歴史の旅・真実とロマンをもとめて

神機隊~志和で生まれた炎~≪8≫福島県に眠る高間省三=プスネット連載より 

 いわき平城が自焼し、陥落した。新政府軍は白河・会津方面と、相馬・仙台方面の二手に分かれた。
 慶応4年7月22日、広島藩から自費で参戦した神機隊と、鳥取藩の2隊とが兵卒600人弱でいわき平から太平洋沿岸に沿って北上していく。

 かれらの大砲は4斤山砲(よんきん・さんぽう)だった。4斤とは砲弾の重量が4キログラムである。山砲は分解して、馬の背にのせて山路や悪路でも運搬できた。最大射程は2・6キロメートルである。

 砲手(ほうしゅ)には、弾道(だんどう)計算や火薬の幾何学の専門知識が必要である。砲隊長の指揮能力は、軍隊の勝敗にも影響する。

 翌23日、浅見川(あさみがわ)の戦い、24日から広野(ひろの)宿で大激戦となった。相馬・仙台連合と旧幕府軍は推定4000人強の兵力である。敵は高台の有利な立地から、連日、昼夜問わず、狙い撃ちしてくる。

 7月26日、鳥取藩の砲隊長の近藤類蔵(るいぞう)が重傷を負った。久ノ浜の旅籠(はたご)・亀田屋に搬送されたが、当日に息絶えた。享年37歳だった。
 広野の戦いは神機隊の砲隊長・高間省三の奇策で、大逆転して切り抜けられた。

 7月晦日、高間は武具奉行の多須衞あてに手紙を書いている。『皇道の興廃(こうはい)は今日(こんにち)の役にあり。私は王事のために死せん。願わくは、両親は喜びて哀しむなかれ』と死を覚悟した内容だ。
 これは日露戦争の有名な「皇国の興廃この一戦にあり」は、神機隊・第一小隊長の加藤種之介から、実弟の友三郎が高間の決意をおそわり、連合艦隊参謀長(後に総理大臣)として、「三笠」の艦上に伝わったものと思わる。

 翌・8月1日の朝、神機隊は先手として高瀬川の木橋を渡り、浪江の砦に迫った。その勢いで高間が敵陣に一番乗りした。刹那(せつな)、敵弾が額から後頭部に抜けた。壮絶な死だった。

 高間省三の遺体は双葉町の自性院に葬られた。享年21歳である。現在は、広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。

 奇(く)しくも神機隊と鳥取藩の双方の砲隊長(ほうたいちょう)が命を落としているのだ。


 久ノ浜の木村芳秀(よしひで)さん(亀田屋の遠戚)宅には、近藤類蔵の霊璽(れいじ)という位牌と、「神霊・砲手19人の名入り」幟(のぼり)が5流残されている。命日の7月26日にはその幟を庭先に立てて供養している。150年間の今日もつづく。
 現地のひとの慰霊の精神には頭が下がる。

 かたや、高間省三は東日本大震災による放射能の被災地に眠るので、一般人の墓参はむずかしい。


 写真:広島護国神社・藤本武則宮司が特別立入許可で、自性院(福島・双葉町)に眠る高間省三の墓に詣でる。


【関連情報】
「神機隊」ウィキペディア


                   【つづく】
                     
                    

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