。薩長の下級藩士が御一新の天下を取り、「薩長倒幕」だと教科書まで教え込んでいるのに、広島藩主導だと実態が知れて、歴史が大逆転するからだ。

 ことしは大政奉還150年、らいねんは明治維新150年である。これを機会に、歴史は洗い直されるだろう。

「本州と九州の端っこの2藩が、巨大な徳川幕府を討幕した、これは長く疑問でした」
 この素直な疑問に応えてくれるのが、芸州広島藩の浅野家『芸藩誌』である。芸藩誌の研究者が、少しずつ出はじめた。また、その問い合わせも漸増している。

 芸藩誌が世に広まれば、「薩長倒幕」という言葉が、ごく自然に歴史書から消えていくだろう。そして、司馬遼太郎史観がまかり通り、小説を歴史と信じた、滑稽な世代だったと嘲笑われる日がくるだろう。

 くり返すが、薩摩と長州の2藩が倒幕など、どう逆立ちしても討幕はムリだ。ヒーロー・英雄づくりとはいえ、作り過ぎも良いところだ。

 鎌倉幕府の成立年月日が違っていたように。いまや、歴史の修正は急激な変化となっている。
 

【近代史革命】 長州戦争は、孝明天皇・官軍と毛利家・賊軍の戦い=だれが歴史をわい曲したか

 備中松山城に行ってみた。(現存する山城では一番標高が高い)。幕末の藩主は、板倉勝静(いたくらかつきよ)である。穏健派の老中首座だった。
 孝明天皇が攘夷(じょうい)思想で、高飛車に、次々と幕府に難題を吹きかけてきた。幕府と立場が逆転し、朝廷が優位に立ち、「長州を征伐(せいばつ)せよ」といわれる。

 争いが嫌いで理知的な板倉は、内心は戦争など嫌だったはずだ。強引な天皇に逆らえないほど、幕府には権威と権力はなかったし、苦悶していたことだろう、と推察できた。


 備中松山藩は、山田方谷(やまだ ほうこく)という幕末でも超一級の素晴らしい人材をもっていた。方谷は民と藩士の両面の生活を想いながら、藩の赤字を立てなおす。双方から感謝され、いまだに備中聖人とされている。

 板倉は、方谷の理財改革の理論、熱意、努力、バランス感覚の良さを知っていた。藩の内政に専念させた。

 方谷を片腕においた板倉は、ひとを見る目は確かだ。幕末の慶応に入ると飢饉などで、諸藩が赤字財政に苦しんでいる。板倉は、長州と戦っても、諸藩は疲弊するだけで、得るものがない。どの藩も財政がくるしい。
 武士は経済的な理由(お金がない)が言いにくい。第二次長州征討に大儀がない、と出兵を辞退しても、けっして処罰の対象にしなかった。それが板倉の人間性だろう。
 歴史家は、幕府に非戦をいう大久保利通をヒーロー扱いしているが、板倉勝静の姿勢が立派だったのだ。認識ちがいもいいところだ。

 ちなみに、板倉勝静は松平定信の実孫(母方)である。白河藩主だった定信は天明・天保の大飢饉のとき、ひとりも餓死者を出さなかった名君である。


 長州戦争とは何か。『長州・毛利家と孝明天皇軍の戦い』である。

 禁門の変が起きて、長州・毛利家が朝敵になった。いつの世も、朝廷は軍隊を持っていない。孝明天皇が、江戸から家茂将軍を京都に呼び寄せ、征夷大将軍として長州を討て、征伐せよ、と勅命したものだ。
 

 それを受けた家茂将軍は、天皇の軍隊として出動した。
 第一次長州征伐は、15万人を動員し、長州を取り囲んだ。「血は流したくない」と和睦の道を選んだ。

 もう一つの理由は、戦争は金がかかるし、徳川家は金山・銀山も掘りつくし、財政が悪化していた。過激派攘夷が外国人を殺すたびに、膨大な損害賠償が要求された。それらを支払ってきた。

 たとえば、薩英戦争でも、イギリスに膨大な賠償金を払った。長州が起こした下関戦争でも、膨大な要求がなされた。
 徳川家の金庫はもはや底をついていた。戦争は金がかかる。だから、戦わずして解決した。


 第二次長州征伐を視野に入れる孝明天皇は、ふたたび家茂将軍を京都に呼びだした。家茂は京都に来て、江戸にも帰させてもらえず、皇軍の大本営になる大阪城にくぎ付けにされてしまったのだ。江戸の幕閣などは、将軍が天皇の人質になったと怒っていた。

 このころ兵庫問題とか、横浜閉港問題とかで、天皇から家茂将軍は強烈なバッシングをうけていた。天皇は幕閣の人事まで首を突っ込んだ。
 兵庫開港問題では、天皇や公卿は複数の老中をクビにしたうえ、それら譜代大名にたいして切腹までも命じてくる。(謹慎処分に済ませた)。権限をはるかに越えている。


 徳川家茂将軍は思うにまかせず、天皇の強引さから、(大名に切腹など言えない)と泣きだす。果たして、こんな朝廷など相手にするのが嫌になり、尾張徳川家の殿様を呼び寄せ、将軍の辞表を天皇に出してくれ、と言い、大坂から江戸に帰りはじめた。

 京都にいた一ツ橋慶喜が驚いて、あわてて馬で駆けつけ、そして帰路の家茂将軍の駕籠(かご)を引きとめたのだ。
 家茂にすれば、和宮には会えず、永久の別れをさせられてしまった。


 徳川家茂将軍に辞表を出されて困ったのは、孝明天皇も同じだった。
 当時はもはや幕府よりも、朝廷の立場が有利になっていた。といえども、長州征伐を命じた征夷大将軍から辞表まで出されると、立つ瀬がない。孝明天皇は、安政の通商条約(日米通商条約など5か国)の勅許は認める、とみずから折れたのだ。


 幕府は慶応2(1866)年、幕府は、戦争を回避し、毛利家を10万石に減俸して東北に転封する案で収拾を図った。
 そして、広島藩などを通じて長州にそれを言いわたす。
 しかし、長州藩のトップは病気を理由に、大坂城に出てこない。片や、孝明天皇は長州征伐について再度、勅許を出した。どこまでも、長州はゼッタイに許さない態度だった。


 老中首座・板倉勝静(いたくらかつきよ)は、大儀がないと出兵を渋る薩摩や芸州や宇和島など次ぎつぎと非戦願いが提出されても、無理を押し通さなかった。なにしろ徳川家の戦争ではない。天皇の名代という皇軍の長州征伐だ、という認識だった。まして、家茂将軍自体がやりたくない戦争だから。
 決して、幕府と長州の戦争ではなかったのだ。


