歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(上)

「金がなければ、戦争はできない」
 幕末・明治の歴史は、この大前提に立って見つめないと、まちがいをおかす。御用学者が都合よく作った年表に乗せられてしまう。
 慶応3年~慶応4年(明治元年)は、歴史の大変革である。

 2月半ば(2017)、ある新聞社の文芸部・歴史担当の記者と、夜、ふたりして酒を飲みながら、大政奉還~小御所会議~鳥羽伏見の戦いなどを語り合っていた。
「小松帯刀日記が某所にあるというので、先日、休暇を取り、新幹線を使って見にいったんです。慶応3年(33歳)がそっくり抜けていたので、がっかりしました」
 記者はずいぶん落胆していた。
「だれが、いつ、どのように日記から抜いたんでしょうね。小松当人とは考えにくい」
 慶応3年の小松日記が残っていると、不都合な人はだれなのだろうか。
 ふたりして、考えたけれど、その場の結論は出なかった。

 記者と別れてからも、わたしは慶応3年12月9日の重要な小御所会議に、薩摩藩の若き有能な家老・小松帯刀がなぜ臨席しなかったのか、とこだわって思慮していた。

 小松帯刀は五代才助などをつかい政治、経済、貿易を取りしきっている重職だ。と同時に、久光の信頼が厚く全権をもっていた。
 大久保利通、西郷隆盛は歴史の上でトップクラスで目立っている。ただ、身分の序列が厳しい薩摩において、かれら下級藩士が家老・小松帯刀や藩主およびその父・島津久光などには、とても逆らえる相手ではなかった。
 後ろめたいことをしていないだろうか。名将にはかならず影がある。

 小松帯刀は三条実美と親しいけれど、岩倉具視をかつぎ上げる根拠に乏しい。もう一つ、かれは武力討幕派ではなかった。

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が決まる。それは軍事的な圧力をかけて、徳川家から朝廷に政権を奉還させよう。それが成せば、京都御所の警備につこう、という同盟だった。
 そして、翌10月初に、土佐・後藤象二郎と芸州広島・辻将曹から、15代徳川慶喜将軍に、大政奉還の建白書が提出された。
 慶喜将軍は、小松帯刀もふくめて意見をもとめた。小松には徳川家を排除する方向性はなかった。
 朝廷(天皇)の下に、徳川、薩摩、芸州広島、土佐、諸々家が並列におかれる、という常識的な考えだった。これらは山内容堂なども同様だった。

 このころに、あやしい動きが薩摩にあった。「偽の討幕密勅」という悪質な手法だった。大久保利通が公卿に「この偽物でも良い、武力討幕の天皇の勅許がほしい」と策略しているのだ。
 15歳の天皇が、500万石・徳川家を討て、と逆立ちしても、指図できるわけがない。広島・浅野家『芸藩誌』には、薩摩側の策略や偽物を書いた筆者までも、克明に記録されているのだ。おなじ内容で翌日には、長州の毛利公に出している。武力討伐する気がない広島は断っているのだ。
 つまり、小松帯刀家老と大久保利通とは、まったく違う動きをしている。

 慶応3年10月15日に大政奉還が成された。徳川政権がなくなったのだから、会津藩は京都守護職から外れる。
 薩長土芸にすれば、京都御所の警備兵士の増強が急務である。1日でも早くやらないと、佐幕の巻き返しが怖い。

 大政奉還の2日後、小松帯刀は大久保、西郷らを引き連れて薩摩に帰っていく。むろん、広島も土佐も国元へ使者を遣わす。早急に、軍隊を上げよ、と。
 長州はひとまず朝敵のまま、京都の手前、西宮で挙げさせるという策だった。

 ここから歴史の謎が出てくる。
 大久保が袂に持っていた「偽の討幕密勅」が薩摩藩でどう使われたのか。島津藩主と久光に、どの時点で見せたのか。あるいは見せなかったのか。

 同年11月後半、広島県・御手洗港に3藩6500人(薩摩・3000人、長州2500人、芸州広島1000人)が終結し、京都へ進発がなされた。

 政変が最も激動している最中で、小松帯刀が約2か月間におよんで、薩摩にとどまっている。それも、脚気の病気療養だった。
『ご家老、霧島温泉でも行って静養してください。われら薩摩隼人が3000人の兵を京都に挙げますから』
 誰かにそう言われたのか、小松自身がみずから静養に出むいたのか。小松帯刀日記の『慶応3年』が現存していれば、克明にわかるはずだ。

 年が変わって、慶応4年1月18日に、小松帯刀は京都の明治新政府の参与・総裁顧問として着任している。つまり、この2か月間、日本史でも、最も歴史の大きな転換があった。それも、薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛によるものだった。

 大久保利通が、まず岩倉村から謹慎処分ちゅうの岩倉具視を京都に連れ出してきた。公明天皇から罪人にされた岩倉が、15歳の明治天皇に許可をもらわず、小御所会議に臨んだ。厳密にいえば、大久保らが前日に勝手に罪を解除したのだ。長州の朝敵も解き放たれた。
 そして、王政復古の大号令というクーデターで、組閣した。

              【つづく】

 写真:雑誌「太陽コレクション」(平凡社・昭和53年5月発行)の「かわら版・新聞Ⅱ」

【近代史革命】西郷隆盛&米軍司令長官、戦いのちがい=横浜・三溪園

 横須賀~横浜の幕末取材に出かけた。私にとって、約半世紀ぶりで三溪園(さんけいえん)に立ち寄ってみた。

 根岸線関内駅から、ややあてずっぽうで、定期バスに乗った。
 終点です、と運転手にいわれた。

「三溪園はどこですか?」
「この路線はちがいますよ。(バス停)3つほどもどるか、ここから歩かれても、距離はおなじくらいかな?」
 私は、見知らぬ街を、適当な勘で歩くのが好きだ。ちょっとした登山感覚、というか地理勘を磨けるし、おもわぬ発見があるものだ。
「方角はどっちですか」
 それさえわかれば、自分自身を納得できる。
「きっと、こっちの方角でしょう。くわしい道のりはわかりませんが」

