歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「推薦・幕末企画展」 浅野氏・入城400年記念および明治150年記念「戊辰戦争と広島」=広島城 

 ことし(2018年)が明治維新150年である。来年が浅野家が紀州から広島に入城してから400年になる。それを記念した企画展が、広島市・広島城で開催されています。
 幕末史において、これまで広島藩の存在は恣意的に消されてきました。しかし、歴史の真実は掘り起こされるものです。広島藩・浅野家が徳川政権の打倒に立ち上がった。幕末史が塗り替えられ始めています。

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 広島城・天守閣において浅野氏・入城400年記念および明治150年記念「戊辰戦争と広島」が開催されています。平成30年11月3日(祝・土)~12月16日(日)※休館日 12/11(火)・12(水)です。
 開館時間:11月→9:00~18:00 12月→9:00~17:00(いずれも入館は閉館の30分前まで)
 観覧料:大人370円(280円)、シニア・高校生180円(100円)、中学生以下無料です。


展示ガイド:学芸員が展示の見どころをご案内します。
◆日時:会期中の日・祝日  ※11/4・23・12/16を除く
   ①11:00~ ②14:00~(所要時間各約15分)
◆参加費:無料(観覧料が必要です)
◆事前申込;不要
◆会場:天守閣第四層

スペシャル展示ガイド:12月16日(日)
①11:00~ ②14:00~ (所要時間各30分)
「幕末維新と広島藩」「戊辰戦争と広島藩兵」を執筆した、郷土史研究家・尾川健氏が詳しく解説します。

 この企画展は、広島藩の活躍がビジュアルに展示されています。

「推薦・図書」 神機隊ものがたり = 東広島郷土史研究会 

 紙芝居の絵をベースにした「神機隊ものがたり」が、東広島郷土史研究会の吉本正就(まさなり)さんが、冊子として編集・発行された。
 
 副題は「志和の地に誕生し、日本の歴史の舞台に躍り出た英雄たちの話しです」と称し、総ルビで、小学生からも読みやすくなっています。

 神機隊の発足から奥州戦争まで、かれらの活躍が紙芝居、写真、地図を中心に簡素にして明瞭に紹介されています。
 

 広島県内の学校教育の副読本としても、有益な歴史本です。また、神機隊の足跡を訪ねるには、とても便利な冊子です。
 
 冊子には定価がついていませんが、吉本さんに依頼すれば、300円(送料別)で、分けていただけます。

東広島郷土史研究会 東広島市志和町志和西2300ー1 吉本正就さん

「知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍」広島県・大竹市=講演案内

 わたしの講演会・明治維新150年記念『知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍』が、11月24日、広島県・大竹市総合市民会館2階ホールで開催されます。時間は13時30分から16時まで。

 共催は大竹市教育委員会、大竹市歴史研究会。入場料は無料です。

 「薩長倒幕」が最近、疑問が呈されています。かたや、昭和53年にわずか300部、世に出てきた広島藩・浅野家史「芸藩志」から、倒幕の主導は広島藩だった、とクローズアップされてきました。

 河合三十郎、橋本素助編「芸藩志」は、ペリー来航から明治4年の廃藩置県まで、克明に記載されており、全国の史実と照合しても信ぴょう性が高い。

 明治政府がこの芸藩志を厳格に封印したのは、薩長閥の政治家が「俺たちが徳川政権を倒幕したのだ」と胸を張るのには、とても不都合だったからです。

 一方で「防長回天史」は、井上馨の圧力による、長州を美化した私的な要素が強い。不都合なことは記載されていない。事実のわい曲だ、あやしげだ、これまでの薩長史観は鵜呑(うのみ)みにできない、と厳しい批判の目にさらされはじめました。

 講演では広島藩側から、第二次長州征討(長州戦争)の大竹、大野、五日市、廿日市の甚大な被害から、徳川政権の倒幕への展開を克明にお話していきます。
 

 【講演の主だったところ】

 慶応2年、第二次長州征討(長州戦争)まえに、広島藩主の浅野長訓(ながみち)、世子の長勲(ながこと)らが先頭に立ち、幕府の再征には大義がないと非戦を唱えました。

 幕府軍の指揮を執るために、老中の小笠原長行が広島表にきた。執政(家老職)・野村帯刀(たてわき)が折衝する席で幕府をつよく批判したことから、謹慎(きんしん)処分をうけました。
 同年5月、おなじく執政・辻将曹(つじ しょうそう)が幕府に対して非戦をつよく訴えた。すると、辻将曹も武士としては致命的な謹慎処分をうけた。

 老中・小笠原の横暴に対し、広島藩の学問所(現・修道学園)の有志たちは憤り、夜を徹して議論し、「執政の謹慎は藩主をないがしろにした、頭ごなしの処分である。わが藩にたいする脅迫にも等しい、老中の首を打ち取るべし」と決意する。それは切腹を覚悟する行動でした。