 この長州征伐で、最大の被害者は庶民である。大坂と京都に軍隊の人口が急増し、物不足から、物価が暴騰した。打ちこわしとか、ええじゃないか運動が広範囲に広がった。庶民はどん底まで塗炭(疲弊)の苦しみを味わったのだ。


 この段階で、毛利の世子か、支藩の藩主か、岩国の吉川などが病気(仮病)を理由にせず、だれか一人でも大坂城にきて、幕府を介し、最終処分を京都の孝明天皇にあおげば、戦争回避はできたのだ。


 長州第2奇兵隊が同年4月に倉敷代官所を襲った。先制攻撃を受けたことから、江戸の幕閣が怒り、長州を包囲する皇軍が戦争に突入した。
 大坂城の家茂将軍が心労で急死した。一か月は発表を伏せていた。

 慶喜が勝海舟に、征夷大将軍が不在だ、これ以上は天皇軍として戦えない、「長州と休戦協定を結んで来い」と指図した。
 勝は宮島(広島県)の大願寺で、長州の幹部と休戦を取り決めてきた。


 慶喜は、徳川本家の相続だけを受けた。
 しかし、征夷大将軍は受けなかった。そして、孝明天皇に、「征夷大将軍がいないし、長州征伐はできません」と申請したのだ。
 
 この段階でも、孝明天皇が、「長州征伐の休戦はまかりならぬ」と勅許の履行を迫った。これは歴史的事実である。
 それほどまでに天皇は、長州・毛利家への征伐に執念を燃やしていたのだ。しかし、慶喜は拒否を貫いた。


 当事者の毛利家は、天皇の恨みが解(と)けていないと認知していた。だから、宮島の休戦協定の後から、皇軍(官軍)を敵にまわした反撃などできない。現状の凍結で軍事活動はやらなかった。

 同年12月に、孝明天皇がご崩御され、明治天皇が引き継いだ。このときも、長州は天皇の敵のままだった。いつか第三次征伐をやらねばならぬ。この長州問題は最後の最後まで、尾をひいてしまったのだ。
 慶応3年の小御所会議の王政復古で、明治新政府ができて、朝敵が解除された。

 
 明治時代になり、薩長閥が幕末史の編纂(へんさん)に取り組んできた。明治天皇のもとで、『長州が皇軍(官軍)に打ち勝った』では不都合だから、長州戦争はあえて幕府軍だとすり替えている。
 2年後の戊辰戦争では、天皇軍(官軍)の表記をとっている。ここが学者や歴史作家たちの問題点だ。

 井上馨や山縣有朋などは、はやく幕末史を作れ、とはっぱをかけまくっていた。 
 かれらは生きているうちに、自分の目で確認したかったのである。『防長回天史』などは編纂(へんさん)委員長を取り換えても、都合よく、早く、世に出させたかったのだ。同時に、文部省『幕末史』(完成は昭和初期)もできあがってきた。

 その後は、教科書のみならず、各町村史、県史などの幕末編に、それらが織り込まれた。

 最近の歴史関係書は、長州征伐から、長州征討、四境戦争、とよりあいまいに表現を変えてきている。その実、学者は本質を解っているのだ。第一次も、第二次も、とりもなおさず孝明天皇の討伐勅許が出されたもの、幕府はその名代だった、と。

 歴史には公平感がとても重要である。

 戊辰戦争では、錦の御旗(官軍)と賊軍の会津との戦いとする。ならば、当然ながら、長州戦争では『賊軍長州と官軍幕府』として取り扱わなれければ、辻褄(つじつま)が合わない。
 同時代だけに、歴史的な公平感が欠けている。

 戊辰戦争のスタートで偽の勅許・偽の錦の旗の下、新政府軍を官軍とし、慶喜・会津を賊軍として位置づけた。その後において、明治新政府は正式に勅許を取ったと、ありのままに明記するべきだろう。

 150年も経てば、井上馨や山縣有朋、大久保利通や西郷隆盛たちに、もはや薩長に遠慮することはなかろう。虚偽の歴史表現から真実の姿にもどそう。

 

 第二次長州戦争で、勝ち負けを言うならば、『賊軍の長州が、皇軍の幕府軍に打ち勝った』とするのが公平である。
 実際は、決着など何一つついていないけれども。薩長閥の政治家の顔色を見て、明治の御用学者たちが、薩長を英雄的に扱い、歴史的事実を折り曲げただけである。それがいまだに踏襲されているのだ。


 備中松山城に行き、元藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)、山田 方谷(やまだ ほうこく)の資料に接し、信条・信念を想像するほどに、かれらは長州戦争を望んでいなかったと、より明確に思えた。

 方谷は戊辰戦争で新政府軍が攻めてきたとき、老中首座の備中松山城を無血開城させた。それは江戸城よりも早い開城だった。

 ちなみに、山田方谷は理財論、経済論および実行力が優れている。.上場会社の社長たちの人気度第1位である。
 

広島藩が『倒幕の密勅』は偽物だと暴露した=浅野家・芸藩誌

 教科書で教えてきた『薩長倒幕」は、史実とちがう。いまさら否定されても困る。それが、学者や作家の偽らず心境だろう。なにしろ、明治政府が、義務教育制度を確立した時から、百数十年間も教えつづけてきたのだから。しかし、いずれ、この『薩長倒幕』という用語も教科書から消える日があるだろう。

 ことしは大政奉還150年である。明治政府が隠ぺいしてきた、広島藩・浅野家の『芸藩誌(げいはんし)』が注目を浴びている。とくに、『倒幕の密勅(みっちょく)』が、天皇の詔書の形態をとっていない、と前々から偽物説は流れていた。
 それを如実に暴露したのが芸藩誌だった。だから、芸藩誌が明治政府によって封印されてしまった。世の中に出たのが、昭和53(1978)年で、わずか300部であった。
 広島市内でも、おおかた5、6カ所程度しか所有していないと思う。大学や研究機関の学者の目に触れることも少ない。
 と言っても、存在しているからには、歴史は真実を求めて動くし、漸次、芸藩誌の関心が高まり、メディアやネットに載りはじめてきた。やがて、火がつくと、一気に幕末史の塗り替えになるだろう。

「芸藩誌」の編さんの経緯は、ほとんど知られていない。当時の明治政府も宮内庁も、広島・浅野家から、こんな家史の編さんが出てくるとは、予想すらしていなかっただろう。

【経緯として】

 明治新政府は、大政奉還から戊辰戦争終了後まで、勝利した王政復古を高々に謳(うた)うために、維新史という編集がはじまった。それは大名家が権力を失った廃藩置県の1872年からのスタートだった。新政府は各大名家にも史料の提出をもとめた。
 薩摩と長州は資金力があり、すでに家史(かし)の編さんをはじめていたし、功名心もあるから、積極的である。
 
