A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【徳川幕府瓦解への道を検証する】② 第二次長州戦争が大きな災いになる

 歴史小説家は、想像で書くことで、読者の高揚感を持ち上げて、一気に読んでもらう手法をとる。最も楽な方向は、英雄を立てて、ワクワク、ドキドキ、と読ませていくことだろう。
 ただ、怖いのは読者がそれを史実として認識してしまうことである。

 戦争は突き詰めれば、「お金の問題」、つまり「経済問題」である。慶応二年の第二次長州戦争は、「薩長同盟」で語られる。そうだろうか。薩摩が薩英戦争のあと、イギリスに賠償金を払う金がなかった。幕府から借りて支払うくらいだ。

 第一次長州戦争で、全権委任の総督・徳川慶勝と、参謀・西郷隆盛が、そのまま滞在し、京都の朝廷に奏聞(意向を図り)しておけば、孝明天皇の意向による処置で、解決できたはずである。
 尊攘派の慶勝・西郷が独断で、慶応元(1862)年正月四日、長州問題を未解決で、あいまいなまま総軍を撤収してしまった。それが幕府の再征討におよんだ。
 これが幕府にとっては、災いを大きくして命取りになってしまったのだ。

 第二次征討においても、薩摩藩の賛美や「薩長同盟」賞賛が目につくけれど、しょせん西郷隆盛が薩摩藩の小松帯刀家老に進言し、長州戦争に突入すれば、巨大な軍費がかかると言い、非戦を進言したから兵を出さなかったのである。
 薩摩は経済的な打算が理由であった。
 
 広島藩、薩摩藩、肥後藩(九州・小倉口では肥後藩が老中・小笠原と喧嘩になり、引き揚げ)が非戦の態度をとり、攻撃に大きな穴を開けた。これでは勝てるわけがなかった。
 ここから、幕府瓦解(かがい)が加速していくのだ。


【第二次長州戦争の検証】

①  幕府は、毛利敬親の父子と、八月十八日クーデターで都落ちした公家(長州に五卿がいた)を江戸に招集し、幕閣がみずから長州処分を解決しようとした。
 それがかえって諸藩や朝廷の反発を招いてしまった。

② 広島藩などに、「毛利敬親などを捕縛して、江戸に連れてくるように」と命じた。広島藩はとても実行不可能だと、固辞した。

③ 幕府は慶応元年五月十六日に、再征討をきめた。紀州藩など11藩に出陣を命じた。先の総引き揚げから約五か月後の出陣は反発が大きかった。
 京都にいる慶喜と江戸の幕閣とで、意見の不統一があり、諸藩に不評を買った。

④ 幕府と長州の仲介役の広島藩は、再征討の大義名分がないし、いったん戦端が開かれると、周辺諸国も戦場化し、人民が塗炭(とたん・苦しい境遇)になる、と反対した。

⑤ 大目付役・永井尚志や老中・小笠原長行が広島にきて、長州藩の使者を呼びだす。不調だった。仲介の広島藩は、藩主・長訓、世子・長勲、執政の野村帯刀や辻将曹らが、「第一次長州戦争で、幕府の全権委任が徳川慶勝が解決済みとした。長州への再征討は大義名分かぼなぃ」と戦争に強く反対した。

⑥ 広島藩内で、物価が高騰し、庶民生活が苦しくなった。学問所の55人が、広島藩執政を次々に謹慎処分したと言い、老中・小笠原を暗殺予告をする長勲が止める。
 かれらが後に神機隊創立の母体になる。

⑦ 薩摩藩は、西郷隆盛が家老の小松帯刀にたいして、薩英戦争後で戦費もイギリスに払えておらず、ここで長州の戦いをすれば無駄な戦費になると、戦争回避を進言した。
 大久保利通が老中首座の板倉勝清に、戦争不参加を申し渡す。
 長州への四境戦略のうち、萩への海上攻撃がなくなる。

⑧ 先陣の広島藩が出兵拒否をする。旧式武器の彦根藩と越後高田藩が先陣になる。

⑨ 幕府海軍は、寄せ集め隊で、軍艦からの砲撃は、弾の消費になると、攻撃を惜しんだ。

➉ 肥後藩の司令官が、小倉で、小笠原老中と大げんかし、九州の大半が引き揚げてしまった。小倉城は自焼する。

⑪ 慶応二年七月に、家茂将軍が亡くなる。

⑫ 慶喜は八月に自ら広島にでむく予定だったが、家茂将軍が亡くなり、小倉も不利と見て、出陣を止めてしまう。

⑬ 勝海舟が宮島にきて、休戦協定を結ぶ。

⑭ 広島藩は従軍しなかったが、長州藩と紀州藩とが芸州口で戦い、大竹から五日市など住民に死傷者をだし、田地を荒廃させてしまった。

 この後において、孝明天皇が12月に崩御し、翌年、広島藩は薩摩と手を結び、朝敵の長州を巻き込んで「薩長芸軍事同盟」をむすぶ。そして、大政奉還運動へと加速していくのだった。        

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