 拙著『広島藩の志士』(倒幕の主役は広島藩だった)は、ここからストーリーがはじまります。

 浅野家の世子・長勲が、不穏(ふおん)な空気から、すべての藩士を広島城内にあつめました。「いましばらく自重せよ、身分を問わず腹蔵するところ藩に建白せよ」と申しわたしました。

 文武師範(しはん)の55人が連署で建白した。『藩主の直命があれば、水火も辞せず(命も惜しまず)、暴挙に対して行動を起こします、今後とも長州藩ヘの出兵は固く拒否してください』という趣旨だった。この抵抗運動が德川倒幕への精神となりました。

 広島藩は若者の意見を取り入れて不参戦を表明した。小笠原老中は藩内の過激な動きに怖れをなして、夜に紛れて広島を脱し、小倉に移っていった。

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 しかしながら、慶応2年6月には第二次長州征討が勃発(ぼっぱつ)した。大竹から廿日市まで、戦場になってしまった。
 ……町並の家々は焼かれ、農民は田畑を踏み荒らされ、無差別な暴行をくり返えされた。流浪の難民となった数はかぞえきれない。庶民の生活が甚大な影響をこうむり、荒廃してしまった。

 広島藩は戦争反対、開戦反対の建白を20回に及び、出兵を辞退していながらも、わが領地が戦禍にさらされてしまった。
 藩主の長訓以下、無念の極みだった。ここで徳川政権に見切りをつけます。
「こんな徳川家には政権を任せられない。このままだと、いずれ西欧列強の餌食になってしまう。徳川家には天皇家に政権を返上させよう」
 藩主・長訓、世子・長勲、執政・辻将曹たち、そして若い家臣たちが、倒幕へと藩論を統一し、大政奉還運動を加速させていきます。

 当時、政治の中心となっていた京都で、広島藩士たち上下を問わず、烈しく倒幕活動を展開していきます。岡山、鳥取、徳島、津などへ働きかけます。
 さらに公武合体派の薩摩藩を巻き込みます。
 御手洗交易で親密な薩摩は、広島藩の提案する大政奉還という倒幕運動に同調します。ここで、土佐藩の後藤象二郎も巻き込みますが、山内容堂の出兵拒否にあってしまった。
 そこで、禁門の変から朝敵だった長州藩を、薩芸は秘密裏に仲間に加えます。ここに薩長芸軍事同盟が結ばれます。

 慶応3年秋、波乱に満ちた歴史がははげしく動きます。大政奉還、3藩進発(挙兵)、小御所会議における明治新政府の誕生、鳥羽伏見の戦いへと展開します。

 第二次長州征討の最大の被害地だった大竹市で、この歴史展開を語ります。

【近代史革命】 大政奉還は市民革命の前ぶれだった。だが、薩長が軍事革命を起こした

 現代とは過去からの歴史の延長線上にある。将来は若者たちのものである。

 現代の政治家は、1100兆円もの赤字国債を累積させながらも、その債務の解決ができず、先送りし、将来の若者たちにそれを払わせる算段だ。
 そんな為政者たちが、50年、100年後を背負う若者たちの行動を規範とする憲法までも変えようとしている。これにはいろいろな意見や見解はあるだろう。
 正しいか、間違っているか。為政者のだれもが1世紀後まで生きていないので、実証、確証は取れない。~声が大きく、数が多い、もっともらしい。これが正義だ、正道だと勘違させてしまう。
 わたしたちの歴史はそれを物語っている。


 民主主義の語源は、「優れた人」を意味する。

 この民主主義を勝ち取るために、イギリスも、フランスも、アメリカも、民衆が血を流してまでも、勝ち取った。それが市民革命である。

 産業革命、さらに資本主義に進むなかで、優れた民衆が、「わたしたちに政治をやらせよ」、と立ち上がった。貴族も民衆も、ともに血を流した。そして、議会制民主主義へと到達した。つまり、民衆が司法、立法、行政の三権分立の政治体制をつくったのだ。

 
 日本には、市民革命の歴史がない。日本の民衆がみずから血を流す民主革命を経験せず、武士階級が明治維新を経て議院内閣制度をつくった。民衆には「お上の言いなり」という封建制・武家支配のままのDNAが流れている。 

 市民らが政治・施政にたいして多少の反対運動をしても、最後は仕方ない、あきらめで、引っ込むか、忘れてしまうふりをする。ほとんどが、為政者の都合で、将来の絵をかいた展開におちついていく。


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  慶応3年10月、徳川家は無血で政権を天皇家に返還した。つまり、大政奉還である。この段階で、民主国家ができる可能性があった。
 イギリスの政治には『国王は君臨すれども統治せず」というかたちがある。単一国家の日本において「天皇は君臨すれども、統治せず」という政治形態がつくれたのである。