 運転手とのやり取りを聞いていた乗客がいた。60歳半ばくらいの男性だった。バスを降りると、すぐに声をかけられた。
「三溪園なら、この道をまっすぐ行って、つきあたったT字の道路を左にいくと、早いですよ」
 という親切心に感謝し、道のりを再確認してから、あるきはじめた。


 横浜には坂道が多く、階段状の道もある。曲がりくねっている。T字の道路は見あたらない。行き止まりもある。やや複雑怪奇になってきた。

「どうも怪しいな。あの男性のおしえてくれた地形とは、ちがうな」
 私は、自分の勘にギブアップした。スマホをとり出すと、グーグル・マップで現在地を確認した。周囲は、複雑な網の目で、とてつもない場所だった

 先刻のバスの終点から、地図から判断すると、『T字の道路を左にいく』というかんたんな話しではない。
「堂どうとした物言いだったから、信じてしまった。どうも認知症のひとだったらしい」
 それを見ぬけなかった私自身にもうんざりした。
 
 もはや地理勘はあきらめて、グーグル・マップで約20分ほど、歩いた。

 三溪園(さんけいえん)では、園内ガイドの案内を乞うて、園内を一周した。(通常は半周らしい)。幕末の造園かとおもっていたが、日露戦争のころ、貿易商が外国人の接客用に造ったという。

 作家の好奇心から、なにか知識の吸収になる、とおもいながら説明を一通り聞いていた。

 ガイドの話しが、太平洋戦争の末期の横浜空襲に逸(そ)れていった。

「米軍は、じつに正確に爆撃しています。その証拠に、根岸線(ねぎしせん)は一発の爆弾も落とさず、桜木町駅も、鶴見駅も、しっかり残っていましたから」

「えっ、ほんとうですか。米軍は無差別攻撃で、焼夷弾(しょういだん)を落としていたとばかり、信じて疑わなかったけれど……」

「ちがいますよ。米国は終戦まえから、日本の鉄道をつかうつもりで、狭軌(きょうき)のジーゼルカーとか、貨車とか、数千台も製造していたんです。マッカーサーが厚木基地におりたった後、それらが運ばれてきた。米国は太平洋戦争の終了後をしっかり考えていたんですよ」
 
「私は、広島から上京してきたばかりのころ、なんどか横浜に遊びにきました。たしかに戦前仕様の桜木町駅でした。大都会に、未だ、こんな古めかしい駅かとおどろいたものです」

「日本人の戦争は、勝ことが目的でしょう。終戦後に、どんな占領地にするか、施政(しせい)をどうするか。ほとんど考えていない」
「たしかに」
「戦後は、横浜の焼け野原のなかを、米軍の貨車がずいぶん行き来していました。横浜港に荷揚げして、全国に運んでいたんですよ」


「戊辰(ぼしん)戦争の日本人の戦いと、ずいぶんちがいますね」

 歴史に関心が薄かったころ、彰義隊(しょうぎたい)とは江戸の不法者集団だった。それらを上野にあつめた官軍が、アームストロング砲で1日で処罰した。新政府軍の武勇としておしえられてきた。

 長い間、鵜(う)のみにしていた。

 いまの私は、幕末史と正面から向かい合うようになった。
 
 慶喜元将軍が上野・寛永寺(かんえいじ)に閉じこもって、みずから謹慎(きんしん)した。それはなぜか。旧幕府軍が本気になって戦えば、英仏の戦争介入になる。日本が分断されるといい、慶喜は戦争を回避したのだ。


 慶喜は水戸家から一ツ橋家に入った。その一橋家の家臣ら渋沢成一郎、天野八郎、それに幕臣(旗本)らが、彰義隊を結成した。その目的は、慶喜の身辺をまもるためだった。

 かれら一ツ橋家は(現在の)霞が関の高級官吏たちである。通商交渉の外交、財政・金融などの大蔵、法律知識の豊富な法務など、貴重な人材だった。
 洋学(外国語)が堪能(たんのう)である。


 刀は差しているが行政官だった。戦う集団ではない。薩長土の下級藩士が、それら有能な人材だと知りながら、無差別に殺してしまったのだ。
「1日で退治した」
 と官軍の強さを誇示(こじ)していた。


 西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城と美談になっている。そればかりが強調されている。しかし、かれらは戊辰戦争後など、まったく考えていない。

 現代に置きかえれば、鹿児島、山口、高知の市役所の課長、係長、一般職の連中が、霞が関のキャリア(上級)官僚と知っていながら、抹殺(まっさつ)してしまったのだ。

 そこには戊辰戦争後の思慮(しりょ)や施策など、まったくなかった。


 明治5年には日米通商条約からはじまり、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、ロシアなど次つぎに条約改正の期限がきた。
 しかし、元下級藩士の新政府の外務省役人らは、横文字が読めない。しゃべれない。外交交渉ができる人材がいない。そこで、各国に条約改定の延期をもうしでる。

 あげくの果てには、20年以上もかかってしまった。(関税自主権の完全回復は明治44年)。この間、学校では、江戸幕府が結んだ「不平等条約だ」とおしえてきた。
 それがいまだに続いている。

 米軍の根岸線の攻撃回避は、横浜だけではなかった。東京大空襲においても、鉄道路線は攻撃されていない。東京は昭和19年(1944年)11月から106回もの空襲があった。この間、東京駅はいちども直撃弾をうけていないのだ。火災の類焼ていどだった。


 昭和20年3月10日~11日に、大規模な東京大空襲があった。翌12日、大学で期末試験があった。総武線が動いていたので助かったと、私のエッセイ教室の受講生が書きのこしている。

 その方はお亡くなりになっているが、東京帝国大学・工学部の学生だったから、学徒動員がなかった。

 そのエッセイを読んだとき、戦時ちゅうとはいえ、廃墟(はいきょ)からの回復力はすごいものだな、これが日本人の底力かとおもっていた。

 それはまったく違っていた。大本営は、おおかた米軍の爆弾投下の傾向から、手掘りの粗末な防空壕(ぼうくうごう)よりも、鉄道の線路または駅舎のほうが、より安全な避難方法だと知っていたはずだ。