 しかし、廃藩置県で武士階級が破壊した直後である。妻や娘を質に入れても、生活もままならないのに、過去の史料を新政府に提出しろ、と命じられても、素直に応じる元大名家など皆無に等しい。
 そのうえ、大名家の主(元藩主)は東京に集められている。家臣の武士は6年分の給料を国債で渡されて解雇されている。
 無給で、過ぎ去った事蹟(じせき)を編さんしろ、と言われても、応じられるわけがない。

 結局、維新史は17年間もかかり、明治22(1889)年に、薩長には都合の良い「薩長倒幕」という維新史ができあがったのである。
 翌年、明治23年から義務教育制度がスタートした。「薩長倒幕」という用語の維新史が、そのまま教科書に落とし込まれたのだ。

 三谷博「明治維新の史学史」によると、明治憲法に基づく帝国議会の開会(明治23年)は、元大名家など政治的勢力の再編のまたとない機会となった。
 維新の敗者たちも議会に進出し、新たな政治参入できる。となると、元大名家は、歴史の書き直しで、明治国家の内部に、自らの地位を確保しようと、家史編さんブームの活況を呈してきた。

 宮内庁はこれを背景にして「維新史」の編さんをめざした。補助金を出して薩摩、長州、土佐、水戸の4家に3年間で、家史を編さんし、提出するように命じた。尊王攘夷運動に関わった大名家と、皇室との関係を強調しようと試みたのだ。

 孝明天皇の誕生から廃藩置県まで(1831-1871年)の資料収集を図った。さかのぼり過ぎたのだ。
 4家だけでなく、公卿の三条、岩倉、中山の3家が必要不可欠となった。共同して4家+3公卿だけでも、資料不足である。
 孝明天皇と親しかった徳川将軍家、会津家、桑名家も加えた。王政復古のときには敵であったが、外せなかったのだ。
 となると、味方となった尾張家と浅野家も必要となり、それぞれに史料の編纂と提出を命じたのだ。(上記は三谷氏資料・引用)

 編さんを命じられた元広島藩主の浅野家は、最後の大名・浅野長勲(ながこと)が健在だった。長勲は大政奉還にも、小御所会議の王政復古にも、中心的役割を果たした人物である。政治の裏舞台を知り尽くす、生き証人だった。

 編集トップには川合三十郎と橋本素助(もとすけ)が選ばれた。元学問所のエリートで、長勲と辻将曹(つじ・しょうそう)の下で、政治活動も展開している。

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれた。それに基づき、御手洗(広島県・大崎下島)から3藩進発で、6500人の兵と最新武器を京都に挙げてきた。川合と橋本らは立案から実行まで、一部始終、それに関わっている当事者なのだ。

 ややさかのぼること、薩長芸軍事同盟が締結された直後、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は、薩摩藩内において島津久光たち公武合体の考えが支配的であり、倒幕の兵をあげにくいと苦慮していた。『天皇の命令ならば、藩内統一ができる』。そこで『偽の密勅』でも良いから、それを薩摩に持ち帰りたい。長州藩も倒幕で藩内統一できているが、うちも書いて貰おう。
 薩長芸の3藩は、そんな内情を話し合い、実行に移したのだ。

 小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は大坂から、広島藩の船に乗船し、その偽密勅を鹿児島に持ち帰った。翌月(慶応3年11月下旬)、薩摩藩が3000人、長州藩が1200人(+約1000人は尾道待機)、そして広島藩と3藩の船が御手洗港に集合してくるのだ。朝敵である長州藩の船には、広島藩と薩摩藩の旗を掲げさせた。

 それらを取り仕切ったのが広島藩の川合と橋本たちだから、『偽の密勅』は事細かく知り尽くしていた。

『毛利家の復官(朝敵を解く)入京の内勅書は、玉松操が起草し、岩倉具綱(ともつな・岩倉具視の養子)が一時の方便として、これを薩摩の大久保と長州の広沢に交付した。中山卿のごときは、この存在すら知らされていなかった。故に、表面上はそれを用いることはなかった』(藝藩志第八十巻)

 三条実愛は、岩倉具視、中御門経之(なかみかどつねゆき)・中山忠能(ただのり)の4人しか知らないし、当事者の薩長は語らない、と信じて疑わなかった。芸藩誌が編纂されるまで、まさか広島藩がこと細かく『倒幕の密勅』を認知しているとは知らなかったのだ。

 芸藩誌には、もう一つ大きな記載が秘められていた。

 慶応3年9月の段階では、長州処分が解決していなかった。『幕府はいまだに、朝敵の毛利敬親・父子を拘引(後手に縛って)江戸に連れて来いと言っている。ならば、長州の家老をダシにして、6500人の兵をあげよう』と辻将曹と小松帯刀が奇策を話し合っているのだ。
 
 徳川幕府は、第二次長州征討で、敗戦などみじんも認めていない。長州が勝利した、とは四候会議でも、各大名は認識していない。

 大政奉還でも、王政復古の新政府の要人メンバーにも、長州藩はひとりも加わっていない。歴史的事実である。

 西郷隆盛が仕掛けた鳥羽伏見の戦いでは、6500人の兵のうち、長州藩兵が加わり、広島藩は「薩摩と会津の私恨だ」として加わらず、そのぶん土佐藩と鳥取藩が入った。
 ここで、初めて長州藩が顕在化してくるのだ。

 明治10年には西郷が西南戦争で落ちて、翌年に大久保が暗殺された。以降は、長州閥の天下となった。維新史の上に、堂々と乗っかってきた。
 明治40年代に、芸藩誌の「倒幕のダシ」を目にした長州閥の政治家は、どんな気持ちに陥っただろう。むろん即時、発禁処分。片や、大正時代に遅ればせながら、編さん委員を差し替えてまでも、完成させた防長回天史は太鼓をたたいて世に送りだす。

 かれらの先祖である毛利元就は安芸の国・広島から出ている。徳川時代に芸州広島に転封してきた浅野家は、長州戦争では盾になってくれたが、憎き存在だったかもしれない。

 芸藩誌は永遠に封印したつもりだろう。
 それから約100年後、300部が刷られて世に出てきたのだ。

【近代史革命】幕末には『大統領制を導入せよ』と主張した優秀な勘定奉行がいた(下)

 明治時代は、武士社会が解体された。

 政府は、失業問題の処理に失敗し、長州奇兵隊の虐殺、萩の乱、佐賀の乱、西南戦争と各地で内乱が発生する。
 明治10年まで、日本人同志が殺し合う社会となった。その前後から、台湾、朝鮮、中国、満州、と侵略軍事主義に代わっていく。かたや、徴兵制が徹底された。戦争の時代に入る。民の目線の政治から遠ざかるばかりである。
 
