歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史に学ぶ】疫病が政治を変える (上) = 文久の改革は麻疹(ましん)大流行の副産物だった

 人類は疫病(えきびょう)、戦争、飢餓(きが)との戦いの歴史である。現在、新型コロナウイルスが世界的な流行で、2020年初には我が国にも外国から入ってきた。それから1年余りが経っ。しかし、同コロナの収束の気配はない。
 いまなお、ヨーロッパなどではロックダウンなど、政治の施策の中心が疫病対策である。

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 疫病がどのように政治を変えたのだろうか。
 わが国では奈良・平安時代において、中国貿易から疫病が入り、とてつもなく死者を出してきた。中世は流行り病との戦いである。
 ところが、鎖国政策をとった徳川幕府は、それなりに外国からの疫病防御になっていた。
 
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 疫病が政治を動かした面で、顕著な事例が幕末史のなかにみいだせる。歴史から学ぶ。それを紹介してみたい。
 ペリー提督の浦賀来航から、わが国は鎖国政策を放棄した。欧米列強と和親条約をむすび、開国した。一方で、徳川御三家でありながら水戸藩を中心に、無理難題な鎖国にもどらせ、と叫ぶ「尊王攘夷運動」が全国に拡大した。

 日米修好通商条約の勅許(ちょっきょ)問題から、将軍の世継ぎ問題から、国論を二分する「安政の大獄」が起きた。かたや、天皇・公家の権力が強まり、朝廷政治へと傾きはじめた。
 薩摩・長州・土佐の雄藩が台頭してきた。

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 和宮の降嫁による公武合体から「坂下門の変」が起きた。そして、薩摩藩の島津久光が1000人の兵を連れて上洛(京都)、東下(江戸)へとやってきた。
「文久の幕政改革」を求めて慶喜・慶永政権が生まれる。
 この久光一行は帰路に、生麦事件(現・神奈川県横浜市)を起こした。それがイギリスとの薩英戦争につながった。

 この「文久の改革」とは、薩長の力が強くなり、幕府の権威が失態していたからだと、私たちは教えられてきた。
 幕府が、なぜ、無冠の久光の要求を受け入れたのか。背景には何があったのか。幕府は薩摩藩の1000人の兵、京都で台頭してきた朝廷が怖かったわけではないのだ。


絵画=江戸時代の麻疹・火葬場でに棺桶が山積みになる。 ネットより
 
 薩摩藩の島津久光は、文久2年3月、鹿児島を発ち、大兵を率いて京都に上洛した。その途中で、長崎に上陸した麻疹(ましん・はしか)のウィルスを京都、江戸に運んできたのだ。
 江戸では、とたんに麻疹の死者が急激に広がった。感染病は身分など選ばない。武士も町民も恐怖のどん底に突き落とされた。

「一橋家の徳川慶喜を将軍の後見人に、松平春嶽を政事総裁にする。勅使の大原殿の意思である。勅答をいただきたい」
 久光は朝廷の勅使を背景にし、幕府を脅す。
「勅使といえども、幕政の関与はお断りする」
 老中や幕閣たちは当初から要求を拒否していた。
 そもそも、九州の果てから江戸にやってきたきた無冠の島津久光など、かまっていられない。麻疹の感染で、江戸が混乱していたのだから。

「めんどくさい奴らだ」
 江戸は麻疹の大流行で、5人に一人は発症している。

 久光は延々と居座る。
 日本橋かいわいは棺桶の列だ。1日、棺が橋を渡ること200におよぶ。荼毘(だび・火葬場)の煙は絶えず、寺院は葬式を行ういとまがない。疫病対策といっても、神仏にすがるしか方策はない。

「幕政をあれこれ政権の内部を変える時期ではない。庶民を守ることが優先だ」
 江戸では文久二年7月より、大流行している。
 麻疹絵と呼ばれる色鮮やかな錦絵や、麻疹をネタとした戯作、「麻疹なぞなぞ集」、麻疹道化百人一首、麻疹養生書など、さまざまな出版物が氾濫(はんらん)した。

 当時の資料では、こう記す。 
『病ことさら盛んにして、いのちを失う者幾千人なりや、量ることができない。三昧の寺院、さる丑年、暴瀉病(ぼうしゃびょう・コレラ)の流行の時に倍して、公験(きって)をもって火を約し、病状は重いし、死者の数が多い。しごとも干上がっておる』

「わかった、わかった。慶喜・慶永を幕府のトップにすえる」
 そんな風な態度だったのだろう。
 銭湯、風呂屋,髪結いには客がない。新吉原の花街の娼妓はそれぞれ患う。女郎買いの来客を迎えられない楼閣が多い。
 現代の新型コロナ対策でいう、休業処置のさなかだ。

「鋳造権をよこせ」
 薩摩は下心がありすぎる。琉球通宝を認めれば、徳川家は最も重要な利権を弱めることになりかねない。
 勘定奉行の小栗上野介忠順は、琉球通宝のあと、諸々の贋金を造る糸がみえていた。これを認めれば、将来に遺恨を残す。幕府の土台を壊してしまう、と大反対だった。
「薩摩藩77万石の民は、極貧である。地獄に落ちる寸前である。薩摩が苦しんでいるのに、幕府がそれを助けないのは、おかしい」
「琉球の密貿易を行いながら、なにを白々しい」
 小栗上野介は反対する。
 過去に、幕府が鋳造許可をあたえた例外が一度だけある。それは天保の大飢饉で苦しむ、仙台伊達家に期限付きで認めたものだ。
「仙台藩の事例があるではないか」
 島津久光が江戸にきた最大の狙いは、まさに贋金づくりである。
 久光の腹の底を見抜いていた勘定奉行(大蔵大臣)の小栗上野介、徹頭徹尾、反対していた。
「老中首座の水野忠精どの。勘定奉行は変えられたほうが良い。小栗は頭から鋳造権は、徳川家の独占だと言い、耳を傾けない。諸藩の希望に聞く耳をもたぬ、そんな人物は幕府のなかのガンである」
 久光は江戸に駐留する千人の軍事軍事威圧で、水野忠精との面談にもちこんでいたのだ。小栗上野介は勘定奉行から町奉行に転出させられた。
『琉球通宝の鋳造は、内分で聞きおく。ただし3年間かぎりである。監視役もつける』
 水野忠精が折れたのである。

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 島津久光一行は、鋳造許可を鹿児島にもちかえると、何をしたのか。同行してきた幕府の監視役をすぐさま犯罪人として屋久島へ島流ししている。
「琉球通宝」の鋳造の鋳型の文字を『天保通宝』に変えて、大量に贋金をつくった。そして、広島・御手洗港、大坂の三井組を通じて、流通させたのだ。
 偽金を幕府の正金に両替した。

 鹿児島の贋金工場では千数百人が働いていた。幕府からの監視役は屋久島送りだ。国越えの関所は、鹿児島弁でない者は問答無用で斬り殺し、機密をまもる。
 さらに悪乗りして薩摩藩はメッキ2分金の贋金をつくった。それを長崎に運び武器商人のグラバー、横浜のマセソン商会から、大量の蒸気軍艦を買いつけたのだ。

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 これが島津一行による「文久の改革」の姿だった。
 明治になり、薩長政権になると、文久改革が久光によって成したと、美化される。まさに、歴史は勝者によって改ざんされる。

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 当時の「武江年表」によると、文久2年には、江戸市内の各お寺が受付けた麻疹による新墓は、23万9862基と報告されている。

                     【つづく】

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