 それを全国民におしえていれば、地方都市の爆撃にたいしても、民間人はまちがいなく数十万人は助かっただろう。なぜ、おしえなかったのか。
 戦争といえども、人間のいのちはたいせつだ。


 現代の教育でも、それら事実をおしえてくれない。

 西郷隆盛は江戸騒擾(そうじょう:強奪、殺りく、放火)などで鳥羽伏見の戦いをひきおこし、そこから戊辰戦争を誘導した。大村益次郎は彰義隊を壊滅させた。
 かれらはしょせん地方公務員の下級藩士にすぎなかった。戦争の目的とはなにか。どんな新国家をつくるかなど考えていない。

 米軍太平洋司令長官とは、あまりにも知的な差を感じさせられた。

 若者たちが、安心して結婚し、豊な生活を送る社会を維持する。日本人はひとたび戦争になれば、玉砕(きょくさい:全員死ぬ)まで考えてしまう民族だ。
 近代史の戊辰戦争、現代史の太平洋戦争、これら歴史を知ったうえで、平和な国家として、戦争放棄しておかないといけない。

 三溪園では、その想いをつよくさせられた。

みちのくには黄金文化があった。その謎とは? = 玉山金山 (上)

物書きには、なにが大切か。想像力と、記憶力と、好奇心、この三つがややずば抜けていなければ、だめだよ、作家にはなれないよ、とカルチャーの小説講座などで話す。

 暗記と記憶はちがう。憶えたままをアウトプットするのが暗記だし、18歳の頃にこれが優れていると、エリート大学といわれるところに入れる。俗にいう、脳内の丸暗記。

 記憶とは、体験・経験を心にとどめておいて、複数を組み合わせながらストーリーにして表現できる力。この蓄積の補充が弱いと、いつもおなじ話をする。

 印象深い体験ほど、忘れにくい。記憶はみずから作るものである。本は読む側から忘れていく。TVは観ている瞬間はわかった気でいるが、自分自身が出演しないかぎり、ほとんど記憶されていない。

 なぜ、ここでこんな話をもちだすか、といえば、日常から、「非日常の世界」にとびだす、あるいは予備知識がなく、見知らぬところに行くと、記憶にしっかり残るからである。


「玉山金山にいってみますか」
 と誘ってくれたのは、岩手県陸前高田市の大和田幸男さんだった。
 わたしは好奇心から、どんな金山なのか、見てみたかった。ひとこと返事だった。低山が連なる山奥だった。車は、さして変哲もない林道をひたすら登っていく。

 「すでに廃坑になっているから、坑道は塞がれています」
 残念だが、採掘していても、きっと入坑は許可されないだろう。


 検問所の立札に興味をもった。「主殺し、親殺し以外はその罪を問わない」。犯罪者には格好の逃げ場なのだろう。
 
 平泉の栄華の黄金文化は、子どもの頃からの謎だった。どうして、奥州に、きらびやかな中尊寺金色堂などがあったのだろうか。なぜ、源義経が奥州・藤原氏をたよって逃げていったのか。縁戚筋でもあるのか、と。


 玉山金山の発見は、わが国で最も早いらしい。天平21年(西暦749年)ころから、砂金で流れ出し、気仙川が黄金色で光っていたようだ。
 奈良東大寺の大仏に使われた。

 マルコポーロが『東方に国あり、その名ジパンゴという。その国で特に驚くべきことは金の多いことである。その金は掘れども尽きず』とヨーロッパに紹介された。これが玉山金山だという。
 欧州の海洋国家の冒険家たちの心をゆすぶり、東方のジパンゴをもとめて、アメリカ大陸の発見につながった。


 玉山金山から産出した金は、この山路を下り、海路で石巻へ、そして北上川をさかのぼる。この川は河口から穏やかで、舟は上り下りに適している。そして、平泉で荷揚げする。

「平泉・藤原三代の繁栄は、この旧・竹駒村の「玉山金山」の産金によるものですよ」
 大和田さんは地理的、歴史的にくわしく語ってくれた。

                               【つづく】

みちのくには黄金文化があった。その謎とは? = 玉山金山 (下)

「平治の乱」の後、源義経は京都・鞍馬山から、ひそかに平泉の藤原秀衡のもとに下り、保護されていた。
 治承4(1180)年に源頼朝が挙兵したとき、弟の義経は平泉から奥州各地の兵をひきつれながら、鎌倉にかけつけた。
 福島からは佐藤継信・佐藤忠信のきょうだいが加わった。有名な話である。

 わたしは子どものころから、義経が源氏の直系というだけで、屋島、壇ノ浦とつづけざまに平家を打ち倒すほど、武士があつまてくるものなのか、と疑問に思っていた。


 作家になってからも、「源義経」はまず書けないな、と決めつけていた。
 なぜならば、平泉からあつまる兵が膨張し、「平家に非ずんば人に非ず」という強敵を倒す。このままのストーリーではリアリティーの欠片(かけら)もない。戦術が巧い武将の義経だけでは、漫画チックだろうと思っていた。

「そうか、玉山金山から産出した金を、奥州から数多くの馬に積んでいく。そして、各地の豪族を金で買収しながら、兵を増やしていったのか。しょせん戦争は金しだいだ」
 と思うとすっきりした。

 平家が倒れた。義経は持参した金を使いつくしてしまった。となると、天下を取った頼朝としてはもう不要の人材だ。義経を消しても、みちのくの金山を奪い取ってしまえばよいのだから。

 謎が解けた心境だった。


 時代は移り、秀吉、家康の時代になっても、この玉山金山は存在していた。

『明治37(1904)年には、高橋是清がこの玉山金山を抵当にして日露戦争の軍資金に欧米から8億円の借入をしている』

 立札の説明文から、物書きとして、ある種のひらめきがあった。

「そうか。三国干渉したロシアへの憎しみ、恨みがあったから、民意が強くて日露戦争が起きた、と学校でおそわった。しかし、お金がなければ、ロシアと戦争ができなかったのだ」