 それを描いた人物がいる。広島藩・浅野家の辻将曹(つじ しょうそう)である。執政(家老の職務)として、第二次長州征討(長州戦争)では徹底して非戦論を唱え、謹慎処分を受けた。それでも屈せず、非戦を貫いた。そして、出兵拒否で、藩論を統一した。
 その後においても、
「民衆を塗炭(とたん)の苦しみにおく、こんな徳川家には、もう政権を任せられない」
 と大政奉還をおしすすめた中心人物だ。

 慶応3年、いよいよ大政奉還が実現する寸前で、ある公卿が、辻将曹に対して、『明治天皇は幼い(14歳)。天子を助けて政務に当たれる公家がいるとはおもえない。大政奉還によって、かえって政治が乱れ、人民はその方向性を失う、この点をいかに思うか』、と問いただした。


『賢明な人民、庶民でも才能あれば、これを抜擢し、登用して官吏(かんり)にさせます。そして、公議をつくし、勅裁をあおぎ、万機をただす。天皇を頂点に据えても、この国は運営していけます』
 天皇を頂点とした立憲君主制を以って、万民の力で、国家運営を図れる。つまり、身分を問わず、政治の場に登用し、国家を運営する。そのための大政奉還だった。それが辻将曹の理念でもあった。

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 しかし、西郷隆盛、大久保利通は、上司だった小松帯刀を霧島(鹿児島)の温泉地に追いやって、京都で、武力革命を起こした。それが鳥羽・伏見の戦いで、長州も、鳥取藩も、諸藩も乗ってきた。さらに戊辰戦争へと拡大した。それは武士=軍人が支配と権力を奪う戦争であり、市民革命ではなかった。

 維新後の薩長の軍人政治家にとって、広島藩・浅野家の平和主義はかぎりなく不都合だった。歴史から広島藩、浅野家を徹底して消していった。

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 明治時代から、軍事政治家による支配がつづく。大日本帝国憲法で、天皇が現人神となり、日本男子は兵役の義務を課せられ、日清、日露、第一次、満州、日中、太平洋戦争へと戦争国家として突き進む。
 民衆が政治を批判すれば、国賊だった。民主主義の根幹は思想・信条の自由であり、少数派の尊重であるが、そういう芽も育たなかった。

 
 維新が「近代国家への道」というが、これは事実誤認だ。「近代産業の導入」であって、国家は軍事力なり。富国強兵の政策は、どこまでも鳥羽伏見から得た軍人支配の延長にあった。民のための政治ではない。いわゆる、政治の後進国だった。

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 戦後の日本は、米軍の統治下におかれた。非戦を高々にうたう理想の憲法ができた。これは民衆が勝ち取ったものではない。だから、朝鮮戦争が起きると、日米安保条約という、超法規、つまり憲法よりも強い拘束力の条約が私たちの頭上にかぶさっても、民はそれに従うのみだ。

 現在の議員制度は、投票で選ぶ代議士が政治を決めていく。一見して、民主国家に思えるが、わたしたち市民の力で勝ち取った政治体制ではない。どこまでも、お上のやる政治なのだ。
 投票すれば、それが民主主義の世のなかだと思い込まないことだ。

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 歴史教科では教えないけれど、幕末に大統領制、中央集権制の導入を唱えたのが、徳川家だった。
 広島藩の辻将曹が、大政奉還について、慶喜将軍に面とむかって、
「賢明な人民、庶民でも才能あれば、これを抜擢し、登用して官吏にさせます。武家の職にあるものでも、実務に成熟しているものも官途につけるべきです。万民の力で国家運営を図るのが望ましい政治です」
 辻将曹が説いたのが、天皇を頂点とした立憲君主制だったから、徳川慶喜は大政奉還を受けて立ったのだ。

 小御所会議で、明治新政府が樹立したあと、慶喜は新国家のために現金・8万両を出している。欧米に近い民主国家をめざす慶喜も辻将曹も、まさか1か月後に、鳥羽・伏見で下級武士による軍事クーデターが起きる、とは予測もしていなかったのだ。


 辻将曹は、鳥羽伏見で広島藩の正規軍に一発の銃弾も撃たせなかった。慶喜は国内の混乱を避けるために、京都から、大坂、そして江戸にもどった。そして、江戸城の明け渡しを指示し、みずから上野・寛永寺に謹慎したのだ。

 
 毒舌の勝海舟が、晩年の口述・氷川清話で、「幕末にはろくな家老がいなかったが、藩を導けるまともな家老は辻将曹と、岡本半助(彦根藩)だけだ」と述べている。
 
 勝は晩年まで頭のなかに、辻将曹が掲げた民主主義の理念がつよく残っていたのだろう。

           *
 
 政治は50年、100年単位でみる必要もある。軍事革命の鳥羽伏見の戦いはわずか150年前だ。当時も、いまも、庶民がみずから内閣総理大臣は変えられない仕組みである。市民がみずから優秀なトップを選べない。
 見方を変えれば、民主主義からほど遠く思える。

