A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

湊川神社(神戸)巫女(みこ)との縁はここにもあり

 神戸駅前の湊川(みなとがわ)神社に行って、えっ、こんなに大きな神社なんだ、とおどろいた。前まえから、同神社は気になっていた。
 その実、楠正成(くすのきまさしげ)なる武将は、名まえは知っていても、複雑な南北朝時代のことで、内容はよくわからなかった。

 いま執筆中の長編歴史小説の作品には、頼山陽が描いた『湊川の戦い』を登場させている。鎌倉時代から南北朝にかけた一連の歴史を知り、それなりに精読して同神社にでむいた。
 

 湊川の戦いは、建武3(1336)年5月25日に、摂津国湊川(現・神戸市)で、九州から北上した足利尊氏(あしかがたかうじ)と、少人数で迎え撃つ新田義貞(にったよしさだ)・楠正成(くすのきまさしげ)の間で行われた合戦である。

 私が、この湊川の戦に関心を寄せはじめたのは、約10年ほどまえ、新谷道太郎「維新志士・新谷翁の話」と出会ったときからである。

【1節】

『四藩軍事同盟』(薩長土芸)が、御手洗で結ばれた。4藩連合が成立しても、はたしてこれが都合よくいくかどうか、みな心配である。
 坂本龍馬がこういった。
「薩長芸土が力を合わせても、味方はわずかに200万石、その兵力は1万人にも足りない。しかるに徳川家は800万石を持っている。旗本八万旗がひかえている。まだ、その上に150か国の大小名がつくと、数の上では勝ち目がない」
 そう一人、がっかりすると、外の3藩のものもみな弱る。
「坂本君、君は日本政紀(せいき※頼山陽著)を読んだか」
 私(新谷)はひとり不思議に元気がでた。
「そのようなものは読んだことはない。それがこの場合何になるのじゃ」
「まあ、聞け。それでは話そう。むかし建武の中興に、楠正成はどうじゃった。とうとう足利尊氏に負けて、湊川で討ち死にをしたが、今になってみると、はたして尊氏が勝ったのか、正成が敗けたのか、わからぬではないか。
 水戸中納言光圀は、湊川に石碑を建てて、『嗚呼忠臣楠氏之墓』と書かれたが、尊氏のために石碑を建てたものがどこにあるか。
 考えてみると、正成は戦いに敗れたが、誠の道で勝ったのである。我々はぜひとも勝たねばならぬのであるが、よしや戦いには敗れても、この誠の道に立つならば、精神において勝つ、結局は必ず大勝利であるぞ」
 というと、坂本龍馬は気を取り戻し、
「君は変わったことを考えているの」
 と元気づいて、外の3藩のものもみな元気になる。

 このなかで、坂本龍馬は書物を読まない男、剣道は5段だと紹介されている。

 長州藩の木戸孝允(桂小五郎)のなかでも、「湊川の戦い」関連がでてくる。
 禁門の変の直後から、京都留守居役だった桂小五郎は、德川幕府に追われる立場になった。ひそかに身を隠し、出石(いずし)に250日間潜伏していた。
 やがて、下関に帰る途中、大坂から船に乗り、神戸で上陸し、湊川で楠正成の墓所に参った。と同行した広戸直蔵(ひろとなおぞう)が書き残している。

 桂小五郎は少年時代に、医者だった父親に頼んで、頼山陽の「日本外史(がいし)」「日本政記」を買ってもらったという。これを熱心に読んで、皇国思想を身につけた。この湊川の戦いの楠正成の「死の戦いの決意」をつかい、長州藩の結束にむすびつけた人物である。

『足利尊氏は水軍の大将なり、足利直義(ただよし)は陸軍の大将になっていた。陸軍は総勢50万と称していた。正成は手勢700人を率いて、湊川に陣していた。~』
 頼山陽は日本外史で、そう表現している。

 この皇国史観は尊王攘夷運動の柱となった。明治からは政治思想の中心に座った。さらに大正、昭和20年の太平洋戦争の終結まで国民に深く入り込んでいる。
 幕末史を書く以上は、尊皇派の考え方は避けて通れない。いちどは訪ねておこうと、神戸駅で下車し、湊川神社に出むいた

 東広島を朝に出発し、姫路城で4時間以上も過ごしたので、湊川神社には午後5時半だった。資料館にも、水戸中納言光圀が湊川に建てた石碑『嗚呼忠臣楠氏之墓』も囲いがしてあって、内(なか)に入れなかった。
 社務所の巫女がいたので、資料を2冊買って後にした。
 
 境内に掲げられていた、大看板の『大楠公御一代記』があった。購入本を読めば詳しくわかることだが、せっかく同神社に来たらからと思い、隅々まで読んでいた。
 可愛い顔の巫女が小走りでやってきた。気配をさして、ふりむくと、「忘れ物ですよ」と、デジカメを届けてくれた。本を購入した時、ふいに脇に置いたままで、パラパラめくりながら立ち去っていたのだ。
 お礼をいいながら、「よかった、ここ数か月撮ったデータがバックアップなしで、そのままだった」と安堵した。
 
 現在、執筆中の歴史小説では、プロローグ、エピローグにおいて「広島護国神社」の巫女を登場させている。
「高間省三よりも、巫女がきわだって立ち上がり過ぎていない?」と編集者にからかわれた。
 これも、神社の縁かな、と謝意の気持ちを深めた。
 

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