 あたりまえのことだが、この場ではっと気づかされた。後日、日清戦争を調べると、外国から金を借りてきて戦争をしている。
 経済の視点からみると、歴史の見方が変わってくる。通説とはちがう、新発見があるかもしれない。みちのくの謎が、歴史の謎解きに結びつくかもしれない、と気持ちが高まった。

 こんな山奥で働いた労働者(鉱夫)たちは、賭けごとに誘い込まれて、日々の稼ぎを博徒に奪われていたのだろう。それはかんたんに想像できた。ここに飯炊き女か、遊女とかを登場させてうごかせば、小説になっていく。
 

 幕末の倒幕の金はどこから出てきたのか。数十万両の軍資金がなければ、徳川家打倒など、できるはずがない。イデオロギー、主義主張だけで、いのちを賭ける。それは歴史のきれいごとだろう。
 
 前々からの疑問が脳裏を横切った。桂小五郎は池田屋事件のとき、対馬藩にかくまわれていた。禁門の変の後、かれの逃亡を手伝ったのは、対馬藩だった。なんで、こうも幕末の小五郎の目が対馬藩に向いているのだろうか。

 玉山金山を歩きながら、「そうか、金か」とおもわず手を叩きたくなる気持ちになった。伊藤俊輔(しゅんすけ)、井上聞多などは、イギリス留学費用を受け取ると、品川の遊郭で500両(現在、約4000万円)を使い切ってしまった。どう補てんしたのか。帰国してからも、俸禄がわずかな下級藩士が、京都祇園で、芸妓と派手に遊びまわっている。
 その金の出所を突きとめれば、それが歴史をうごかしているのだろう。

 
 大政奉還の後、戊辰戦争がおきた。西国雄藩の各隊は粗末な絵地図で、よく間道など抜けて関東・東北の各地を攻め入ったものだな、とおもっていた。

 主要街道をまともにいくと、地の利で劣り、狙い撃ちされる。金山のような山奥の僻地ではたらく男ならば、ちょっと多めの金で抜け道をおしえてくれるだろう。全国の宿場にはかならず博徒がいた。かれらも金でうごくだろう。

 歴史は表舞台だけではない。陰の存在、裏舞台の人物がいなければ、芝居が成り立たない。そういえば、桂小五郎は坂本龍馬宛ての手紙に、「芝居にたとえて、板垣退助を舞台に立たせてほしい」、と書いている。(実在する)。


「日本を洗濯する」
 そんなきれいごとよりも、長崎の鉄砲密売人が闇で儲けた金で、政治家を裏でおもうままに買収する。金で従わせる。そう説明したほうがリアルだ。

 無理して、ほら吹きの勝海舟(氷川清話)とイデオロギーで結びつけなくても、『闇の人間ほど金でうごく』と単純化したほうが説得力がある。

 おもいがけず訪ねた玉山金山は、こうした歴史の解き方をおしえてくれた。わたしの記憶にながく残るだろう。
 

 

 

一度は廃城になったが、本ものが残る美城 = 松江を歩く


 鳥取県立博物館で調べ物をした翌日、松江へ足を運んでみた。  

 全国には、本ものの天守閣は12カ所ある。

 その一つが松江城(島根県)である。



 その実、松江でなく、『隠岐騒動』が起きた「隠岐の島」に足を運びたかった。海を渡る1日の日程だと、現地取材もままならず、断念して、松江城にきてみた。

 文献によれば、慶応4年(1868年)の戊辰戦争のおり、隠岐を治めていた松江藩の代官が、島民の蜂起により放逐されている。

 隠岐ではしばしば飢饉への対処が悪かった。さらには外国船の来航・上陸するが、松江藩は無為無策ぶり、成すことも後手後手だった。島民の不満がとうとう爆発したのだ。

 新政府の下で、隠岐に自治政府が成立した。その後、松江藩に奪い返されたが、鳥取藩と新政府の介入でふたたび自治政府が開かれた。


 明治2(1869)年2月25日には廃藩置県よりも2年も早くに、『隠岐県』が誕生している。

 明治維新では、ほとんど語られない『隠岐騒動』の自治政府には、関心がある。もしかしたら、幕末・維新のエキスがあるかもしれない。

 お城ブームで、全国には「復元天守」、「復興天守」、観光目的の「模擬天守」が多数ある。

 ときにはうんざりさせられることもある。

 この松江城の天守閣は本もの。深みと味がある。


 平家・源氏の台頭から約1000年もつづいた武家社会が、明治時代からわずか最初の10年間で消滅した。
 こんな短期の社会革命は、世界史のなかにおいても、めずらしい。

 新政府による「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われた。武家政治の象徴であるお城が「廃城令」で、全国の城・陣屋が次々に取り壊された。「廃刀令」、「断髪令」も加わり、武士という身分制度がこの世から消滅した。
 西南戦争をもって、2度と武士社会はよみがえらなかった。

 なぜ、「廃城令」のなかで、松江城の天守はなぜ残ったのか。

 1873(明治6)年。松江城は、廃城令に基づき、大蔵省の管轄下で、(天守を除く)、お城の建造物が4円~5円(当時の価格)で払い下げられた。解体されて、木材、瓦などが売り払われて国庫に入ったのだ。