 民主主義とは、「優れた人」を意味する。数百人の代議士のみが選ぶ、内閣制度も疑問を呈してはどうだろう。
 憲法論議が起きた今、いっそうのこと民衆が直接に国内のトップを選べる、大統領制にする方法もある。血を流さず、無血革命として、大統領制度へと憲法を切り替える好機、市民革命のチャンスかもしれない。
 どうせ投票するならば、わたしたちはずばり国家の頂点を選んでみたいものだ。たとえ、その人物が傲慢で、民のためにならなくても、あきらめがつくし、トップの選びなおしも可能だ。お上・至上主義の日本人の政治感覚と価値観が変わっていくだろう。

 長い1世紀、2世紀の歴史からみれば、これも市民革命の流れから必然かもしれない。そういう議論が起きてもふしぎではない。

 歴史を変えてきたのは、常に燃える若者たちだった。将来は若者たちのものである。かれらは今のいまの政治体制だけでなく、西洋、東洋、日本の歴史を2世紀ほどさかのぼり、歴史から学び、そこからジャッジしてほしい。
 

                       【了】
   
 

地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨(3)

 マルタの近衛兵はソフトな感じだ。長く植民地支配に甘んじていたらしく、刺々しさはない。マルタの治安はすこぶる良好である。
 バックなど路面において撮影していても、不安感はない。日本とおなじ治安の良さを感じる。


 イタリア・ローマを悪くいうわけではないが、観光地には小銃を持った軍人が要所、要所に立って警戒している。ホームレスの物貰いの老婆を怒鳴りつけていた。あの嫌悪感はマルタにはなかった。

「騎士団長の宮殿」の学芸員を訪ねてみる。ふたりの学芸員が応対してくれたが、第一次世界大戦の資料はないという。バレッタの市街地には、探し求める高間完が通っていたmr.Dimeche一家に該当する本屋もないと話す。

 実際に、それらしき本屋は街中になかった。事前のマルタ観光局の説明通りだった。

 

 高間完の目線で、マルタ人の気質とか、町を知りたいと、バレッタの街なかを歩きまわった。最先端の海岸にいくと、観光馬車の客引きがいた。30ユーロだという。ひとことで言えば、浅草の観光人力車の類だった。

「戦争博物館(Malta at War Museum )にいきたい」というと、知らないという。本当かな。地図でスリーマを示すと、ここらは大きな湾曲の対岸だから、バスで行っても30分は費やすという。たしかに、地図上では極端な深いリアス式海岸だ。

 橋が架かっていなかった江戸時代に、左岸から右岸に行ってくれ、といわれても、簡単にはいけない。わたしなりに、地形からそう理解した。むろん、イギリス大英帝国の海軍の軍港として、地中海における最高の地形だったのだろう。

「フェリーに乗れば、簡単に対岸に渡れるよ」

 海上から100年前の軍港をみてみたかったわたしにすれば、念願の船に乗れる機会がおとずれたのだ。それならば、と馬車に乗った。

 馬の蹄(ひずめ)が、カタコト・カタコトと鳴る。高間完たちは海軍の軍人と言えども、乗馬の訓練は受けているだろう。スリーマの軍港から、バレッタの本屋に向かうときはボートだろうが、ときには乗馬で移動することもあったのかな、と思う。
 マルタ人に訊いても、ここらの詳細はまったくわからない。当時は軍人の移動すら軍機密だろう。


 
 ここがフェリー乗り場だという。閑散としていた。少女が次のフェリーを待っていた。発着時間表もあったので、馬車の案内は間違っていなかった。

 次第に客が集まってきた。ほとんどが観光客だが、船賃は生活の足として1,5ユーロ(日本円で約220円)と安かった。

 日本海軍の駆逐艦が、100年前に、このスリーマ港のイギリス基地に入港していたのか、とおもうと、特別な感慨が持てた。
 
 上陸すると、坂道を徒歩で10分ほどでマルタ戦争博物館に着いた。受付で、訊ねると、
『第一次世界大戦のころは、マルタは植民地でした。戦争関連資料は現地にはありません。イギリス・ロンドンで調べないと出てきません』
 まさしく、そうだろう。第二次世界大戦のとき、日本は朝鮮を植民地にしていた。朝鮮人に、日本帝国海軍の動きや資料などわたっているはずがない。そう思えば、すべて納得だった。

 受付嬢が「日本の作家が100年前のマルタ人を探しに来た」といい、奥から女性学芸員を呼び出してくれた。とても喜んでくれた。

 彼女は難解な用語は避けてくれたり、言い回しを変えてくれる。結果は皆無だが、高間完のスペルを教えてほしいとか、わたしのメールアドレスとかを訊き、日本海軍の高間完がわかれば、連絡をしてくれるという。

