歴史の旅・真実とロマンをもとめて

明治時代~昭和中期の広島③ 天下に先立つ洋紙製造・浅野長勲(上) 

 広島藩の浅野長勲(あさの ながこと)といえば、倒幕に活躍した人物である。

 薩長芸軍事同盟、大政奉還、小御所会議での明治新政府の樹立というグランド・デザイン(倒幕・企画)を作り、辻将曹(つじしょうそう)とともに、それを成した人物である。


 小御所会議のエピソードは有名だ。
「この場に、なぜ慶喜将軍を呼ばない」と土佐藩の山内容堂(ようどう)は激怒する。「幼帝とはなにごとだ」と公卿の岩倉具視(ともみ)が反論する。大激論で、ひとまず休憩をとった。

 すると、薩摩藩の西郷隆盛が、「短刀一丁で片付く」と岩倉に暗殺を助言する。「天皇臨席の御所が血で汚れる。新政府の樹立どころでなくなる」

 もし実行されていたら、日本史は変わっていただろう。
 参列していた浅野長勲が、執政・辻をつかって岩倉と山内を仲介した。

 落としどころは、山内容堂に沈黙させる、そして慶喜に事後報告する、ここは新政府の樹立を最優先にするという妥協だった。
 その休憩のあと、山内は寡黙(かもく)を通した。ここに王政復古の大号令で、明治新政府ができたのである。

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 戊辰戦争、さらに箱館戦争、それらが明治2年に終わると、新政府は近代化をめざしはじめた。

「農村(石高)から工業(貨幣)の社会に変えていく。日本をはやく欧米のような資本主義にしよう」
 めざすことばとは裏腹に、全国の武士190万人は封建制の瓦解(がかい)から、失業していた。妻子をふくめて、どう生きていくか。明日の自分の姿が見えなかった。農村では一揆はすさまじく多発する。

 参勤交代の消えた東京となると、大名屋敷がことごとく無人になった。それら建物を取り壊して、輸出できるお茶と桑を植えた。閑散とした風景になってしまった。

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 明治政府は、それでも近代化のために電信、郵便、鉄道などインフラ整備と、官営の富岡製糸場、横須賀製鉄所などを推し進めた。

 しかし、民間による産業革命は起きなかった。民間の最初の近代化といえば、人力車からである。武士はかつて朝な夕なに剣術に励んだ。没落士族の体力が生かされる人力車だったのだ。
 明治3年3月22日に営業許可がでた。1年後には東京だけでも、2万5000台を越えた。


 新政府の樹立につくした広島藩・最後の大名となった浅野長勲(ながこと)は、廃藩置県で府県知事から退いたけれど、国家発展への強い意志をもっていた。

 かれは私財を投じて、近代化への素地となる日本初の洋紙製造会社をつくったのである。ちょうど30歳である。場所は東京茅場町で、『有恒社』(ゆうこうしゃ)と名乗った。現代も名をなす王子製紙、三菱製紙などよりも1年早やかった。

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 長勲の先見性と設立・稼働の苦労をたどってみよう。

「火事と喧嘩は江戸の華」
 明治5(1872)年2月に、皇居・和田倉門の旧会津藩邸から出火し、丸の内、銀座の33町の22町が焼失し、さらに築地一帯を焼く惨事だった。銀座大火と呼ばれている。

 銀座近くには、近代化の花形となる蒸気鉄道が、同年10月14日に開業する予定だ。となり町に、新橋ステーションがある。
 明治新政府は、銀座の焼け跡に民・官を問わず、いっさい建築物をつくらせなかった。私有地の利用は、お上の命令で、全面的に制限されたのだ。

 新政府はなにを考えたか。


               完成した銀座の煉瓦街

 政府は、諸外国にも好いところを見せようと、焼け野原の銀座にレンガ造りで統一した不燃化の町をめざしたのだ。
 大蔵省が設計者としてお雇い外国人のトーマス・ウォートルス(Thomas James Waters)に、その企画を依頼したのである。

 かれは前の年に大阪の造幣寮(現・造幣局)の応接所の設計をおこなっている。その建物は外周にトスカナ式の花崗岩の円柱を立て、内装は美しく、天井も高く、シャンデリアが設置されている。
 明治天皇が3度も行幸したほどだ。