 次なる天守も、大蔵省査定により180円(当時の価格)で売却されることが決まった。

 片や、出雲郡の豪農、元藩士らが解体に忍びないと、同額180円で、大蔵省に納めて買い戻されたのだ。そして、現在まで保存されてきた。


 松江藩は親藩で、18万6000石

 松江城は慶長16(1611)年に築城された。

 天守の建造は慶長12(1607)年である。

 幕末の松江藩は、政治姿勢が曖昧で、優柔不断だった。大政奉還・王政復古後の新政府ができても、藩内の意見は、幕府方・新政府方どっちつかず。

 挙句の果てには、新政府の不信を買ってしまった。

 最終的には、新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備についた。

 こうした藩だから、明治2(1869)年は、さっさと『隠岐県』が誕生してしまったのだ。

 歴史は後からなんとでもいえるが、当時は様子見が最善だったのかもしれない。  


 小泉八雲は、ギリシャ生まれのイギリス人であった。元松江藩士の娘セツと結婚して、明治24年6月から同年11月まで、約5ヶ月間の新婚生活を過ごした。


 小泉八雲旧居の目の前には、松江城のお濠がある。

 西洋人の観光客が多く、のんびり景観を楽しんでいた。


 見ごろは桜とお城だろう。

 遠景はいつでも楽しめる
 
 日本さくら名所100選

 日本の歴史公園100選

 日本100名城(64番)
 
 美しい日本の歴史的風土100選


 
 お濠の橋から覗き見と、屋形船にはしっかり広告が記されていた。


 城下の武家屋敷は、江戸時代に心を運んでくれる散策になる。


宍道湖(しんじこ)は、夕日が美しい、と聞いていた。

日本海側の天候は不安定だ。

昼間は晴れていたが、夕暮れには雲が多くなった。

日本海の海水接しているので、「淡水湖」ではなく「汽水湖」である。

 平均の塩分濃度は海水の約1/10らしい。


 嫁ヶ島(よめがしま)は、宍道湖唯一の島である。全長110メートル、幅約30メートル、周囲240メートルと紹介されていた。

 湖岸から島までは220メートルていど。水深は最大130-140cmと浅く、歩いて渡る行事もあると聞いた。

 島の名前の由来に興味をもってみた。

 若嫁が、姑にいじめられて身投げした、とか悲しい伝説にもとづいているようだ。類似した伝説は多く、どれが真実か、解りかねる。

【近代史革命】 第二次長州征討は、奇兵隊の暴走で引き起こされた。(上)

 幕末史のなかで、慶応2(1866)年6月に勃発した第二次長州征討が、大きな位置づけがなされている。事実、そのさなかに、家茂将軍が死去し、将軍の不在がつづき、片や狂乱物価(ハイパーインフレ)による庶民の塗炭(とたん)の苦しみから『ええじゃないか」運動が起きてしまった。
 徳川幕府の衰退が顕著となった。

 この第二次長州征討という戦争は、だれが引き起こしたのか。
 
 歴史家、歴史作家の多くは、幕府が一方的に長州に襲いかかった、と展開する。司馬史観などは、薩摩、長州びいきというか、幕府側の不条理のように描いている。
 それは事実と違うし、公平さや客観性を欠いている。


 長州藩の第二奇兵隊が、とてつもない暴走をおこしたのだ。
 幹部の立石孫一郎がほとんど全員の約100人の兵を連れて、幕府直轄の倉敷代官所と、浅尾藩陣屋(京都見回役・蒔田広孝)を襲った。この暴挙が、朝廷や幕府を怒らせて、もう長州に対して寛大な対応はできない、と第二次長州征討へと突入していく。


 【大きな流れとして】

① 過激攘夷論の長州藩が、八月十八日の七卿の都落ちで、京の朝廷から締め出された。


② 池田屋事件で、『祇園祭の前の風の強い日を狙って、御所に火を放ち、中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜、松平容保らを暗殺する。そして、孝明天皇を長州へ連れ去る」(古高俊太郎の自白)というものであった。
 天皇を連れ去る。これは池田屋事件のみならず、以降も、なんどか見え隠れしている。

 
③ 「禁門の変」が起きた。長州藩の家老3人が約2000人の兵を連れて京都に挙がった。『京都守護職』を寄こせ、と威圧した。むろん、幕府側の一橋慶喜と松平容保は拒否する。

 元治元(1864年)7月19日、長州勢は京都御所へと進撃ていく。(池田屋事件に起因した天皇拉致の実行か)、御所に銃を撃ち込む。会津、桑名、そして薩摩藩が出てくると、長州藩は形勢が逆転し、敗走しながら火を放ち、京の都の八方を火の海にした。


④ 朝廷は怒り、長州を『朝敵』とし、徳川幕府に長州追討の勅命を発した。幕府軍が35藩、総勢15万が防長に州を二州を取りかこんだ。
 総督府(総大将)は、尾張藩主から紀州藩主に代わっていたが、戦争回避策がとられた。過去から 徳川家御三家(尾張、紀州、水戸)には、戦争をきらう体質があった。大名家の処罰は厳格だが、みずから国内外で戦争はしない。だから、260余年の長期政権を維持できたのだ。

 京都に挙がった長州藩の3人の家老は切腹、4人の参謀は斬首、五卿の追放で処した。


⑤ しかしながら、広島・国泰寺で、大目付の永井尚志(作家・三島由紀夫は子孫)はそれだけだと甘すぎると言い、『藩主父子を後ろ手で罪人として引き渡す』、『萩の開城』という、2つの条件をつけ加えた。そして、実行を迫った。

⑥ 毛利家を代表する岩国・吉川経幹は、永井の案をつよく拒否した。それからは、『長州処分案』がいつまでも決まらず、やっと慶応2年1月24日に、幕府は『長州藩の10万石削減』と『毛利敬親の謹慎処分』と決めた。
 一橋慶喜をはじめとした幕府関係者は、おどしで『戦争するぞ』と軍隊をチラつかせながらも、開戦の気迫などほとんどなく、上記の2案で穏便に解決したかったのだ。(慶喜の頭のなかは長州のことよりも、兵庫開港問題の方が重要だった)

⑦ 幕府から芸州広島藩を通して、『長州処分案』が長州藩に提示がなされた。

 約2か月後の4月9日に、長州の正規軍「第2奇兵隊」が、山口の港から出航し、(芸州広島藩、福山藩の先にある)、倉敷代官所を襲ったのだ。長州側からの開戦だ、と幕府は怒り心頭になった。