 地中海派遣では犠牲になった日本軍人がいる。かれらが眠る墓地へと向かう。戦争博物館前のバス停で、路線バスN03だと教わった。近くまで行ったけれど、閑散として案内板もなく、目標物もないし、通行人も皆無だし、とうとう断念した。

 高間完の新しい発見はなにもなかった。
 明治・大正・昭和の戦争の政治・経済などからみた起因はそれなりに知識はある。だが、戦場となると、戦争賛美になるようで、書く気すらもないし、軍艦名すら関心がなかった。わたしとすれば、高間完という将校と民間人との心の交流が知りたいのだ。相手は本屋さんなのだ。

 恩師の伊藤桂一氏は戦記物で直木賞を取っているけれど、わたしにすれば、戦争に対する考え方と体質がちがう。
 
 日本に帰化した外国人作家C.W. ニコル著「特務艦隊 」は、日英同盟をもとに日本海軍が、地中海に艦隊を派遣した、戦場そのものを扱っている。成田からローマへの往路の飛行機で斜め読みしていたが、とおく足元にも及ばなかった。


 墓地は見つからないし、タクシーはないし、復路でやってきたバスに乗りこみ、バレッタに帰ってきた。
  

 夕方、フェリー乗り場では、2隻の大型客船の同時出航の風景が見られた。

 目の前で、入航時とは真逆の180度旋回し、豪快に出航していく。ふと思いついて、動画に収めた。

マルタ島・バレッタ港から出航する大型客船が狭い航路だけに、ど迫力である。

              【つづく】

 


地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨(2)

 マルタ島は、イギリス支配下が長かった。それだけに、英語が母国語なみに通じる。こちらの質問があやふやでも、文法通りでなくても、相手は充分くみ取ってくれる。

 日本に来た外国人から、「知っている、銀座」と問いかけられても、この人は銀座に行きたいんだな、忖度(そんたく)して、交通機関を教えてあげられる。
 それとおなじ。こちらがネーティブな英語の答えを聞き取れるヒアリング力さえあれば、5W1H的な質問で、十二分に通用する。

 マルタ島のホテルは、リゾート地で、アメリカ資本の豪華なホテルだった。およそ、Dバッグの旅行者には似合わない。これならば、ツアーの約2倍だ、と妙に納得させられた。

 フロントの女性から、いきなり「お水を飲みますか」と問われた。戸惑う。どういう意味ですか、と聞き返しても、同様のことばしか返ってこない。
 わたしは久しく使っていない英語が理解できないのかな、と思った。
 すると、グラス・コップを見せられた。『駆けつけ一杯の日本酒』ならば、即座に理解できたはずだか、フロントで水を勧められる習慣にはおどろかされた。

 わたしはかつて米国を旅したとき英語で質問できても、答えが聞き取れなかった。その反省からしゃべれなくてもよいと思った。東京はFEN(横田基地の米軍放送)が聞ける。ニュースをカセットに録音し、毎日2時間、3年半にわたって英語のシャワーを浴びている。

 thなど、日本人の発音のないものはとうとう聞き取れなかったが、ニュースの速さでも、かなりところついていける。ただ、耳で受け止められても、頭のなかで翻訳しようとすると、止まってしまうけれど……。

 駆けつけ一杯の水から、わたしの英語の日々がスタートした。

 地理を知るためにも、欧米人の雰囲気になれるためにも、翌朝、宿泊ホテルで「1日乗り放題の観光バス」の乗り場とチケットの購入方法を訊いた。


 首都・バレッタに近づいた。そろそろ観光バスから降る算段をした。乗り継ぎ自由だから、気が楽だ。

 メイン通りはにぎわっていた。マルタ島には日本人・中国人らしき東洋人が皆無だ。ナイジェリアなど近いはずだが、アフリカ系のひともいない。まわりは欧米系とマルタ人だけだ。

 ローマの東洋人の多さのうんざり感から、1日で解放された。と同時に、ケータイ通信がないし、現代の日本など、どうでもよくなった。スムーズに100年前の世界への連想に入り込めた。
 
「100年前の高間完中尉は、目のまえにある風景や人物に接し、どんな気持ちになれたのか」
 わたしはつねに自分の思慮をそこにおくことができた。


 バレッタのメイン通りの左右はすべて傾斜道だった。事前にマルタ観光局から仕入れた知識によると、古代の騎士団の防御のために作られた地形らしい。数千年の歴史がある都市だから、100年前の日本軍人がみた地形と同じ、と教わっていた。その目で凝視できた。

 高間完はこのバレッタの街を左右を見ながら、歩いたのだろう、と感慨を持てた。

  
 かたや、石造りのアパートで、ほとんどが低層だった。「木の文化」の日本人ならば、スクラップ・アンド・ビルドで、まずは全部取り壊してしまうだろう。湿気が多い、日本で数百年の石の家にしろ、かび臭くて、耐えられないだろう、と現代人の目にもなってしまう。
 