 宗教面ではキリスト教弾圧が、江戸時代よりも目にあまる虐殺となった。農民一揆も、徳川時代よりも多くなった。

 徳川時代は245年間の政権を支える有能な人材(昌平黌出身者)が多かった。秀才の外交官がいる。洋学(英・仏・オランダ語)も堪能だから、丁々発止と外交交渉はできた。
 ところが、明治政府は、通商条約の改定に40年間もかかっている。無能さらけ出している。太平洋戦争の終焉まで、77年間しか維持できなかった。
 どちらから学ぶべきものが多いのか。ここらはいちど熟慮してみる必要がある。

 能力の低い政治家は、まずなにを考えるか、「自分たちの存在を大きく見せる。過去を大きく見せる」、「都合が良い実績は誇大して残す。不都合を消す」と、国民の目をそらせていく。あるいはねつ造を信じ込ませる。

 現代でも、極度にコンプレックスが強い人は、自分を大きく見せたがる。きらびやかに衣服を着飾り、収入以上の高級車に乗り、高級マンションにすむ。これに類似している。


 薩長閥、長州閥の政治家は、御用学者に過去の自慢話をでっち上げてもらう。それを義務教育のなかで浸透させる。
 たとえば、偽詔書(にせ・しょうしょ)『薩長倒幕』という言葉をねつ造させる。薩長の勇ましさを信じて疑わいない軍国少年が生まれる。
 やがて、成人になれば、軍事侵略思想、徴兵制による国家総動員は善だと思う。祭政一致による国家のために死ぬのは美学だと信じ込む。
 御用学者が太鼓をたたきまくり、悲しいかな太平洋戦争へと突入していった。

 御用学者がつくった標語、『徳川は封建制で、明治から近代化』、こんなのは大ウソである。

 徳川家は、鎖国政策を捨てて、開国で海外貿易による近代化を推し進めた。さらに、大名支配を止めて郡県制(現代の都道府県)をめざしていた。そのうえ、大統領制へと声高に叫びはじめた有能なエリート官僚がいた。
 松平春嶽などは、大名制度がなくなれば、わが身が危ない。その官僚の実行力は抜群だし、春嶽は怯えたと記録されている。


 貿易拡大と外資導入は国を豊かにする。天皇は徳川(家康)に政権を任せている。それなのに京都から、幕閣の政治に口出ししてくる。
「天皇が勅許した阿部正弘の和親条約までさかのぼって、条約を破棄しろ、という。国際信義にも劣る。一ツ橋慶喜をたたきつけて、横浜港を閉港させると、外国奉行を使節団にしてフランスに送り込ませる」
 そんな天皇は承久の乱のように島流しにしろ。そして、わが国に大統領制を導入せよ、と主張した勘定奉行がいた。

 明治の御用学者は、こんな理論が徳川家で渦巻いたとは教えてくれない。自称歴史通の方は、それがだれだか、と歴史を訪ね歩けば、「えっ、徳川家は尊王でなく、大統領制だったの」とおどろくだろう。「徳川は無能だ」と決め込んだ薩長史観の一面からみる歴史の怖さを知るだろう。

 ヒントは、幕末にもっとも近代化を推し進めた勘定奉行である。江戸時代にワシントンで現職大統領にも会っている数少ない日本人だ。国務大臣と日米の通貨交換比率が不公平だと、小判、銀貨幣を持ち込み、化学分析で実証して見せて、アメリカ人を驚かせたと、ニューヨークタイムスに載っている。

 鳥羽伏見の戦いのあと、慶喜が大坂城から江戸に逃げ帰ってきたとき、「それでも将軍か」、「徳川家をつぶすつもりか」と胸ぐらをつかんだ人物である。

 徳川家がみずから封建制を脱却し、現代とおなじ資本主義社会へと1歩も、2歩も、踏み出していた事実がかるだろう。
 近代化は徳川家からである。明治の政治家は、その物まねからスタートした。
                              
                                  【了】
                           

【近代史革命】幕末に、『大統領制を導入せよ』と主張した優秀な勘定奉行がいた(上) 

 来年で、明治維新から150年である。このところ、幕末史にたいする関心度が高まっている。拙著の『二十歳の炎』(芸州広島藩を知らずして、幕末史を語るなかれ)は、出版から約3年が経つ。いまや5刷りとなった。
 ことしは大政奉還150年であり、そのこともあって講演、講座の依頼が舞い込んでいる。なぜか。独特の穂高史観があるからだろう。

                    *

 現代の幕末史は、明治時代の御用学者が編成したものだ。昭和初期の軍国時代に、為政者に都合よく修正されながら完結した。
 そして、日中戦争、太平洋戦争の精神的な基礎教育と結びついた。

 現代でも、それを受け継ぐ学者はあきれるほど多い。だから、一般人の歴史通の大半が、それを正しいと信じ、
『ペリー提督が来航し、列強に蹂躙されて、わが国は開国した』
『第二次長州征討は長州が勝った』
『薩長倒幕』
『幕末・明治には日本が植民地になる怖れがあった』
『尊王攘夷は正しい
 それら御用学者がねつ造した用語をうのみにしている。

 自称歴史通の一般人は、大学教授や研究者の権威に、盲目的に信じ込んでいる面がある。
 歴史は疑問を持ちながら読まないと、巧妙なもっともらしい学者の論理や、歴史作家のねつ造の罠(わな)に陥ってしまう。


 一方で、確実に、幕末史が見直されている。歴史事実と違う。武勲・英雄史観が軍事国家に利用されてきたと、しだいに問題視されている。
 幕末の勝者の美化からの脱却である。
 


 明治時代の当初は、薩摩、長州、土佐、肥前、津和野が中核になった。それぞれが藩閥をつくっていた。
 祭政一致、キリスト教弾圧、廃仏毀釈、貨幣改革(両から円)、廃藩置県、地租改正、資本主義、外貨導入、徴兵制、軍国主義……。

 これらあらゆる革命要素が、明治に入ると、渾然いったいの怒涛(どとう)となって、政治家たちに押しかかった。

 そのときの、政治家の能力はどうだったのか。

 戊辰戦争に勝利した地方の下級武士が、いきなり中央政治のトップの座についた。政治意欲があっても、どんなに頑張っても、優れた語学力、政治理念、経済の基礎理論がなければ、資本主義社会などは円滑にまわらない。

 農兵で攘夷を振りかざし、進歩派・開明派・外国人を斬りまくっていた連中が、その功績だけで、中央官庁の官僚キャリアーとなっても、高度な財政・金融・外交の実務など満足に推進できない。   