『禁門の変で、天皇拉致の実行を謀り、京都の民が《どんどん焼け》というほど、兵火よる家屋の損失はおおきく約2万7000世帯におよぶ。京都の貴重な神社仏閣も半数以上も焼失させた。応仁の乱以来の大惨事だった。
 そのうえ、江戸幕府の勘定奉行所直轄・代官所を襲撃する。奇兵隊の兵士を捕えてみると、「長州藩政府の指図だ」と自白する』

 
 木戸孝允が、第2奇兵隊から脱走した「浮浪の者」だの、自白は「虚言」だの、と幕府側に懸命にとりつくろう。
 幕府とて盲目ではない。「第2奇兵隊ほぼ全員なのに、脱走とはおかしい」、倉敷から逃げ帰った先は長州だろう。
 長州の宣戦布告だと判断し、2か月後の6月7日に、幕府軍が一斉に攻撃を開始したのだ。


                                      【つづく】 

【近代史革命】 第二次長州征討は、奇兵隊の暴走で引き起こされた。(下)

 司馬史観において、なぜか、長州藩の第二奇兵隊による倉敷代官所襲撃はほとんど取り上げていない。それは「薩長同盟」を強調するストーリーに不都合だからか。

 木戸孝允と西郷隆盛による談論が、「薩長同盟」となり、さらには「薩長による倒幕」へと昇華させていく。
 はたしてそうだろうか。

 木戸孝允には開明的な思想があった。西欧に肩を並べるには、封建制の強い徳川幕府ではダメだ。西欧型の政治にする必要がある。それには、頂点に天皇をおく中央集権政治であった。

 後醍醐天皇が成した「建武の中興」とおなじように、天皇のための『皇軍』が必要になる。片や、親政が実現しても、長州藩がいつまでも『朝敵』だと、自分たちは政治活動などできない。毛利敬親の指図で、これまでは敵視していた薩摩と和合し、『朝敵外し』の尽力を頼みに京都・小松邸にやってきたのだ。

 この段階で、木戸孝允自身は『武備恭順』の施策を取りながらも、幕府と単独で戦う気などなかった。


 木戸孝允は早くから水面下で、芸州広島、備中岡山、鳥取、徳島、対馬ら六藩同盟・盟約へと働きかけていた。朝廷の権威を高めるには、これら諸侯(大名)の協力が不可欠だと考えていたからだ。京都の留守居役として、六藩が一つ意思にまとまりかけていたところ、自藩の暴発による「禁門の変」でぶち壊されてしまったのだ。

 それから2年後、こんどは倉敷代官所の襲撃だ。幕府のみならず、親しい他藩(五藩)からも、長州からの開戦疑惑がむけられた。

『なにかと暴走してしまう長州藩は、すでに正当性を失っている』
 長州藩江戸詰が長かった木戸孝允は、誰を最も怒らせてしまったか、とわかっていた。ここはせめても開戦疑惑を晴らすためにも、第二奇兵隊の参戦の隊士ら全員を切り捨てる手段にでた。幕府対策として、脱退の暴徒だ、大罪だと決めつけ、斬首など厳罰で臨んだのだ。

 それらを書簡にして幕府側に提示し、懸命に戦争回避に尽くしていた。
 
 しかしながら、幕府には通用せず、大軍が長州に襲いかかってきた。
 ところが思ったよりも、長州軍は善戦していた。この段階になって、はじめて『この勝敗が朝廷の盛衰にかかわる戦争だ』と木戸には位置づけできたのだ。兵士らを鼓舞し、火の粉を懸命に払っているうちに、家茂将軍が亡くなった。これが長州に幸いした。

 芸州広島藩の辻将曹が仲立ちし、勝海舟と長州藩が宮島で和平協定を結んだ。

 木戸孝允は、この辻将曹と広島藩世子の浅野勲訓(ながこと)と強いつながりがある。薩長芸軍事同盟ができた。それに土佐藩を加えて、徳川幕府に軍事圧力をかけた。結果として、「薩長土芸」が明治新政府を樹立させる。(肥前は動いていなかった)


 そして、木戸孝允が新政府の政策ブレーンの頂点に招かれた。かれの頭脳はフル回転をはじめた。……五箇条のご誓文、版籍奉還、四民平等、外国公使と天皇の面談など、斬新な政策が怒涛のごとく打ち出されていく。勝海舟と西郷隆盛による江戸城開城がなされる前からだった。
 むろん、木戸孝允は鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の戦場にはいちども出ていかず、財政・金融の面からも、新政府の新たな経済面の構築にむかった。
 
 第二奇兵隊の総督は山内梅三郎、軍監は白井小助と世良修蔵が就いていた。しかし、世良は謹慎中の身だったことから、倉敷代官所襲撃には参戦していない。

 学生論議のように、歴史に、もしもはないけれど、世良修蔵が謹慎ちゅうでなければ、会津戦争は起きなかったかもしれない。軍監の世良も倉敷襲撃に参戦し、暴走責任者として斬首されていただろうから。

 世良は、仙台藩士に福島の旅籠で斬首された。仙台がわの立場からすれば、世良の人格、性格に問題があったとする。この斬首が会津戦争のおおきな引き金になった。


 新政府になった明治2年に、長州藩内で奇兵隊が反乱を起こした。
 木戸孝允は長州意識よりも、朝廷の臣民の意識が強く、みずから反乱兵の鎮圧に乗りだした。徹底した処罰で臨んだ。そこには高杉晋作がつくった奇兵隊だ、という親近感などなかった。まるで逆だった。

 理性的な木戸からすれば、藩主・毛利敬親の「そうせい公」の態度を甘くみて、長州藩士がまたしても好き勝手に暴走・暴挙したか、という腹立たしさ。それ以上に、倉敷代官所襲撃の暴走が長州から開戦した、という汚名を歴史に残した口惜しさが強かったのだろう。


 現代の史学では、慶応2年4月9日の第二奇兵隊による、倉敷代官所の襲撃は歴史の片隅に置かれている。しかし、第二次長州征討の開戦という、実に大きなターニングポイントであることは事実だ。わずか100人と言えども、これを見落としてはならない。