 わたしには寺院の興味がない。高間完は晩年にはキリスト教徒になったと聞いている。となると、聖堂を訪ねている可能性は高い。バレッタでも名高い一つに足を向けた。
 ローマのように数百人の列だったら、時間の無駄で止める気でいた。ちょうど12時の昼食どきだったので、20人ほどの列だった。

 聖堂の内部は撮影が自由で、フラッシュだけは禁止だった。
 一眼レフならば、うまく撮れるのにな、と思ったが、Dバッグ一つでは古いデジカメだけだ。そのうえ、画素数の高いスマホカメラは失くしている。「写りが悪いな。ぶれるな」とカメラの静止に工夫を凝らしながら、シャッターを押していた。
 それでも、日本のように、なんでも撮影禁止とちがい、心地よい。

 高間完はどんな想いで聖堂のなかを鑑賞していたのだろう。

西洋人は、首を高く曲げて、感心して魅入っている。だが、わたしのほうは宗教画を観ながら、日本の浮世絵とか、春画とかと比べていた。

 日本が安政時代に開国すると、大量の浮世絵がヨーロッパに流れた。宗教に拘束されたヨーロッパの画家たちは、日本の天真爛漫な絵師の体質に驚いた。
 江戸時代は13-14歳で女子は嫁に行く。春画は嫁入り道具と一緒に持たされる類のものだ。日常生活のなかに溶け込んでいた。

 宗教画の画家などが、浮世絵に飛びついた。つまり、日本が浮世絵を通して自由主義を輸出したのだ。ヨーロッパでは絵から、科学技術、思想、政治へと発展した。

 明治時代の日本人は、ヨーロッパの自由主義の絵だと言われても、およそなにが自由なのか、よくわからなかったのだ。

 現在でも、多くの日本人は、「自由主義は欧米から来た」と勘違いしている。宗教画を凝視するほどに、浮世絵の果たした役割が実感できた。 

地中海のマルタ島を訪ねて=100年前の彷徨 (1)

 地中海に浮かぶマルタ島はかつてイスラム帝国、スペイン、フランス・ナポレオン、そしてイギリスの植民地だった。第二次世界大戦後も久しくイギリス支配がつづいた。1964(昭和49)年にマルタ共和国として独立している。
「地中海の美しすぎる島」と呼ばれているけれど、海外通の日本人ですらも、名まえは知らっているが、同国を訪ねたひとはほとんどいない。

 わたしはことし(2018年)10月2日から、空路・ローマ経由でマルタ島に入った。目的はちょうど100年前に、地中海にやってきた旧日本海軍の若き将校・高間完(たもつ)の足跡を訪ねる取材だった。
 予備知識で、この春先には東京・新橋にあるマルタ共和国観光局を訪ねた。そこで、高間完中尉が1919年に撮影した写真と、その裏書を示した。
『寄港地のマルタの首都・バレッタで大きな書店を開いていた親友のmr.Dimeche一家に贈った同一(焼増し)のものだ』と記する。
 さらに付箋紙で、こう書かれていた。
『かつては、俺にも、こんな青春(26才)があったのだ。然し、それは海軍のために、全てを捧げつくしてしまったのだ。何の惜気も、未練も、執念も、はたまた悔恨もなく‼ (八十五歳誕生日 偶感)』

 担当局員が懇切丁寧に、ネット、関連資料などで調べてくれた。「現在は、該当するmr.Dimecheなる本屋さんはありませんね」という気の毒な表情の顔だった。

 
 ふつうならば、ここで取材はあきらめる。100年前の高間完がマルタ島で、現地人とどんな空気感をもって接していたのか。軍人と民間人。それがやみくもに知りたくなった。日々に、マルタ共和国に行きたい気持ちが募るばかりだった。

           ☆

 私は取材型で小説を書く。架空や空想で書くのは3、40代の習作までだった。プロ作家となってから、より事実に近いところで書く、それを読者に示す姿勢が漸次強まってきた。いまでは、取材無くして、小説を書けないところにまで来ている。

「現地を歩けば、なにか得られるだろう」
 それが思わぬ真実の発見であったりする。歴史小説にはとくに有効だった。

 ただ、取材コストに見合った印税など、おやそ縁がない貧乏作家だ。子どもの頃から「おまえは欲がなさすぎる。ゼッタイに商売人にはなるな」と実母からくり返し言われたものだ。
 講座や講演でも、求められたら舞い上がり、コストの観念などはどうでもよくなる。国内ならば、いざ知らず、海外取材となると、金銭のねん出がむずかしい。
 まずはパスポートを作り、わたしは自分を鼓舞した。そして、金策を考えた。妻にむかって、「死んだときにしか入らない生命保険を解約してもいいかな。取材費に使いたい。どうせ死後、子供にわたっても、2~3日でバーッと使われておしまいだろう」と持ちかけた。