               【つづく】

【近代史革命】  西洋の自由主義は、日本の浮世絵が輸出した

 日本人はとかく被害者意識が強い。幕末は、欧米列強に蹂躙(じゅうりん)されて開国した、という見方で、歴史をとらえてきた。
 しかし、視点をヨーロッパにおいた場合、かれらは鎖国が解けた日本の開国から、大きな自由主義を学び取ったのである。それはとてつもない人類の財産になっている。


 西洋人は古来つねにキリスト教の神々に拘束されてきた。一神教である。他の宗教は認めていない。ヨーロッパの戦争といえば、その大半が宗教戦争である。かれらは政治、経済活動のみならず、文化面においても、キリスト教の枠内でしか、行動できなかったのである。



 画家が絵のなかに婦人を描く場合においても、キリストとか、聖書とか、十字架とか、マリアとか、最後の晩餐とか、その範囲内でしか画けなかった。

 かれら画家には自由奔放に表現する活動が許されなかった。つまり、キリスト教の範囲内しか、文化活動ができず、宗教の鎖で縛られていたのである。

 日本の浮世絵は写実的だし、風景画、美人画、役者絵など、宗教的な拘束は皆無である。江戸時代の信仰が仏教、儒教が主体だった。
 浮世絵がそれに縛られる、という制約はみじんもなかった。

 まして、春画などは、嫁入りの女性に、寝床に入ったら、こんなふうに夫に身を任せるのよ、と親代わりの性教育の助勢であった。
 人間の本能の男女のいとなみを赤裸々に描ききっている。男女の性器までもリアルである。


 開国した安政通商条約で、日本から物品が海外に輸出された。お茶、生糸など諸々の商品が箱詰めされたうえで、横浜、長崎、凾館の港から、欧米に送りだされた。


 ヨーロッパ人は、あっとおどろめいた。「世界のなかに、こんなに自由に絵が描ける国家があったのか」
 パリの画家たちは競って、浮世絵をまねた。単なる筆のタッチだけではない。日本の浮世絵から自由を学んだ。
「よし、自分たちも裸婦を描いてみよう」
 売春婦のヌードでもかける。(写真・ネットより)。
 当初は、キリスト教の冒涜だと、社会から大反発、大反論があった。


 しかし、画家たちの自由主義が一大旋風となり、止めどもなく文化、文学、科学へと一気に広がった。思想的のなかにも、政治、経済のなかにも、自由主義が取り入れられた。
 欧米のあらゆる面の自由主義は、日本から発信されたものだった。

 欧米は大量のお茶を輸入する。茶箱に浮世絵技術の絵が描かれている。包み紙代わりに、浮世絵の刷り絵が無造作に入っている。開国で、日本のお茶の味が好まれたと教えているけれど、その実、茶箱と包み紙の魅力にあったのだ。

 
 当時の日本人にすれば、浮世絵は、現代の週刊誌を買うくらいの感覚だ。歌舞伎役者が見飽きたら、新しい人気役者の浮世絵を買う。
 旅もの富士山の絵をみて、富士信仰につかう。地域の情報収集に役立つ、庶民文化、そのものである。
 
 日本の幕末史においては、日米通商条約を悪者扱いしている。それは尊王攘夷派の活動をいまでも正当化させるためのものだ。
 尊王はよいが、攘夷は最悪だ。日本は神の国だ、聖地を踏ませるな。白い肌を見れば、斬れよ、という思想だった。
 
 こんな攘夷思想を美化する視点は、もうやめたほうが良い。

 徳川政権をあえて見下し、明治政権を優位にみせる。これら薩長閥たちの捻じ曲げた史観が怪しいぞと、このところ文献、報道に多くみられるようになってきた。


 日本の宗教は古来、なにを拝んでもよく、神仏混合だった。キリスト教のような鉄の鎖、生死の重圧、殉教(じゅんきょう)というものはない。
 全国の神社仏閣は宗派を問わず、いろいろな神を祀っている。あるいは同居している。

 古くは畏敬(いけい)の対象が太陽、月、川などの自然崇拝だった。まさに火の神、水の神である。
 やがて、神々のなかに人物が出てくる。天照大神、義経神社、村の顕彰者、だれを祀っても、参拝者にたいして強制ではない。だれを祈っても、自由である。
 ところが、明治政府になると、一神教の強制になった。まずはキリスト教への弾圧で、長崎のキリスト教信者たちが津和野藩をはじめとして、10万石以上の大名家に送りこまれ、多くの殉教者(死者)を出した。(踏絵は、老中首座・阿部正弘が止めさせていた)。
 さらには、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、お寺を壊し、仏像を壊し、日本古来の自由信仰を殺した。日本人ならば、神教に統一しろ、と強要した。


 日本の歴史で、宗教の暗黒時代が明治時代からはじまり昭和20(1945)年の終戦までつづいた。この77年間にはまちがいなく信仰の自由が抑制された。国家神道になった。


「昭和天皇の人間宣言」で、日本人は本来の自由主義に立ちもどれた。あるいみで、よくぞ、天皇は自由主義を取り戻させてくれたものだ、といえる。

 一般に譬(たと)えられるのが、クリスマス(キリスト教)、大みそかの除夜の鐘(仏教)、元旦には神社の初詣。むろん、山の上や海辺で「初日の出」を拝んでもよい。「明治神宮」でも、「浅草寺」でも、どこへ行っても自由である。
 初詣に伊勢神宮に参って、古代の神々を仰ぎ祀らなくてもよい。合格祈願だけでも良いのだ。参拝者がなにを拝んでもよい、という日本独自の宗教、文化がある。


 東京は桜がそろそろ満開になってきた。靖国神社の境内で、花見を楽しむひとが、大村益次郎の銅像など、このひとだあれ? と気にかけなくてもよい。だれを祀っているのか、知らずして、「家内安全」、「五穀豊穣」、「合格祈願」とだけでも良いのだ。

 
 教科書においても、現在やっと歴史の真実に近づこう、本当の歴史を教えようという機運になってきた。鎌倉幕府の年代がちがう。聖徳太子の名前がちがう、鎖国はなかった……、賛否両論はありながらも、しだいに薩長閥が曲げた歴史教科書からの脱皮がはじまってきた。


 安政の五か国通商条約は、世界史からみれば、世界に自由主義を輸出した価値あるものだ。欧米は宗教の拘束や蹂躙から解放された。現代において、あらゆる分野に自由主義が活用されている。