 石見銀山から大坂に運ぶルートを守る重要な役所だった。幕閣で最も権威あるのは、徳川幕府500万石をぎゅうじる真の実力者は勘定奉行だ。金山・銀山も極秘に支配下にある。全国の津々浦々に隠密網を張り巡らせている。老中、ときに将軍すらもお金のために頭を下げる。

 その勘定奉行所の人体に、田舎侍の奇兵隊が知ってか知らずしてか、細長い刀を刺し込んだ。直属部下である有能な官吏が殺されたと言い、江戸勘定奉行を強烈に怒らせてしまったのだ。
 ちなみに、幕末の最大の実力者である小栗上野介 忠順( ただまさ)が勘定奉行であった。木戸孝允は事の重大さを知っていた。

                                    【了】

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (5)

 私は宮古島の取材で、学芸員に民族的な質問を向けてみた。
「私たちは琉球人です。日本民族とはちがいます」
と躊躇(ちゅうちょ)なく言い切った。
「それは、島民の全員の認識ですか?」
「そうです。宮古島、石垣島など先島(さきしま)諸島のひとは、ほぼ日本人ではないとおもっているでしょう」
 島の人たちをみるかぎり、顔立ちは違う。やや小柄な体躯だ。そのうえ、宮古島は立地的にも、中国大陸には近く、那覇にいく距離とじくらい。
 考古学的にも、先島諸島は縄文文化(北の日本文化)の影響がみられず、台湾に類似した土器が多く見つかっているという。
 たしかに、小さな帆舟時代には、黒潮に影響されて海上交通のもどり船は逆流で難儀だ。難破の危険度が高い。
「沖縄本島とは、これまた文化圏がちがうのですよ」
 学芸員の説明には、わたしは驚かされた。

 取材した当日の宮古島は、台風の直撃だった。それが少し止んできた。宮古島と小島を渡す長い橋が、暴風警報の解除と渡れた。
『海外派兵とはなにか』
 橋を渡りながら、あれこれ考えてみた。
 
 外国へと大量の兵士や軍物資を往復で、くり返し、遠距離輸送する。そこには運輸業が膨大な利益を得る。政商が儲かる構造がある。つまり、海外派兵で儲かる産業があるのだ。
 
 西郷従道の独断の強引な台湾出兵で、岩崎弥太郎の「三菱商会」が台湾出兵の頃から飛躍的に伸びた。
 つけ加えるならば、兄の西郷隆盛が起こした明治10年の西南戦争(双方の死者1万4119人)では、三菱商会は軍用船を独占し、大きく儲けた。
 この戦争のさなか、新しい汽船を購入する目的で、新政府から大幅な補助金を受けている。戦争終了後には、これらの船がすべて三菱商会に下附されている。


 当時の日本政府は、台湾出兵の政治的な解決が成されたと信じていた。

 下級藩士たちがつくった明治新政府は、德川幕府時代の外交をあれこれ難癖をつける。しかし、巨大大国の西欧諸国と修好条約、通商条約を結んできた。

 切れ者といわれた大久保利通すら、下級藩士で、調停工作は上手くても、外交は未熟で拙劣だった。清国に乗り込んでも、フランス人、イギリス人外交官の手を借りても、宮古島遭難事件と台湾出兵は、琉球問題の外交上の最終決着がつかいていなかったのだ。

 その大きな理由は、日本と清国の直接交渉の際、肝心な琉球王国の要人がまったく加わっていなかったのだ。
 アメリカ艦隊のペリー提督すらも、琉球を独立国として流米和親条約を結んでいる(1854年)。 琉球国は江戸時代に薩摩藩が侵略した。古来から、『琉球人の島、琉球王国の島』で、日本人の島ではなかった、民族も違う、という認識だった。

 大久保利通はそれがなかった。琉球を独立国として認めていない。外交交渉で、これが大きな落とし穴となった。後世にまでも、琉球問題、沖縄問題へと後を引いていく結果にもなる。


 まず明治8年(1875年)、明治政府は琉球にたいし清との冊封・朝貢関係の廃止を命令した。しかし琉球国は清との関係存続を主張した。つまり、日本合併の一本化に反対したのだ。と同時に、清国が琉球の朝貢禁止に抗議してきた。

 明治12(1879)年、明治新政府はの琉球処分(琉球を日本領とするので、清国との断交をもとめる)に際しても、清国は反対した。
 あらためて翌・明治13年に北京で、日清双方の交渉が行われた。

『交渉として』

① 日本政府から提案として、「宮古島列島、八重山列島(尖閣諸島を含む)」は清国領土とする。「沖縄本島、奄美諸島」は日本支配とする。

 ※日本は分割し、清国の領土として放棄する案をだしたのだ。(古来からの日本領土ではない、と認めたことになる)

② 清国政府からの提案は、2島の領有は望んでいない、従来の冊封関係を維持していくために、2島は日本から琉球国へ返還する。そして、琉球王国を再興させる。

③ 交渉に加わらない琉球人から、日本案の分島にたいする反対運動が起きた。


①~②で、日清は仮調印寸までいった。だが、清国側から正式な調印を拒絶してきた。


 最終的に決着したのは日清戦争の後だった。『琉球は日本領土とする』。戦争によって、日本の所有権は一応の決着がついたのだ。むろん、琉球人の頭越しの決着だった。

 地方の下級藩士がいきなり外務大臣、内務大臣になった。拙劣な外交が、台湾出兵、日清戦争、そこから三国干渉の問題が起きて、日露戦争、ひたすら戦争の道へと突っ走る。原爆投下まで。

 これも戊辰戦争で、徳川時代の実務に長けた有能な外交官たち(戦争無くして、欧米の巨大大国と修好条約、通商条約を取り交わした旗本)を殺してしまったことにも起因している。

 

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (4)

 明治7年4月5日に一度は、台湾征討は西郷従道(じゅうどう・隆盛の弟)に命令が下った。鹿児島県の士族は競って駆けつけた。翌日、谷千城と赤松則良の両将軍に参軍を命じた。
 西郷従道は3隻の軍艦で、兵員3658人を従えて、鹿児島から長崎へとむかった。まずは軍事物資の補給である。鹿児島の将兵は先勝気分だった。