「好きなようにどうぞ」と一つ返事だった。それは本音か否かの詮索など不要だ。その言質を取ると、すぐさま旅行会社に申し込んだ。

 数少ない企画・マルタ島ツアーを勧められた。わたしには企画通りの旅など毛頭、思慮になかった。

 8日間の日程に合わせた航空券とホテルを手配してもらった。その金額はツアー・バックの2倍くらい。ずいぶんと高いものだなと一瞬思ってもみたが、生命保険の解約金額からみれば、割安感たっぷり。

 あきれ顔の妻の質問は、からめ手だった。「息子が、もし父親がマルタかどこかで死んだら、僕が引き取りにことになるの? と聞かれたけれど」と問う。
「取材先で死んだら、ボディを探したり、引き取りも拒否すればいいさ。墓など作らなくてもいいよ」

 わたしはかつて「山で死んでも、遺体は探すな、捜索費用が高いから」とつねに家族に言いおいてきた。だから50代まで、家族に登る山岳は教えなかった。
 最近は登山カードがうるさいご時世だし、社会批判も強い。だから、それはやめて、登山計画書は残していく。

「ボディも、墓も不要」
 わたしの考えが息子にうまく伝わったかどうか知らない。息子は早大時代にきな臭いアフガンとか、パキスタンとかに放浪し、数か月、連絡がとれずにいた。母親(妻)がいたずらに心配していた。血筋だろうか。父親の生死など案じるはずがない。
「この10月に転職するから、いきなり、マルタ島なんて行けないって」と妻経由で、予想通りの回答がきた。
 子どもはわが道を行けばいいのさ、と思う。

          ☆

 ヨーロッパは初めての経験だ。軽登山用30LのDバッグ一つ。パソコンと資料を入れたら、あとは下着は上下一組。乗り継ぎ先のローマで1日過ごそう。そして、下着を買い揃える。航空券はその手配だった。あとはクレジットカードがあれば、なんとでもなる。

 観光地のローマでは寺院旧跡に出むいてみたが、入場の長い列とダフ屋が群がっている。日本人と中国人の観光客ばかりで、うんざりした。

 わたしは遺跡に興味ないし、噴水とか、広場とか、ぶらぶらしてから、好奇心で、観光地に群がる客引きの乱暴なタクシーに、ものは経験で試乗してみた。むろん、値段を決めてから乗り込んだ。
 運ちゃんは想像通り、道交法などあって無いような運転で、人間やバイクはドケドケ、道を空けろ、という荒っぽい運転だ。怒鳴りまくっている。若くて美しい娘がいると、スピードを緩め、車窓から冷やかしと口笛を吹く。
 わたしは面白がっていた。カード支払いは危ないので、現金のユーロにした。下車の際にケータイを落してしまった。
「悪名高きローマだ。東京とちがって、遺失物が出てくるはずがない」
 すぐにあきらめた。

 予備のタブレットを持っていた。だが、3年前に無駄な通信費だと回線は切っている。つまり、電話はできない。メールだけである。欧州で使えるWH-FIを起動させたが、「LINE」のパスワードを忘れており、立ちあがらず、ライン電話はできない。

 高所登山、冬山では、生死を分けるアクシデントが起きても、落ち着いた判断と行動する能力がつねに求められる。それは瞬時に、気持ちを切り替えることである。
「こんなアクシデントは旅の良い想い出になる。ありがたい」
 そのままマルタ島に入った。

             ☆

 高間完とは、拙著「二十歳の炎」「広島藩の志士」「神機隊物語」で主役で登場する、高間省三の弟の子である。つまり、高間省三の甥っこである。

 完は、広島高等師範付属中学から、江田島の海軍兵学校に進み、海軍士官、太平洋戦争の勃発時には戦艦「榛名」の艦長だった。昭和20年には中将で、のちに勲一等を受賞している。

 軍歴を見れば、海軍の超エリートだった。
 
 20世紀に入ると、第一次世界大戦が勃発した。大戦後半に入ると、ドイツ潜水艦のUボート300隻が地中海で暴れ回った。英仏の軍用艦を華々しく優勢に攻めたのだ。連合軍の商船が、魚雷で延べ5300隻も沈没させられている。

 日英同盟の下で、日露戦争の海戦で勝った日本海軍が、危険なヨーロッパ戦線に派兵をもとめられた。日本国内は賛否両論。加藤友三郎海軍大臣(神機隊の加藤種之助の実弟)が第1~第3の特務艦隊をつくり、その最も危険な海域のマルタ島に、日本海軍を援軍として派遣したのである。 
 高間完中尉は第二特務艦隊の司令官のひとりだった。そして、駆逐艦の橄欖(かんらん)に乗船し、独Uボートの攻撃から、英仏の輸送船や艦船を守る任務についた。
 かれにすれば、約一年半におよぶ遠征だった。

