歴史の旅・真実とロマンをもとめて

東京大学の銀杏は黄葉の盛り=彰義隊のシンポジウムに参加してみて

 ことし(2018)12月1に安田講堂シンポジウム「彰義隊の上野戦争-明治150年に考える」が開催された。主催は市川総合研究所、入場料2000円。広島の歴史関係者が上京されて聴講されるという。
 私は主催者の代表理事の大蔵八郎さんと先日、名刺を交わし、同シンポジウムの参加を勧められていたので足を運んだ。

 東京大学は縁がなかったし、同校内にはじめて訪れた。

 東大構内に入ると、広々とした環境で、銀杏並木の黄葉が盛りだった。目には鮮やかに染まり、とても心地よかった。絵を描く人、写真を撮る人、外国人の観光客が多かった。

 構内が観光化している光景にも驚かされた。

 私はふだんとちがい、ただ聴講だけのシンポジウムなので、気楽な気持ちで聞くことができた。
 ことし発刊した拙書「神機隊物語」では、神機隊が上野戦争に参加し、彰義隊と戦った情景も深く掘り下げている。当然ながら、私の上野戦争関連の取材は細部に及んだ。

 それだけに、パネリストたちの上野戦争の彰義隊を語る発言に納得したり、懐疑的になったりもした。

 歴史はひとそれぞれ解釈の仕方があってもよい。しかし、いくらなんでも、これはひどいや、と思ったのが、冒頭の長唄「楠公」の岡安社中の解説だった。

 安田講堂の壇上で、約10数人が和装で並んで唄、三味線、囃子などを披露した。

 楠公(楠正成)の解説・歌詞をみると、彰義隊が楠正成の軍で、新政府軍が足利尊氏になぞらえている。「まさか。嘘だろう」となんども疑った。

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 広島藩・学問所の頼山陽が『日本外史』で、「湊川の戦い」を全国に知らしめた。

「湊川の戦い」とは、
 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、天皇制の親政を布いた。それが建武の中興(けんむのちゅうこう)である。
 ところが、武家政治をめざした足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗をひるがし、離反した。そこで、後醍醐天皇に忠誠を尽くす楠正成が、わずかな兵で、足利尊氏を迎え撃つ。それが湊川の戦い(現・神戸駅前)である。

 むろん、楠公たちは全員が討死である。

 頼山陽はその悲劇を名文調で、謳いあげたのだ。それが幕末における尊王の志士たちのバイブルになった。
 楠正成は、明治、大正、昭和の太平洋戦争まで、天皇に忠君だと崇め奉られてきた。


「長唄・岡安社中」の説明は、これがまるで逆で、旧徳川幕府・彰義隊が楠正成になっている。新政府(天皇軍)が足利尊氏になっているのだ。

「建武の中興」は知っているのかな。いい加減だな、と思った。

 シンポジウムは、パネリストとして、戊辰戦争の彰義隊のひいき筋の作家・かたや新政府軍側の歴史作家たちが8人が次つぎに語った。

 新政府軍はなんでも薩長である。会津戦争の中心となった板垣退助(土佐藩)など、だれひとり語らなかった。

 鳥羽伏見の戦いのあと、江戸城開城、そして上野戦争ではアームストロング砲でわずか半日で戦いが終わった。その話題に終始する。

 彰義隊にたいする新鮮な切り口がないうえ、遺体処理などの新発見もないし、研究不足である。パネリストたちの説明は、敵と味方という中・高校生なみの史観だと思った。

 

 

 戦争とはそうそう突発的に起こるのでなく、段々と規模が大きくなっていくものだ。

 鳥羽・伏見の戦い →  阿波沖海戦 → 甲州勝沼の戦い → 梁田 戦い そして江戸開城 → 宇都宮城の戦い(指揮官:大鳥圭介、土方歳三) →  市川・船橋の戦い、→ 五井の戦い → 今市 →  鯨波(柏崎近傍の鯨波にて新政府軍と旧幕府勢力が交戦し、新政府軍が勝利した。) → 彰義隊が解散に応じなくて上野戦争、・飯能戦争に及んだ。

 こんなふうに正確に理解しているのかな、パネリストたちは。

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 聴くかぎりにおいて、壇上のパネリストたちは鳥羽伏見の戦いから、一気に江戸城開城、そして彰義隊の戦いへと話しが飛ぶ。まるで、ゲームのごとく語る。

 戦争は人間どうしが殺しあうもの。双方の力バランスが崩れるなかで拡大していく。それがわかってない。最も肝心な戦争・和平がせめぎ合う中間がぬけ落ちているのだ。

 かれらは歴史作家と標榜(ひょうぼう)しているが、「戦争を知らない世代」の弱点かなと思った。


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