 このとき、米国大使と英国大使パークスから、台湾征討にクレーム(異議あり)が出た。米英が清国に味方すれば、先行きが見えなくなる。政府内部で、大もめになった。木戸孝允たちはもともと台湾への出兵には反対だ。結果として、政府は台湾征討の中止を決めた。

 政府は、大久保利通を長崎に派遣し、『西郷従道に対して、台湾征討中止、出航停止』を言い伝えるように、と命じた。
 ところが、鹿児島出身の大久保は、ここで尻込みしてしまった。長崎で出航を止めようものなら、鹿児島士族の大反発を食らい、わが命が危ない。制止は不可能と思ったのだろう。
 大久保がもたもたとしている間に、西郷従道が明治7年5月2日に、長崎港から出港してしまったのだ。


 西郷軍は台湾に上陸した。そして、琉球遭難者54人を殺した部族の探索をはじめた。やがて事件発生の「牡丹社(ぼたんしゃ)」という地区の蕃社に絞り込んでいく。そして、総攻撃をかけて、集落を次つぎと焼き払った。蕃人たちは山奥に逃げ込んだ。
 日本軍は、宮古島難民事件が発生した牡丹社を制圧し、そのまま占領をつづけた。

 ただ、西郷軍の戦死者は12人であったが、占領地の環境は劣悪で、凱旋の途に就く7か月間に、マラリア病で561人の死者を出した。

 明治政府は、西郷軍が強引に出兵したことを清国に通達していなかった。アヘン戦争後に、清国に権益を持つイギリスにも知らせていなかった。外交的には失策であった。
 清国の実力者の李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは、日本の軍事行動にたいして激しく反発した。
 台湾出兵の事件処理として、日本政府は内務卿の切れ者の大久保利通を全権弁理大臣として北京に向かわせた。9月から清国政府と交渉した。
「台湾蕃地は、先に外務卿の副島種臣が交渉したときに、清国の領土ではないと言ったではないか」
 大久保は主張するが、
「もともと台湾は古来の中国領土である」
 李鴻章が反発する。
 双方が決裂寸前で、日清の双方が戦争でも起こりかねない雰囲気になってきた。北京駐在の英国大使・エドワードが調停を申し出てきた。

①台湾は清国の領土と認める
②清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払う。
③日本軍が台湾に道路をつくり、営舎を建てた40万両を払う。
④1874年12月20日までに征討軍を撤退させる。
 
 清国は、日本軍の台湾出兵の理由が、宮古島難民の義挙と承認した。つまり、江戸時代に薩摩藩が侵略した琉球の民が、いまや日本人だと清国が認めたのだと、鹿児島出身の大久保利通はそう認識したのだ。
 琉球の事務はすべて外務省の管轄であった。琉球国の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなったといい、大久保は内務省の管轄に移させた。


【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (3)

 日本国内では、このごろ板垣退助、後藤象二郎、江藤新平などを中心として「朝鮮討つべし」という征韓論が巻き上がっていた。
 鎖国政策の朝鮮が、明治天皇の国書の受理を拒否した。その国書には「皇」、「勅」という文字があり、それは清皇帝しか使えないものだ、こんな国書は朝鮮に対して無礼だと言い、突き返したのだ。
 江戸時代を通して、朝鮮は対馬藩しか交易をしていない。新政府とは交易しないという。日本政府が幾度となく交渉をくりかえしても、国書を突き返される。

「明治天皇の国書は、欧米の国は快く受け取っておる。隣国の朝鮮がひじ鉄をくらわすとはけしからん。朝鮮を征討するべし」
 それはかつてペリー提督がわが国にみせた、武力威圧的な開国要求を真似たものだった。日本中がその方向に流れていた。征韓論が閣議決定された。
 
 明治6年9月13日、岩倉使節団が欧米9か国から帰国すると、征韓論に反対を唱えた。西郷たち征韓論派は、政府の中心から排除された。

 徳川幕府を倒した主力は薩摩藩なのに、新政府は冷遇している。薩摩の下級藩士は爆発寸前にあった。下級武士の不満のエネルギーを台湾征伐に使おうと、薩摩出身の西郷隆盛も、大久保利通も、大山綱良の出兵提案にたいして賛成、推進派だった。
「ここは、清国に琉球住民は日本に帰属すると意思表示する好機だ」
 日本が清に対して強気の態度を見せる。
 宮古島の台湾遭難事件が、征韓論から台湾出兵に目を逸らす好機ととらえたのだ。

 明治政府は、まず外交交渉に及び、副島種臣を清に派遣した。
 清国側は、「琉球は清国の属国であり、琉球人が害を受けたか、否かを問わず、日本には全然関係ない事件である」と突き放した。
「それでは清国は、台湾の生蕃(せいばん、中央政府に従わない原住人)をしっかり統治しているのか」
 副島種臣が問うた。
「生蕃は化外(国家統治の及ばない地)の民である」
「化外の民とは、つまり統治できていない民という意味だ。わが国は兵を派遣して、害を及ぼす台湾の生蕃を討つ。そのときになって異議を唱えないように」
 副島は揚げ足を取ったのだ。

 副島は帰国して、台湾征討の必要性を強調した。薩摩藩の下級士族などは狂喜した。

 しかし、徹底して反対したのが木戸孝允だった。日本国内は経済的も疲弊している。
「国力増強、富国と近代化が優先だ。戦争などすれば、日本は疲弊してしまう」
 それでなくとも、明治の御一新で期待した人民の不平が高まり、士族の乱、農民一揆が多発している。戦争などしている場合ではない。木戸孝允はかたくなに台湾出兵を反対して下野してしまう。

 明治7年、閣議決定で台湾征討が決定した。明治天皇は出兵の勅許を出した。そして、西郷従道にたいして台湾征伐の命令が下った。

 ところが、台湾征伐中止の事態が起きるのだ。
                              
                                     【つづく】