 日本海軍の護衛活動は、英仏の連合軍諸国から、後々まで高く評価されている。

 

 高間完が80歳の晩年にしての、思い出は軍人の手柄話でなかった。太平洋戦争の軍艦「榛名」の艦長の語りでもなかった。

「これが俺の青春だった」と書き残したのは、第一次世界大戦のさなかヨーロッパに派遣された27歳の中尉の想い出である。

 地中海の孤島・マルタ島のバレッタにすむ民間人の書店主と『親友』という交流が、かれの生涯の財産だったのだ。つまり、植民地民族の人と心を通わせていた。その精神が、わたしには魅力ある人物に思えるのだ。

 1919年のマルタ島の書店主。当然ながら、当人は生存していない。それでも、Dバッグひとつで地中海に出むいたのだ。

         【つづく】


『講座・案内』 穂高健一「幕末・維新を動かした人たち」=朝日カルチャー・千葉

朝日カルチャー千葉 第3回「幕末・維新を動かした人たち」

 講師=穂高健一

 開催日= 第3週・土曜日 13:00~15:00

 参加費= 3回 会員 9,072円 一般 10,368円


 10月20日(土) 13:00~15:00

  坂本龍馬と長州戦争

 坂本龍馬が介在した薩長同盟と、第一次長州戦争と第二次長州戦争の実態はいかなるものだったのか。長州は幕府の休戦協定後、表立って徳川倒幕への動きはできなかった。

 龍馬は、藩論一致で倒幕を決めた芸州広島藩に傾倒していった。

11月17日(土) 13:00~15:00

 徳川慶喜と大政奉還

 江戸幕府は260余年も安泰がつづいた。
 15代将軍・徳川慶喜が独断で、政権を天皇家にもどした。二条城で、慶喜はだれにも文句を言わせず押し切った。慶喜は家康の再来といわれた実力者だった。明治に入っても、「ケイキさん」と庶民に慕われた。


12月15日(土) 13:00~15:00

  岩倉具視と王政復古

 岩倉具視は孝明天皇から謹慎処分を受けていた。
 突如として、岩倉が明治新政府に座ったことで、予想外のことが起きた。親政が日本書紀、古事記の律令政治の再現までさかのぼった。明治天皇が神さま。かかげた祭政一致が、岩倉の政治権力づくりの狙いだった。


 この「幕末・維新を動かした人たち」は、人物の視点・思想から歴史をとらえる、連続講座です。

第1回目

 4月21日(土) 大塩平八郎と天明・天保の大飢饉
 5月19日(土) 阿部正弘とペリー提督来航
 6月16日(土) 岩瀬忠震と日米通商条約

第2回目

 7月21日(土) 吉田松陰の軍事思想と中国侵略
 8月18日(土) 島津久光と薩摩藩の贋金づくり
 9月15日(土) 木戸孝允が武門政治の終結させた。

そして、こんかいが第3回目です。

【申し込み】
朝日カルチャー千葉「幕末・維新を動かした人たち」

【講演・案内】穂高健一講演「德川が育てた人財たち~近代化の真の立役者~」=神奈川県・大和市 =

 こんねん(2018)10月28日(日曜日)午前11時から、穂高健一が「德川が育てた人財たち~近代化の真の立役者~」演目の講演をおこなう。

 この企画は『明治維新150周年記念・プロジェクト幕末』のシリーズもので、わたしが第8回「幕末の徳川家」に招ねかれて、講演の部を受け持つものである。

 主催者=一般財団法人天文郷芸術文化財団

 場所=和食&中華『DINING華』
    神奈川県大和市中央5-6-1

 参加費=5000円 (幕末ゆかりの和食コースメニューをご用意)

 箏演奏=酒井悦子さん
 国際的な演奏活動をおこなう。世界各国の来賓の歓迎レセプションなど迎賓館で演奏する。


 申込み= TEL&FAX 046-204-8141

【講演・案内】~知られざる幕末から明治維新=葛飾区立水元図書館

 穂高健一の幕末講演会『知られざる幕末から明治維新』が、葛飾区立水元図書館で、平成30年9月22日(土曜)午後2時から4時まで開催されます。

【詳細】

講師・穂高健一

日時 9月22日(土曜)午後2時から4時
      開場時間*午後1時30分

会場 葛飾区立水元図書館2階「水元集い交流館」
   葛飾区東水元1-7-3
    
アクセス JR金町駅・京成金町駅 駅前からバス 「葛飾総合体育館前」で下車

定員  50人(当日先着順)

入場料 無料

お問い合わせ先 03-3627-3111

 掲載写真 2018年1月28日、葛飾区立立石図書館、約100人の参加者です。

 3月・東広島市、5月、広島市・船越、9月8日(土曜)広島・五日市ともに約150人の参加者がありました。

 水元の会場はやや狭くて、定員がありますから、お早めに入場ください。