『ヨーロッパの自由主義は、日本独自の浮世絵から学んだものだ』

 明治政府の視点から、「江戸時代の開国は不平等条約だ」とばかり教えないで、この通商は世界の歴史を変えたのだと、小中学校教育で教えるべきときにきた。


 広く国民がこの歴史認識に立てば、外国から靖国問題があれこれ言われても、毅然とした態度がとれる。靖国神社に参拝した政治家が、翌週はミサにいっても、その次は菩提寺に行っても、日本人はだれも文句など言わないだろう。
 信仰の自由は、世界に勝ったものだ。


 戦後の日本人はいちども戦争などしていない。もう銃を撃った戦争体験者は皆無ともいえる。それは世界でも数少ない民族・国家である。戦後70年はまだまだ、徳川政権は260年間、海外と戦争をしなかった。そんな歴史をもった国家だ。

 靖国神社の境内にいって花見だけでも良いではないか。本殿を拝んでも、拝まなくても、桜を愛(め)でれば、それはそれでよい。旧陸海空軍の紋章だった。靖国神社で、そんなことを考えながら、観るひとはいないだろう。

 先祖は侵略加害者だったにしろ、戦場を知らない私たちは、外国から、せめて宗教問題はあれこれ言われたくない。耳ざわりだ。このままでは、政党など問わず同世代の政治家たちが、素朴な気持ちで、千鳥ヶ淵から靖国神社の花見にも行けない。
 はやくに歴史教科書で、日本は浮世絵を媒体にした、世界に誇れる自由主義の発信国だと教えよう。そうすれば、諸外国が苦言する教科書問題などは、早期に解決するだろう。


 桜は日本の国花である。桜を愛(め)でる。古来の信仰である。他国にほとんど例をみない、宗教の自由主義が桜じたいにあるのだ。

龍馬の手紙発見で、広島藩・御手洗の4藩秘密の盟約が確定された

 きょう(2017年1月10日)、朝日新聞、NHKニュースなど、あらゆるメディアが、「龍馬の手紙が見つかった」とトップで報じた。暗殺5日前に、龍馬が中根雪江(なかね ゆきえ)に手紙を出していた、という。

 慶応3年11月10日である。

 私は「学者って、いい加減だな」と腹立たしくなった。

 これまで、この手紙の存在は長く知られており、慶応3年11月5日に、福井の中根雪江(あるいは松平春嶽)宛てに出された、と言われてきたものだ。

  左:由利公正  右:坂本龍馬
【NHKテレビより】

 慶応3年は、幕末史で最大の年である。片や、大政奉還(10月14日)から、王政復古(12/9)まで、歴史の空白だった。この間に、三つの事実がある。


① 坂本龍馬が11月15日に暗殺された。

② 「新政府綱領八策」という、明治政府の基本政策となる八か条が作られた。「慶応丁卯十一月 坂本直柔」と本名が入ったものが、二通は現存する。
 11/1~11/15の半月間に作成されたもの。

③ 11月下旬には、御手洗港(広島県・大崎下島)に、薩長芸の最新鋭の軍隊約6500人が集まり、京都へと挙兵した。
 約1か月後に、鳥羽伏見の戦いを起こす。

 ①~③は、いずれも坂本龍馬で連結されている。


  薩長芸の6500人もの大規模な兵が挙兵する。この事前の密議はどこで行われたのか。明治時代以降も、あまりにも謎すぎで、歴史学者や大物歴史作家はふれてこなかった。

 その資料が広島藩側にあった。『御手洗条約』、『3藩進発』と呼ばれている。もうひとつ、新谷道太郎が、60年後に証言した『四藩軍事同盟』だった。


 新谷道太郎著『維新志士』(口実筆記)によると、慶応3年11月3日~7日、御手洗・大長の新谷家(寺)で、『四藩軍事同盟』がむすばれたと記す。参加したのは、

 広島藩は、池田徳太郎、船越洋之助、加藤種之助、高橋大義、

 薩摩藩は、大久保利通、大山格之助、山田市之丞

 長州藩は、桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介、

 土佐藩は、坂本龍馬、後藤象二郎
 

 なぜ、これだけの大物が参加する必要があるのか。6500人の出兵の打ち合わせだけではない。大政奉還後の新政府の政権づくりである。組閣である。

 新しい国家トップをだれに決めるか。「新政府綱領」の八策は決まったが、重大な人事構想のトップは決まらず、「○○○自ら盟主と為り此を以て朝廷に奉り始て天下萬民に公布云云」とした。
 この代表署名は、坂本龍馬の実名・直筆である。(国立国会図書館、長府博物館)


 なぜ、重大な会合が御手洗だったのか。長州は大政奉還後も、まだ朝敵だから、京都では会合ができない。新政府のトップが絡む重大会議ゆえに、朝敵だからと言い、不参加ともいかない。


 桂準一郎(桂小五郎、木戸孝允)は、岩国から芸州広島藩・豊安号で、11月1日に広島に赴いた。そして、広島城で浅野長勲と出兵関連の密談をおこなったうえで、御手洗にむかった。

 藩の世子が認めた上だし、瀬戸内の離島ならば、警戒の目など無きにひとしい。


『四藩軍事同盟』と『新政府綱領八策』は御手洗で結ばれた。

 わたしは7年まえに、雑誌連載『龍馬と瀬戸内海』および、東京新聞「2010年10月31日(こちらは特報部)で、見開き2面をつかって、それを発表した。


                      東京新聞「2010年10月31日『こちらは特報部』


 御手洗という密貿易港が、世のなかに出たことで、反響が大きかった。片や、学者からはつよい反論が出た。
坂本龍馬は10月末日に福井藩の由利公正(謹慎中)に会っていた。そして、11月5日には、福井藩の中根雪江(松平春嶽)宛ての手紙を、土佐藩・京都藩邸にとどけている。11月3日に、芸州広島藩・御手洗にいくのは無理である』 物理的に不可能だと言い、わたしにつよい批判をむけてきた。

 この11月5日が曲者だった。
 龍馬から中根雪江宛ての手紙はあるのか、と学者に問い合わせても、物証は確認できないが、伝承として確かなものはある、という。
 その上で、「新谷は90歳になってモウロクしている」と年齢のせいで切り捨てた。

 桂小五郎の御手洗参加は、「木戸孝允公逸話」からほぼ裏がとれた。


 龍馬の裏もとりたかった。実名をだして申し訳ないが、高知・坂本龍馬記念館になんどか問合せしても、「龍馬が、瀬戸内の御手洗に立ち寄った記録は確認できていません」と複数の学芸員が応えた。
「確認できていないのは、行っていないことですか」
「手紙や記録、ほかの文献からも、確認ができていません」
 
 未確認。それは龍馬=御手洗の否定なのか。それすらも不明瞭だった。


 御手洗は薩摩藩の密貿易港だった。鹿児島がわの文献にはあまり残っていない機密の島だ。しかし、同島には密貿易の資料、伝承はごろごろ転がっている。

 島津家老・小松帯刀と龍馬はふかい関係にあるから、手紙にはいっさい機密・御手洗を記さなかったのだろう。手紙が幕府の隠密に奪われる恐れがあるので、重大なことは書かない。(密使を使う)

