A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【歴史から学ぶ】 西郷、木戸、大久保はなぜ「明治の三傑」と呼ばれるのか

 明治時代の初期、戊辰戦争から西南戦争までは、日本の社会が根底から変化した画期的な10年間である。
 西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通のこの3人は、幕末に活躍したことで、よく知られている。だが、「幕末三傑」とはいわず、「明治の三傑」といわれる。なぜか。明治に日本の重要なかじ取りをしてきたのか。そうとばかり言えない、大隈重信、 江藤新平、岩倉具視、井上馨、伊藤博文と明治には次つぎと名まえがでてくる。

「明治の三傑」は一つの時代を築いた3人だが、明治10~11年にかけて、西郷は戦死、木戸は病死、大久保は暗殺で亡くなっている。
 
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 明治初期の10年間は、政治、経済、社会が急激に変化した。しかし、解らない点が多々ある。素朴な質問として、

① 薩長の志士は、倒幕まで「尊王攘夷」を掲げていたのに、明治になると、なぜ開国主義になり、西洋化、近代化の道に進みはじめたのか?

② 明治新政府の誕生では、「王政復古」を掲げながらも、なぜ「文明開化」の路線をつづけたのか?

③ 源平時代からの武士政権が、なぜいとも簡単に消えてしまったのだろう?

 この3つを一度に的確に応えられるひとは、歴史学者でもそんなにはいないだろう。

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 明治の10年間で、武士社会と封建制度がなぜ一気に消えたのか。廃刀禁止令、断髪禁止令はかたちから入り、袴姿の武士たちが、西洋のダンディな洋服に変わらせた。風俗・社会ではたしかに見た目は変わった。
 このときから、現代の服装とまったく変わらなくなった。


写真・肖像画=ネットより(左寄り・木戸孝允、西郷隆盛・大久保利通)

 明治4(1871)年の廃藩置県で、300余藩の大名(殿さま)が一瞬にして日本中からなくなってしまった。そして、府県の中央政権になった。現在における都道府県の知事制度である。

 こんな大事件の明治4年に、主要な政治家の岩倉具視、大久保利通、木戸孝允たちがそろって大勢で外遊する。日本国の政治は大丈夫なのか。そんな不安はなかったのか、と首を傾げたくなる。あまりにも大胆すぎる。

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 岩倉使節団が横浜から出発するときには武士の姿であるが、西洋社会・近代文明と出合い、帰国するときはハイカラな洋装だった。

「西洋かぶれ」と批判される大久保利通と木戸孝允だった。留守組みの西郷隆盛は征韓論を掲げて、ハイカラ組と対立した。
 西郷は政論に敗れて下野していく。おなじく下野した江藤新平などは「士族の反乱」を起こし、西郷隆盛も蜂起した西南戦争が起きた。政府軍(大久保利通)が勝利し終結した。

 西郷隆盛は賊軍の将という理由で、いまだ靖国神社に祀られていない。太平洋戦争のA級戦犯は祀られている。その基準はよく解らないけれど。
 靖国神社=長州神社だと陰でいわれている。幕末の当初は薩摩と長州の仲が悪かった。薩長同盟は結んだけれど、心底からの和解でなかったのか。となると、西郷隆盛は未だに長州からよく思われていないのかもしれない。(推測だけれど)。

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 薩摩藩の西郷隆盛といえば、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、廃藩置県などで、日本の歴史をおおきく変えた人物にまちがいない。
 その西郷・大久保から、追討令を出されて打ち負かされたはずの徳川慶喜(15代将軍)が、明治35(1902)年には公爵に叙せら、6年後の明治41年には 勲一等旭日大綬章が授与されている。

 何のための戊辰戦争だったか、よく解らない。これらの歴史的な矛盾は理解されないまま、今日に至っている。

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 武家社会のスタートは、平安時代の後期の源平のころにさかのぼる。特定の領主が土地と人民を支配する、という封建制度が約700年間にわたり続いてきた。

 明治に入ると、木戸孝允と大久保利通は中央集権化を目指した。それは約300藩をすべて廃止して、明治中央政府に一元化するものだった。
 薩長両藩で、その廃藩置県の案が密かにすすめられていた。

 かたや、全国の300諸藩は、戊辰戦争の過大な戦費から、赤字財政に悩み苦しんでいた。なかには贋金(にせがね)で対応する藩もあった。もはや藩運営の限界、藩政を投げ出したい気持の大名が多かったのである。
 明治2年には「版籍奉還」によって大名から「知藩事」になっていた。それはただ形だけのものであった。

 明治4(1871)年7月14日、明治政府は在東京の知藩事を皇居にあつめたうえで、廃藩置県を命じた。
 抵抗すれば、西郷隆盛が、薩長土の兵からなる親兵をもって鎮圧する予定だった。軍事クーデター計画すら練っていたのだ

① 大名の収入は従来の藩収入の10%として補償する。

② 大名の家族は、全員が東京に居住する。

③ 藩の債務はすべて明治政府が引き継ぐ。
 
 藩財政に悩む知藩事は、まさに「渡りに船」である。かたや、軍事制圧でのぞむ西郷隆盛は拍子抜けで、腕の振るいようがなかった。

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 西洋諸国では、封建制度の貴族階級をつぶすのに50年~100年かかっている。日本は1日にして武士特権階級が消えたのだ。あえて抵抗勢力がいるとすれば、薩摩藩の島津久光である。それは西郷・大久保の頭を悩ますだけのものにとどまった。

 西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通の3人が密にして、機をみて、この大事業をおこなったことから、日本が根底から変わってしまったのだ。大事業どころか、大革命となったのだ。まさに政治革命、経済革命、社会革命が一夜にして成功したのだ。

 
写真=横浜港

 わが国は一夜にして「封建主義」から脱却し、西洋の「資本主義」導入へと突き進むんでいくことになった。
 産業構造が手作業から機械化へと変わった。民は土地に縛られず、職業選択の自由が得られた。四民平等で、利と金さえあれば資本家にもなれた。
 西洋化が激流のごとく勢いが止まらず、道路・鉄道・通信のインフラが全国各地ですすむ。

 国内のどの港からでも海外に行けるから、国際化の商業と貿易へと難なくすすむ。外国人の往来が多くなると、西洋の明るい文明が流入する。通信とか、新聞とか、ジャーナリズムの発展になった。
 日本人の強い好奇心から、ハイカラな文化に憧れて、丁髷(ちょんまげ)など恥ずかしいものになった。
 ただ、ふしぎなのはキリスト教の信者が思いのほか伸びず、クリスマス、お盆、お宮参り、と吸収してしまったことである。それが現代にまで及んでいる。

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 明治の三傑の3人らは五里霧中の改革であったが、「廃藩置県」で世のなかがここまで大改革になる、とは思わなかったのだろう。だから、かれらは悠長に1年半も外遊できたのだ。

『いさぎよく水に流す』日本人の気質なのか。

 過ぎてしまえば、慶喜すら勲一等だ。
 尊王攘夷など、理屈抜きで吹き飛んでいた。だれも問題にしない。「王政復古」の祭政一致など西洋文明の下に蹴散らされてしまったのだ。
 結果として、廃藩置県が「明治における最大の改革」となった。明治の三傑と称される由縁である。と同時に、現代社会への出発点となった。

                    【了】

 

 

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