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 長勲は、この著名な設計者のトーマス・ウォートルスと出会い、日本初の洋紙製造工場の設立へと動きはじめるのである。

「日本が西洋文明を導入するには、新聞、雑誌、書籍、辞書が不可欠です。政治、経済、科学、文化、文学がひろく国民につたわることです。一国の発展は、文運の進歩に依存します」
 ウォートルスが近代化を長勲に語った。

 德川幕府の時代から、日本には活版印刷の技術が入ってきていた。(幕府がオランダから長崎に、イギリスからは江戸に機械を購入していた)。蘭学者、洋学者らがその機械で印刷していた。
 そこで使われる洋紙は、すべて輸入に頼っていた。
 明治時代になっても、切手、ハガキ、汽車の切符も輸入紙である。

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 和紙は活版印刷のインクがにじみ出て使えない。まして辞書などの両面印刷に、和紙は無理である。ただ、洋紙を輸入に頼ってばかりいると、日本が活字文化になるほど、貿易収支は赤字になっていく。
 トーマス・ウォートルスと長勲のふたりは、ここらの認識が一致した。

「日本人は器用です。洋紙製造工場をつくられたら如何ですか」
 ウォートルスがアドバイスをしてくれた。
「国の財政は大赤字です。しかし、資金難を理由にしていると、近代化が遅れる。私が出資し、製紙工場をつくる場合、助言してもらいたい」
「協力したいところですが、私は政府との雇用契約です。ルール違反になります」
「なにか、妙案はありませんか」
「浅野さんが直接、政府に申し出れば拒否されるでしょう。築地居留地のイギリス公使館に出むいて、公使から日本政府に要望すれば、可能かと思います」
「西洋人には弱い。成功しそうだ」
 ウォートルスの助言が、ずばり当たった。

 長勲は、家令の中野静衛を製紙工場づくりの担当にさせた。

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  当時、銀座大通りの竹川町は大火災からまぬがれていた。

 銀座建築技師のウォートルスは、設計図の洋紙(トレースなど)を母国・イギリスから取り寄せていた。その購入の取次窓口は銀座・竹川町の紙店であった。
 ウォートルスの紹介と長勲の指図で中野静衛が、西洋紙の紙商人の杉井茂三郎を訪ねた。なんと芸州・三次出身だった。
 杉井は壮年のころに、江戸に出てきて、安政時代に横浜が開港すると貿易の鉄砲商人になっていた。大倉喜八郎の手足になって働いたともいう。
 いまは銀座の紙商人だった。
 中野が聞けば、紙の御用で広島藩にも出入りしていたという。

「手前は紙は売っていますが、製紙する機械がどんなものか、見たことはありません。しかし、機械の輸入は可能です」
 杉井茂三郎から聞いた一連の話しを長勲に報告した。

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「さようか。日本人で、製紙機械はまだ誰も見たことがないのか。なおさら、それを日本に入れて洋紙の製紙工場をつくる必要性を感じた。よし、やろう」
 長勲が決断した。
「広島藩の失業した武士の雇用にも、一役買うだろう」
「イギリスの現地では、工場見学すら難しいようです。秘密主義で。ここからどのようにすすめていくのか。難問です」
「建築技師のウォートルスさんに、知恵を借りよう」

                               【つづく】
                         
《トピック》
 徳川幕府から、明治の「御一新」に変わった。農民から政治家まで、だれもが時代の端境期に翻弄(ほんろう)された。

 天下取りをした薩長土肥の下級武士たちは、さも自分を輝かしい人物と錯覚したのか、政治権力を悪用し、威張り、癒着し、「官営産業の払戻し」を利用して儲かるという汚いことを平気でやった。歴史の恥部(ちぶ)である。

 一例では尾去沢鉱山事件(井上馨)、山城屋和助憤死事件(山縣有朋)、開拓使官有物・払下げ事件(黒田清隆、五代友厚)、台湾出兵(岩崎弥太郎)など……。近代化の裏は政治家、政商が儲かる、という汚(よご)れた実像がある。
 もしや、この体質は現在の政財界に続いているのかもしれない。

 だれのために政治をしているのか。なんのための御一新だったのか。浅野長勲がどんな想いだったかと想像しながら、次回へと進んでください。

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