 当時、この海域は御手洗航路と呼ばれていた。(海図でも確認できる)。御手洗には米相場もあるほどで、西日本の経済の要だった。
 龍馬自身が船乗りなのに、御手洗に立ち寄らないわけがない。


 ここは調べどころだと思い、取材したり、文献をさぐったりしていると、鳥取藩の河田左久馬が「いろは丸事件を起こした龍馬が、長崎にむかう途中で、御手洗に上陸していた。ばったり出会った」と日記に残っていると判明した。

「やっぱり、龍馬は御手洗に来ているじゃないか」
 と思ったが、同館には教える気すらならなかった。


『二十歳の炎』の執筆に入った。
 学者たちが「新谷道太郎は大ぼら吹きで、自己自慢で、60年後に語った内容は矛盾に満ちている」と聞かされた。どこまで信じるべきか。龍馬は11月5日に京都にいたと主張することばが耳にひびく。


 竹原市の小学生時代に、新谷道太郎の講演を聞いた、という人物に巡り合えた。その方は、池田徳太郎研究者だった。
「新谷さんの目は薄かったが、全体としてしゃきっとして声が大きかったですよ。壇上でマナ卵を一つのんで、この滋養がたいせつだと言った。話の内容はおぼえていませんが、年寄なのに、頭がしっかりしていた、という記憶は残っています」
 と聞かされた。

 私は「二十歳の炎」でふたたび新谷道太郎の資料を採用した。

 「二十歳の炎」は発刊してから、すでに4刷になった。

 中国新聞がことし正月特集号で、(2018年)1月3日『オピニオンで』、岩崎誠論説副主幹が「大政奉還150年と近代日本」と称した中で、「二十歳の炎」関連を大きく取り扱ってくれた。

 わたしは講演で「4藩軍事同盟」を語る。内心、龍馬が11月5日に京都で福井藩・中江雪江(松平春嶽)宛に手紙を書いていたと、学者は言うし、龍馬が御手洗に物理的に来れていなかった、それが事実だったら、小説とはいえ嫌だな、とずっと思っていた。

 こんかいメディアが一斉に、慶応3年11月10日の龍馬の手紙を映像や写真で報じた。大政奉還150年だからと、都合よく出てきたけれど、
「学者たちはその手紙の存在を知っていたのだから、もっと早くに公表してほしかったな」
 とつぶやいた。
 11月5日でなく、11月10日がどれほど、重い存在だったか……。


 龍馬の手紙の内容は、『新政府が成立した。由利公正(当時・謹慎)だが、1日も早く出仕してほしい。由利が1日遅れれば、ご会計(財政)が1日先になる』、と綴られているようだ。


 『二十歳の炎』においても、ほぼ同じ内容で、由利公正はふれている。

 新谷道太郎が、なぜ昭和になって語ったのか。慶応3年11月3日から7日まで、4藩のメンバーが御手洗の同家(実家)で会合し、軍事同盟を結んだという。そして、

「この密議は60年間黙っていよう。しゃべれば暗殺の危険が及ぶぞ」
 龍馬が全員に約束させた。

「なぜ、60年間も待つのか」
 新谷道太郎が訊いた。

「これから60年経てば、みな死んでしまう。いかに佐幕派のものでも、その子孫までが怒りを継いで殺しに来ないだろう。この参加者のなかで、60年生きたものだけが、この御手洗の4藩密議から歴史が大きく動いた、と語るとよい。そなたが一番若い、山奥に逃げて長生きしてくれ」

 道太郎は60年間、それを忠実に守り、島根の山奥に隠遁し、そして昭和11年6月に世に発表したものだ。

 龍馬は11月8日の早朝に御手洗を発ち、京都に入っている。同月10日にはこんかい発見された龍馬の手紙、そして広島藩の安保 清康(あぼ きよやす)に手紙を書いている。
 安保とは、近江屋(おうみや)で坂本龍馬・中岡慎太郎が血の海になっていた、最初の発見者である。


 11月8日早朝に御手洗で解散したメンバーは、まさに7日後に60年間黙っておれよ、と言った龍馬自身が死んだのだから、永久に口を塞いでしまった。
 だから、慶応3年の大政奉還(10月14日)~王政復古(12/9)まで、明治初年からしても、歴史の永久の空白だった。学者も、作家も、だれもが龍馬暗殺しか書けなかったのだ。


 ことしは大政奉還から150年、来年は明治維新から150年、さらには来年のNHK大河ドラマが「西郷隆盛」となると、今後とも新事実、通説をひっくり返す史実も出てくるだろう。

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(下)

 鳥羽・伏見で戦火が広がると、徳川慶喜は1月6日に、大阪城の城兵に『徹底抗戦せよ』と指図してから、松平容保や重鎮の老中とともに、江戸城に移っている。

 孫子・呉氏の兵法を知らない、後世の御用学者は「将軍が逃げ帰った」という。京都近郊で戦争が勃発して、最前線に残る将軍ならば、最低の愚将である。

 大阪城の位置づけは、寺社奉行→大阪城代→京都所司代→老中への登竜門である。そんな大阪城に留まり、将軍が捕縛されたら、どうなるのか。
 将軍は本来、最もリスクの少ない安全な場所にいるべきである。本陣の江戸城にもどり、巨視的な立場から、国内外の動きを見ながら、先々を読み、さまざまな指示する。それが知将である。


 慶喜は兵法通り、大坂城を抜け出た。おおかた、影武者も使っただろう。慶喜、松平容保、老中ら重臣は小舟で米国艦へ、そして幕府海軍の船に乗り移り、という史料もある。
 本もの慶喜と影武者の動きは超シークレットのはず。現在、一般に言われている「貧しい姿でコソコソ逃げた」という脱出方法は、後世の御用学者の根拠のない創作と見なしたほうがよいだろう。
 知将は、痕跡をまったく残さず、さっと消えるものだ。そうそう目撃者などいるはずがない。

 この面では木戸孝允(桂小五郎)は、池田屋でも戦わず、禁門の変でも乞食にふんして京都を脱出し、出石(但馬)に240日間も逃亡した。わが身を守り、出番を待っているのだ。やがて時宜(じぎ)をみて下関に帰り、ここから幕末史が最も大きくうごいた。

 慶喜は大坂城を立ち去るにあたり、榎本武揚(たけあき)には海軍の軍艦をつかって、大坂城の財宝、18万両の御用金も持ち去らしている。

『武士は城を枕にせよ。敵に軍資金は渡すな』という幕臣たちに格言を与えている。
 かれら幕臣は、1月9日の早朝、和睦(わぼく)と称して新政府軍を大坂城に招き入れる、と同時に放火し、火薬庫、武器庫を爆破炎上させているのだ。絢爛(けんらん)豪華な大坂城は、2-3日間燃えつづけて、全焼である。

 こうなると、西郷隆盛は黒焦げた大坂城に入ったけれど、取り分はゼロである。

 鳥羽伏見で銃弾を使いまくり、大阪城は丸焼けである。……このさき慶喜追討、江戸城を攻めるにも、軍費は必要だ。兵士は宿泊費・現在ならば、一泊三食で1万円だ。

 さて、西郷は今後の戦費をどう都合つけるのだ。となると、経済学に弱い愚将・西郷となってしまう。かれの古い朱子学、陽明学では解決できない。資本主義的な財政・金融論が必要だ。

 当時の明治新政府の閣僚は、大名と公卿たちで構成されている。下級藩士の西郷めが、天皇を守るための、京都御所の警備用武器を無断使用したと言い、責務を問われる。(明日がどうなるか、誰も見えない混沌とした状況下だ)。強いバッシングを受けたことだろう。ちなみに、新政府の要人から、西郷は約1か月間ほど干されている。

「こんど江戸城は焼かせるなよ。ぜったいに。江戸城の金銀、財宝は外国に売り払って、奥羽越列藩31藩と戦争するのだ」
 それに失敗すれば、西郷隆盛の存在は消されてしまう。
 

 西郷は、戦えというよりも、戦うな、と言われるほど、苦悩する性格だろう。京都から悶々と軍隊を進めていく。
 彦根の井伊、尾張の徳川、静岡の各城主、箱根を超えて小田原城主、これらはすべて戦争回避をしておかなければ、江戸城は燃やされてしまう。
 一触即発で、かりに井伊家と戦争でもしたら、次々に、自焼(負け戦になれば、城を燃やして、敵に戦費を与えない作戦)されてしまう。ともかく、箱根の山は戦争せずに越えられた。


 慶喜はみずから江戸の上野寛永寺で謹慎に処した。なぜ、これができたのか。慶喜は外交に強くて、国際法を知っていた。
『敵の総大将(元首)は殺さない。かの有名なナポレオンでも、死刑にしなかった
 幕府はフランスと仲が良い。慶喜にはその知識ある。かれは外交に強い。欧米への働きかけから、イギリス・フランスは、『慶喜や大名は殺すな』と明治新政府に圧力をかけた。
 新政府軍は、慶喜に手出しができなかった。大名の殺戮もゼロである。

 この間に、小栗上野介が江戸城で、
「徳川家をつぶす気か。それでも将軍か」
 と慶喜の胸ぐらをつかんで抗議した。小栗は勘定奉行を4回もやり、財政・金融にも優れた、日本の近代化を推し進めた人物だ。なおかつ陸海の両奉行の経験がある。小栗には、駿河湾を利用した、打倒・新政府軍の戦略に勝算があったのだ。

 しかし、慶喜は戦争による国家の分断を嫌った。小栗を解雇し、片や、勝を登用し「江戸城を明け渡せ」と無血開城を指図したのだ。
 
 勝海舟は氷川清話で、「おれが江戸城を無血開城させた」と述べている。自慢したい気持ちはわかるが、幕臣の一人やふたりの知恵で、世の中が動かせるほど甘くない。
 自惚れ屋が妙なものを書き残すから、慶喜は腰抜け扱いにされてしまったのだ。

 つまり、知将とは戦わずして、事を治める人をいうのだ。 

 西郷隆盛はともかく至上命令で江戸城を焼かずに進軍できた。しかし、西郷と勝はふたりして江戸の治安維持に失敗している。もう、西郷はお払い箱に近い。
 
 新政府の木戸孝允は、知将の大村益次郎に期待した。大村は京都から江戸府に出てきた。怜悧に、江戸城内の金銀、財宝、すべてイギリス、フランス、オランダなどに売り払った。(現・国宝級文化財は一品も残っていない)。大村はこうして奥羽越戦争の軍費を作ったのである。

 上野の彰義隊にたいしても、最小限の費用の半日で決着をつけている。江戸の治安は早ばやと取り戻しているのだ。
 ただ、大村益次郎は、小栗上野介の陸海軍による駿河湾・待伏せ戦略がもし実行されていたならば、『自分(新政府)の首はなかった』と回顧している。

 慶応3年、小松帯刀が京都に不在だった2か月間で、西郷隆盛は鳥羽伏見で派手に戦争をやった。けれども、大阪城を炎上させてしまった。あとさきの必要戦費の計算も、みずから軍費の調達もできなかった。愚将である、という批判が怖かったのだろう。
 戊辰戦争が終わると、西郷隆盛はすごすご薩摩に直行し、帰っていった。
 
 最悪が西南戦争である。血気盛んな若者が、『われら薩摩が天下を狙い、蜂起する』と炎上した。それを止められる人物は唯一、西郷だった。しかしながら、逆に、それに乗ってしまい、大勢の将来ある鹿児島県の若者たちを死に至らしめた。
 
 幕末・明治の歴史は、薩長閥の御用学者によって編纂されたものが多い。鳥羽伏見の戦いは、西郷軍が最新の西洋銃を持って、幕府軍の旧式の軍隊に打ち勝った。
 15代慶喜将軍は、大阪城からこっそり逃げ帰った。そのようなバカげた史観で塗りつぶされている。

「戦争は金がないと戦えない」
 そうした財政・経済学の視点から、歴史をとらえると、名将から愚将にかわってくる。愚将が名将になる。
 ちなみに、日清戦争、日露戦争は、日銀が外国から金を借りまくって(外債発行)から、戦争を勃発している。もし外債の引き受け手がなければ、ロシア・バルチック艦隊が来ようが戦うことなどできないのだ。
 ただ、太平洋戦争のように、戦費の裏付けも満足にないのにパール・ハーバー(真珠湾)に奇襲攻撃をしたり、本土決戦だといい国家総動員令で、お寺の鐘、家庭の鉄をつぶして軍艦をつくり、木の飛行機と竹やりでB29と戦おうとしたりした愚将もいるけれど。 
 
 小松帯刀は明治3(1870)年7月20日に大坂で死去している。36歳だった。それから西郷隆盛は7年後、大久保利通は8年後まで生きている。
 このふたりが小松帯刀日記・慶応3年のありかを知っていないだろうか。むろん、これは推理小説的な推論である。ある意味で、歴史小説作家も、歴史学者も、仮設と推論で展開していくものだ。
 ここから掘り下げると、意外と実証の現物が見つかったりするケースもある。